1 ペンギンの溺死

「おい、コーハイ。レオナちゃんは、もう自分の部屋で寝たよな?」


 この話の主人公、「リーバー先輩」がボクの耳に口を近づけて、そうつぶやいた。

 ちなみに、リーバー先輩はゴールデンレトリーバーの子犬のぬいぐるみ。

 毛並みは茶色というより金色、しっぽはぴんとして長く、いつも何かしら不満がありそうにちょっと口元を曲げているのが特徴だ。ぬいぐるみ仲間から聞いた話では、先輩がこの家にやって来てからもう五、六年くらい経つそうである。

 それに比べ、ボクはまだこの家に来て数カ月の身。同じ子犬のぬいぐるみなので、先輩や仲間たちからは「コーハイ」と呼ばれることになった。

 ……あ、それからもう一つ説明すると、レオナちゃんは今年十三歳になるこの家の一人娘で、ボクたちのご主人さまなのだ。


「きっともう、寝たっスよ。家の電気がすべて消えてから、もう二十分以上は経ったッスからね」


 ボクは、いつものように結構適当な感じで先輩の質問に答えた。

 ビーグルの子犬のぬいぐるみであるボクの耳は先輩のそれと比べても長く(自慢の耳なのだ)、ボクが発した言葉に合わせてそれらがゆさゆさと揺れたのがわかった。

 先輩はボクの言葉が気に入ったらしく、満足そうに微笑ほほえむと言った。


「よしっ! それなら、レオナちゃん部屋の探検に出発だ!」


 先輩は、誰がどう見てもただの子犬。

 だけど、自分のことをオオカミの子孫だと常日頃から言い切っているほどに肉が大好きなのだ。ぬいぐるみの掟で人間が起きている間は動けないけれど、夕食などに肉料理が出ると先輩は今にもヨダレを垂らし、料理にかぶりつきたいのを必死で我慢しているのがすぐ横にいるボクにヒシヒシと伝わってくる。

 特に、今日の夕飯のように骨付きの肉が出た時は大変だ。


(あの肉の付いた骨をしゃぶって、そのあと家のどこかに隠したい!)


 と、考えている内容が簡単にわかるくらい、先輩の黒く円らな瞳が血走っている。

 夜になってボクたちの時間になり、レオナちゃんの部屋を探検しようと言いだすのもきっと、いつかはテーブルの上の骨付き肉を人間には見えないほどのスピードで動いて奪い取って、それを隠す場所を探したい一心なのだろう――。

 勝手にそう思っているボクは、黒く短かいしっぽ(しっぽの長さは、先輩にかなり負けているのだ。残念ながら)を精一杯立てながら答えた。


「OK。れっつら、ごぉッス!」


 だって、ボクも骨付き肉が大好きなんだもん……。いつかは、それを心ゆくまでしゃぶり尽し、堪能してみたいものだ。


 人間なら多分真っ暗にしか見えないであろうリビングをスイスイと進んでゆく、ボクたち。人間には見えなくても、ぬいぐるみの目にははっきりと見えるのだ。

 廊下を過ぎ、先輩とボクがレオナちゃんの部屋の前にたどり着く。

 音をたてないよう、そっと部屋のドアを開けようとしていた(この家は部屋に鍵をかけない習慣なので、ぬいぐるみでもドアを開けられる)、まさにその時だった。

 ぎゃああ!

 ボクらの背後で、ぬいぐるみの発する悲鳴(人間には聞こえない周波数だろうけど、ボクらには金切り声のように響く声だった)が聞こえたんだ。


「あれはギンの声っスよ……」


 そうつぶやいたボクに、きりっときびしい眼をした先輩が、軽くうなずいた。

 ちなみにギンっていうのは、青い、オスのペンギンのぬいぐるみ。

 先輩はゴクリ、と咽喉のどを鳴らすと、


「これは事件の匂いがするな……。行くぞ、コーハイ!」


 と吠えるようにこれまた人間には聞こえない周波数で叫び、声のした方向に向かって一目散に走って行った。当然、ボクもそのあとに続く。

 廊下を音も無く疾走し、お風呂場へと続く引き戸の前にやって来たときだった。

 三匹のぬいぐるみの仲間たちが、そわそわしつつ、心配そうな顔をしてそこに立っていたのである。


「お前たちも聞こえたか」

「ええ、もちろん。あれは間違いなくギンの声ね。聞こえたのは、ここからよ」


 先輩の質問に自信ありげに答えたのは、ミミだった。

 ミミは、この家の古株のウサギのぬいぐるみで、レオナちゃんが産まれたときに、この家にやってきたそうである。おなかにはやや重たいオルゴールが入っていて、「レオナちゃんが赤ちゃんのときは、オルゴールの音色をレオナちゃんに聞かせて、よくお昼寝をさせていたものよ」というのが、彼女の口癖であり、自慢なのだ。


