2 レオナ、開かずの間の謎にぶつかる

 レオナちゃんが塾の夏期講習に通い始めて一週間ほどたった、ある日の夕方だった。

 塾から帰宅したレオナちゃんが、まるでゾンビのような足取りでリビングにやって来て、そのままソファーにばったりと倒れたんだ。


「も、もう一秒たりとも勉強できない……」


 そう言ったきり、レオナちゃんがピクリとも動かない時間が続く。

 いくらなんでも動かなすぎるぞ……。レオナちゃん、大丈夫か?

 と、リビングで身動きできずにいるぬいぐるみたちが思い始めたときだった。レオナちゃんが不意に動き出し、バタンと仰向けになったのである。


 ――良かった。レオナちゃん、生きてたよ。


 ボクが心の中でひと安心していると、レオナちゃんが天井を見上げながらぶつぶつと呟き出した。


「やっぱりそうよ、カナちゃんのいうとおりね。どう考えても、おかしい」


 ちなみにカナちゃんというのは、私塾「合格一直線」で知り合った、隣の中学校に通う同じ学年の「中田かな」という女の子のことなのだ。


 ――勉強しすぎておかしくなっちゃったんじゃないの?


 ひと安心から一転、ボクがレオナちゃんのことを心配していると、フルタイムの仕事を終えたママさんが帰宅した。

 ママさんお気に入りの、ウサギのイラストが入ったエコバッグ。

 その中から今夜の夕食の材料らしきものを取り出して冷蔵庫にしまうと、リビングへとやってきた。そこでママさんは、ソファーで仰向けになり怪し気な独り言を呟き続けるレオナちゃんを発見する。


「あらあらレオナ、大丈夫? やっぱりし慣れない勉強なんかすると、おかしくなってしまうのかしらね」

「……。ちょっとママ、いたいけな十五歳の少女に、変なこと言わないで欲しいわね。ワタシはおかしくなんかなってませんからッ! って、それよりね――」


 レオナちゃんは、がばっとソファーから起き出し、テーブルの椅子に腰かけるとこう言った。


「是非、ママにも聞いてほしいことがあるんだけど」

「な、何? 難しい受験問題のことだったら、パパに聞いてちょうだいね。私は過去にこだわらない女だし、昔の男も高校の受験問題もさっぱり忘れたわ」

「ちがうわよ、ママ。そんなことじゃない」


 肩をすくめ、レオナちゃんが右手をひらひらさせた。

 その言葉に安心したように、ママさんがテーブルに着く。


「じゃあ、何なのよ」

「今通ってる、塾のことなんだよね」


 やっぱり勉強のことでしょ――と、ママさんが顔をしかめる。

 でも、そんな表情の母親を首を振って制したレオナちゃんが、話を続けた。


「ほら、あの塾――塾長さんの自宅一軒家を改装した感じの建物でしょ? カナちゃんに聞いたんだけど、二階の奥の方に開かずの間があるらしいのよ」

「開かずの間ですって? この二十一世紀に?」

「ママ……。二十一世紀にだっていつの時代にだって、開かずの間はあるのよ。この世にミステリーがある限りね……」

「ふうん、そんなものかしらね。で、塾にある開かずの間がどうしたの?」

「それでね、開かずの間自体も怪しいんだけどさ、それはひとまず置いといて――」

「何よ、置いちゃうの?」

「うん、置いちゃう。で、問題は、今年の春からあの塾で講師を始めた、新しい先生のことなのよ。大学卒業したての若い女性講師で、坂田さかた美穂みほさんというんだけど――」

「ほーう。で、その方は美人なの?」


 レオナちゃんの話の腰を折った上で、何故か急に若い講師にライバル心を剥き出しにした、ママさん。


「美、美人さんだけど、ママほどじゃないわね、多分……。髪は長めのお嬢様タイプだけど、うーん、ママほど清楚ではなくて、目はくりっとしてかわいいけど、えーと、ママほどぱちっとはしてなくて……」


