第22話

 その問いかけにハッとして彼の視線を辿る。


「母、さん? どうしてここに――」


 アエルの目には暗がりのせいでシルエットしか見えなかった。

 しかし、歩き方から母親だと娘であるアエルにはすぐに分かった。


(家を出るところを見られた? いや、でも、私以上に混乱してた母さんが気づけるとは思えないし、タイミング的にもおかしい)


 やがて月明かりと遠くの電灯、そして彼女自身が持つ理術を用いない携帯用のランプでも顔が分かる距離になる。その僅かな光は、彼女の表情に湛えられた怒りと怯えと侮蔑が綯い交ぜになった感情を顕にしていた。


「アエル! 早くその亜人から離れなさい!」


 それはまるで人語の通じない野蛮な獣を前にした人間のようだった。


『どうやら、お前の母親はお前程聡明じゃないらしい。亜人に対する蔑みが痛い程伝わってくるな』


 戒厳の怒りと言うよりもむしろ哀れみの色の濃い言葉に、アエルは僅かばかりの共感と悲しみを抱いてしまっていた。

 この母親の姿はレクトゥスのほとんどの者と重なる。


『他の知性を蔑ろにする時、人はケダモノに堕ちる。そんな者は善良な「人間」にとって害悪だ。だから、人殺しが悪だとしても、俺はケダモノを殺す』


 しかし、続いた言葉の真意に気づき、アエルは思わず母親の前に駆けて戒厳の前に立ち塞がった。

 彼はアエルの目の前で母親を殺し、その上でまだ同じことをアエルが言えるか試そうとしているのだろう。


「母さんは、殺させない」

『武器を捨てたお前に何ができる』


 そう冷たく告げると、戒厳は再度懐から仮面を取り出した。

 そして、それを被ると剣を仰々しく上段に構えた。


「ア、アエル! 下がって!」

「駄目! 母さん、前に出ちゃ――」

『どちらでも構わないが、無駄なことだ』


 緩やかに一歩足を踏み出しつつ、茶番を見るような冷めた目を向けてくる戒厳。


『この付近には不活性化結界が張ってある。理術は使えない。ここではお前達はお前達の言う亜人と同程度の存在に過ぎないことを自覚するんだな』


 その言葉に母の顔は見る見る内に怒りに染まっていった。

 それは彼女にとって恥辱以外の何ものでもなかったのだろう。


「わ、私を亜人と言うの!?」

『いや、お前達も俺も同じ人間だと言っただけだ』

「ふざけないで! 汚らわしい! お前達はただの獣。私達人間とは違う存在よ!」

「か、母さん……」


 罵倒の言葉を並べる母親の姿に、アエルはただただ悲しい気分になった。

 たとえそれが愛する夫を殺された憎しみ、そして同時に娘を心配する気持ちから来ているものだったとしても。

 だからこそ、それは本心だとも言えるから。


「母さん。それは違う。亜人なんて存在、この世にはいないよ」


 結局、それはかつてそう思っていたように架空の存在に過ぎなかったのだ。

 この世界にいたのは同じように憎しみを抱き、同じように過ちを犯す人間だった。


「アエル、何を言っているの!? それはお父さんを殺したのよ!?」


 母親が感情を顕わにすればする程、アエルの感情は急激に冷めていった。


「でも、父さんだって彼の家族を奪った」

「亜人なんていくら死のうと関係ないわ! 人間の命の価値に比べたら!」

「そんな、それは、違う」


 その言葉を前に、アエルはまだ少しだけ迷っていた一つの考えを決心に変えた。

 いくら母親であっても、少なくともその考えは絶対に間違っているし、許してはいけない。その考えを植えつけたレクトゥスという国もまた。そう思ったから。


「……母さん。この場は早く逃げて」

「何を言っているの! アエルも――」

「ごめんなさい。母さん、私はレクトゥスを出ます」


 アエルが振り返ってそう告げると、彼女は信じられないものを見るような、愕然とした表情になった。


「このままだと、多分レクトゥスに未来はないよ。そんな狭い考えしかできないような国には」


 きっと数年もしない内にただ物量しか誇れない国になる。

 他の二国は才能ではなく、努力と工夫でレクトゥスに対抗してきたのだから。

 レクトゥスは変わらないままだが、きっと二国は更に進歩していくに違いない。

 いや、もうその兆候はあるのかもしれない。戒厳の力を見ればそれが分かる。


「だから、私は外の世界、他の国を見たいの」

「アエ――」

「アエル!」


 怒りともつかない形相で伸ばしてきた母親の手よりも先に、突然戒厳が叫びながらアエルの手を強く引いた。

 そして、アエルは彼の胸に引き寄せられ、その場から飛び退る彼の動きになす術もなく従った。


「え?」


 その行動の意味が分からず、間の抜けた声を出してしまう。

 加えて次の瞬間、アエルの視界は暴力的なまでに眩い光に包まれ、だから、アエルは完全に思考が停止してしまっていた。


(……何、この、臭い)