「でも、ここはお風呂場よ。私たちぬいぐるみの大敵である『湿気』のかたまりみたいなところに、わざわざ行くかしら?」


 ミミに反論するように横から口を出したのは、ヒツジのぬいぐるみのメメだった。体はピンク色のモコモコした毛糸で覆われていて、特に今の季節はあたたかそうである。やさしい顔をしてするどいツッコミをするのが、彼女の得意技なのだ。


「もしかしたら……ペンギンの血が……騒いだのかも……ね」


 ぽつりぽつり、のんびりと穏やかな目をしてそう言ったのは、オスの緑色のカメのぬいぐるみで、その名もカメと呼ばれているぬいぐるみだった。一年前、この家の家族が沖縄に旅行に行った際にレオナちゃんが気に入り、現地から連れてきたそうである。


「何よ、ペンギンの血って!?」


 メメが黒く円らな瞳(ぬいぐるみは大体そうなんだけど……)をくりりと向け、カメに訊いた。


「だって……ペンギンだもの……泳ぎたいに……きまってる……でしょ」

「ペンギンといったって、ぬいぐるみなのよ。泳げるわけないじゃない!」

「ああ、じれったいわね!」


 メメとカメの会話をさえぎったのは、ミミだった。


「とにかく、中に入ってみましょ! ここからギンの声が聞こえたのは、間違いないんだし、ギンのことが心配だわ」


 リーバー先輩は、ミミの顔を食い入るように見つめたあと、


「ミミの言うとおり、ギンのことが心配だ。とにかく行ってみよう」


 と言って、引き戸に鼻をねじ込むようにしてと脱衣所に入る戸口をこじ開け、風呂場の脱衣所に飛び込んで行った。それにボクが続き、そのあとをミミ、メメ、カメが続いた。


「ぐはっ、体が重いっス!」


 ボクたち五匹のぬいぐるみにとってそこは、まさに地獄の世界だった。体中の綿という綿が空気中の水分を吸い取ってぐっしょりとなり、体がまるで鉛の重しをつけたように動かなくなってしまったのだ。

 浴室へと続く扉は、何故か開いている。

 先輩は勇気を振り絞るようにして、まだ熱気がムンムンと感じられる浴室に首を突っ込んだ。


「クンクン……。これはギンの好きな魚の匂いだぞ。もしかして、アイツ――」


 先輩は強烈な湿気をものともせず浴室の中へと突っ込んで行った。そして、浴槽へ落ちないよう壁の隅ををひょいひょいと登って、シャンプーの置いてある人間の背丈ほどの高さにある棚の上に踊り上がった。

 と同時に辺りに響いた、先輩の声。


「ギンだ! ギンが、風呂でおぼれてる!」


 ひゃあぁ!

 ウサギのミミとヒツジのメメの悲鳴が、同時にあがった。

 ボクは悲鳴をあげず、中の様子を確かめようととっさに首を浴室の中に突っ込んだ。確かに、腐った魚のような匂いが充満している。先輩の応援に駆けつけようと動き出したボクを、先輩はきつい調子でそれを制した。


「ダメだ。来るなコーハイ! もしかしたらこれは、事件かもしれないのだ。現場をむやみに荒らしてはならない」


 多くの水分を吸ったとはいえ、さすがは身の軽い子犬のぬいぐるみだ。

 リーバー先輩は、ひょこひょこと飛び跳ねながらも浴槽には落ちないよう用心深く足元に気づかいつつ、浴槽のへりへとやって来た。


「ギンと、ぴかぴかのサンマが浮いている……。このサンマが欲しくて浴槽に近づいたギンが、勢い余っておぼれてしまったのか?」


 先輩は、浴槽の中に浮かぶ、水を含んでぷっくりとふくれた青いペンギンのぬいぐるみを口にくわえると、それをボクの目の前に放り投げてよこした。続いて、銀色に光る一匹のサンマも――。いつそうなったのかわからないが、サンマの背びれが少しちぎれている。

 浴室の洗い場の床にびしゃりとたたきつけられたギンは、ピクリとも動かない。

 青い色のペンギンのぬいぐるみは、体中の綿が水分でぶくぶくに膨らんだ状態ですでに事切れている。


「ぬいぐるみとはいえ、ペンギンが溺死できしするなんて……」


 ショックを隠しきれないウサギのミミが、ぼそり、つぶやいた。

 緑色のカメは、まばたきもせずに前を見つめている。ショックで動けないのか、それとも展開の速さについて来れないのか、定かではない。

 ギンの横で、彼と同様、溺死してしまったかのように横たわる一匹のサンマに目を向ける。

 どうやらこの魚は、冷蔵庫にあった冷凍品であったらしかった。完全に解け切っておらず、まだ体がこわばったように突っ張ったままなのだ。


 なるべく浴室の隅を歩くようにして、先輩がこちらに戻ってきた。その表情は硬く、何かを深く考え詰めているかのようだった。

 皆の前にたどり着いた先輩はすぐに口を開き、決意を秘めた表情で、こう宣言した。


「ではこれから、『ぬいぐるみ犬探偵 リーバー』による『殺ぬいぐるみ事件』の捜査を始める」

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