 歯切れの悪い態度に、ママさんが鋭利なナイフのように鋭く冷たい疑いの目をレオナちゃんに向ける。レオナちゃんは、会話の矛先を変えようと必死だ。


「いや、まあ、それはそれとしてですね――その美穂先生が、クビになりそうになっちゃって、大変なわけですよ」

「クビ? 勤め始めたばかりの先生がクビって、穏やかな話じゃないわね。一体、どういうこと?」


 やっと話が本題に乗り、安堵したレオナちゃん。

 冷蔵庫からオレンジジュースの入ったペットボトルを取り出すと、コップにそれを満たして一気に飲み干し、喉を潤す。準備万端となったレオナちゃんが、話を始めた。

 以下は、レオナちゃんがママさんに説明した内容である。

 といっても、すべてカナちゃんから聞いた話らしいんだけど……。



 ――月末近くだった先週の、ある日のこと。

 その日の授業も終わり、教室でレオナちゃんとバイバイしたカナちゃんは、来月分の月謝を納めようと一人で塾長室へと出向いた。が、塾長室はもぬけの殻で、塾長が見あたらない。しばらく待ったが塾長が戻らないので、仕方なく元の教室に戻ったカナちゃんは、部屋の跡片付けをしていた美穂先生に月謝袋に入った月謝を手渡した。もちろん、塾長に渡して欲しいとお願いをして――。(ちなみに説明をしておくと、塾長は大林おおばやし建司けんじという名前の四十代のおじさんだ。学生時代は、東京の方の大学で語学の勉強をしていたらしいが……)

 カナちゃんに月謝を託された美穂先生。

 教室の掃除を済ませ、塾長室へと赴いた。が、塾長は不在だった。

 そんなに広くない一戸建て住宅なのだ。少し探せばすぐに見つかるだろうと高をくくった美穂先生だったが、意外にも見つからない。やがて美穂先生は、塾長に「事情により近づかないこと」とかねてから釘を刺されていた二階の一番奥の部屋、塾生たちの噂によればいつも鍵の掛かっていて入ることのできない「開かずの間」の前までやってきたのだった。

 と、扉の向こう側で何かがごそごそ動いている気配を美穂先生は感じた。


(使われていないはずの部屋に気配が……。もしかして泥棒なの?)


 そこは、大学卒業したての年若い女性講師だ。彼女の興味心が爆発する。人間、禁止されればされるほど、それをやってみたくなるイキモノらしい。

 美穂先生は、周りに誰もいないことを確かめると「開かずの間」の掟、つまりは『なにびとも部屋に近づいてはならない』という塾長の言いつけを無視して、ドアノブを回した。

 するとどういう訳か、いつも鍵が掛かっているはずの「開かずの間」のドアが開いたのである。


「……誰かいるの? いるのなら、出てきなさい!」


 美穂先生の問いに答える者はなかった。

 恐る恐る中へと入り、部屋の電気を点ける。そこには彼女の予想とは違って、割と片付いた感じの部屋があった。質素な事務机や本棚、そして子供用の小さなベッドが置いてあり、何となくひんやりとした空気で満たされていた。


(塾長さんのお子さんの部屋?)


 大林塾長が独身だったことを思い出し、すぐにその考えを自身で否定する。

 部屋の中の机の上に、煙草たばこが二、三本入りそうなくらいの大きさの、金属製の小物入れのようなものが置かれているのに美穂先生は気付いた。銀色に光るその筒状の物体が気になり、手に取って中を覗くようにして眺めてみる。

 蓋にあたる物はなく、中は空洞だった。

 こういう小物入れを見るのは初めてだな――そう思ったとき、廊下を歩いてこちらに向かってくる足音が聞こえた。

 気が動転した美穂先生。

 生徒からお金を預かっていたことに妙な後ろめたさでもあったのだろうか――未だにどうしてそんなことをしてしまったのかわからないと美穂先生は言っているが、何故か手に持っていたカナちゃんの月謝をとっさに封筒ごと丸め、筒の中にそれをしまい込んでしまった。