 真っ先に警鐘を鳴らしたのは光に眩まされた視覚ではなく嗅覚。


『……全く、人が焼ける臭いは、最悪だ。あの日を思い出す』


 次いで苛立ったような戒厳の言葉を受け止める聴覚。

 戒厳の怒りを示すように強く抱き締めてくる彼の力を感じ取る触覚。

 その二つが、事態が急変していることを知らせてくるが全容は掴めない。

 いや、戒厳の言葉から推測は立てられたが、アエルには信じられずにいた。


「な、何が」


 そして、ようやく機能を取り戻した視覚が真実を突きつけてくる。

 いつの間にか位置関係が変わり、数メートル離れた位置から先程まで母親がいたはずの位置を視界に捉えている。

 そこでは黒焦げになった人型の何かが、今正に崩れ去るところだった。

 周囲を焼く炎が照らし、その様子ははっきりと目に届いた。


「か、母、さん?」


 アエルは呆然と呟いた。体が微かに震えているのが分かる。


「い、いや、母さん! いやあああっ!」


 母親の場所へと向かおうと戒厳の腕を振り解こうとする。しかし、彼の力はアエルがどうにかできるものではなく容易く抑え込まれてしまう。


「は、放して! 放してよ!」

『やめろ。今、出ていくのは危険だ』


 戒厳の言葉は耳に入らず、アエルはもがき続けた。


『久し振りだな。亜人君』


 次の瞬間、その場に嫌味たらしい声が響き、動きを止めて空を睨みつける。


『あの工場の時の――?』

「カリダ!」


 その声の主が、あの男が母親を殺したのだと気づき、その名を叫ぶ。


「か、母さんを、よくも!」


 無意識に流れ出した涙のせいか声は掠れ、言葉は虚しく場に溶けて消えてしまう。


『不活性化結界内から理術で音波を強化しようとしても無駄だ。奴にまでは届かない。奴のように結界の範囲外から音波を強化するのならともかくな』


 冷静に戒厳が何かを言っていて、アエルの耳にも入っていた。

 だが、アエルの意識は完全にこの空のどこかにいるカリダに向いていた。


『あの工場での失態のせいで私への信頼は失墜してしまった。しかし、フォルテを殺したお前を単独で殺せば、私の評価は前以上のものとなる。ついでに奥さんとお嬢さんは亜人に殺されて死んだことにさせて貰おう。亜人の危険性が増し、私の評価向上に繋がるだろうからな』

「ふ、ふざけないで! そんな、そんな理由は絶対に許さない!」

『お嬢さんはまだ生きていますか? どのようにして亜人などと知り合ったのかは知りませんが、助かりました。奥さんにも非常に役立って貰いましたよ』

「な、何を言って」


 届いていないはずのアエルの言葉に応えるように、カリダは嘲るような口調のまま続ける。


『お嬢さんが亜人に会いに行ったかもしれないと言ったら、奥さんは慌てて追いかけて行きましてね。いい目印になってくれましたよ』

「あ、貴方が、母さんを、ここに?」

『亜人よ。どうやら、貴様の力の範囲は半径五〇〇メートル程度のようだな。そして、完全に理術を使用不可能にするのは三〇〇メートル前後。そこから先は思念波の伝達を阻害する程度か』

『……他の理術師を警戒して、最大レベルで不活性化結界を張っていたのが仇になったらしいな。まあ、近づけば済む話だが』


 苛立たしげに呟き、戒厳が光の発生源へと一歩踏み出す。


『今、近づけばいいと考えたな?』


 次の瞬間、全く別の方向から二つの閃光が走り、先程の光の柱が突き刺さった場所へと寸分違わず降り注いだ。

 力を二分したかのように威力は低い。それでも直撃すれば一溜まりもないだろう。


『少しは頭を使って来たか。どうやら弱者としての自覚ができたらしい』


 皮肉げに言うと戒厳は三方向に視線を順に向けた。

 光の角度と彼の顔の向きから、それらが全て空にあることが分かる。しかし、それぞれの角度から見て、そう高い位置にはいないようだ。


『奴の思念波が同時に三ヶ所から観測されているな。そのどれもが五〇〇メートル以上離れている』


 冷静に分析する戒厳。

 その間にも公園の木々に炎が広がり、周囲の明るさが増してしまっている。

 これでは居場所を視覚的に把握されてしまいかねない。


『貴様の力は限られた範囲にしか通用しない。ならば、レグナを糸状にして効果範囲外まで伸ばせばいい。有線による遠隔操作。これが貴様を殺すための答えだ』

『発想は悪くない。実際、俺の体にも使われている思想だからな。しかし……どうでもいいが、最初の印象通り自己顕示欲の強い奴だな』


 相手には届かない嘲りと共に深く嘆息する戒厳。

 まるでオチが分かって、その下らなさに興醒めしたかのような表情だ。


『では、絶望を抱きながら、私の名誉のために、死ぬがいい』

「名誉のため、ですって――!?」


 その身勝手な言葉に完全に頭に血が上る。

 否定していたはずの戒厳の道が頭を過ぎってしまった。

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