 直後、部屋の入り口付近に姿を現したのは塾長だった。


「そこで、何をしている? この部屋に近寄ってはいけないと言ってあったはずだ」


 塾長に一喝された美穂先生は、すぐに部屋を出て「すみません」と頭を下げた。

 美穂先生に立ちはだかるように部屋の入り口で仁王立ちした大林塾長は、振り返って、ぐるっと一周するように部屋の中を眺めまわした。美穂先生が部屋を荒らしていないか、確かめたのだろう。

 事務机の辺りの様子も気になっていたようだ。

 やがて安堵したらしい塾長は、大きな息を吐き出した後、部屋の電気をぱちりと消した。そして、ドアノブの鍵穴に鍵を差し込むと、素早くそれをがちゃりと回した。


「あ、何やってるの、私!」


 美穂先生が、部屋に置き忘れたカナちゃんの月謝のことを思い出す。

 塾長に「部屋にあった筒のような入れ物に預かったお金を入れてしまったのでもう一度部屋に入らせて欲しい」と懇願するも、「この部屋は長らく使っていなく、そのようなものは部屋にない」と塾長は入れ物の存在そのものを否定するばかり。

 執拗に食い下がる美穂先生に、


「そこまで言うのなら、特別に部屋をもう一度見せてあげましょう。でももし、そんな入れ物がなかったら、月謝泥棒として塾をやめてもらうこととなりますが、それでよろしいですか?」


 と、自信有り気に塾長が言う。

 当然、その条件を呑んだ美穂先生。ついさっき、実際にそれを手にしたのだ。塾長は部屋の中に入らなかったし、机の上にそれがあることは確信していた。

 ズボンのポケットから鍵を取り出した大林塾長が、部屋の鍵を開ける。息を呑む美穂先生の目の前で扉を開け、ぱちりと部屋の電気を点けた。


「どうぞ、見てください。そんなものはないでしょう?」


 部屋に飛び込んだ美穂先生が、事務机に視線を向ける。

 しかし塾長の言う通り、机の上には何も載っていなかった。


「そ、そんな……。さっきは確かにそこにあって、お金を入れたのに」


 机に走り寄り、机の周りも含めて捜し回ったが、見つからない。

 誰かが部屋にいて隠したのかも――という疑念の湧いた美穂先生。机ばかりではなく窓の施錠状態を確認する。クレセント錠が内側から掛かってかかっていて、誰かが部屋から出ていったような形跡はなかった。

 が、窓ガラスの隅が割れて、握りこぶしの大きさほどの穴が開いていた。

 塾長に訊くと、「近所の子どもが投げた野球のボールが当たって欠けたもので、直そうとは思っているのだが、忙しくてそのままにしている」とのことだった。

 結局、美穂先生の主張は聞き入れられず、「真赤なウソ」という判定が下される。

 その後、塾長とは何度か話し合っているものの、美穂先生はカナちゃんの月謝を弁償した上で、近々塾を辞めることになった――



 一気に話終えたレオナちゃん。

 渇いた喉を潤すべく、もう一度コップにオレンジジュースを入れて、ごくりとやった。ふと見ると、ママさんはいつの間にやらポテトチップスの袋を開け、モヒモヒとそれをかじっていた。


「どう思う、ママ?」

「ま、その程度のことなら……」


 手についたポテチのカスを払うようにパンパンと手をはたいたママさんが、椅子から立ち上がった。


「パパに訊いたらいいんじゃない?」


 ずるっと、レオナちゃんが椅子から滑り落ちる。

 キッチンに移動したママさんは、今晩のご飯をつくりながら鼻歌を歌い始めた。

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