5B 仇
第20話
人々の慌ただしく動き回る物音と母親の慟哭によって、アエルは目を覚ました。
「な、何?」
小さく自問しながら、部屋の壁にかけられている時計に目を向ける。
時刻は夜の一時を少し過ぎたところだった。
ベッドを出て、とりあえず普段着に着替えてから自室の扉に近づく。
アエルはそのドアノブに手をかけて、しかし、開くことを躊躇った。
この扉を開けてしまえば、何か大切なものを失ってしまうような、そんな予感がしたからだ。
このままもう一度ベッドに潜り込み、耳を塞ぎ、眠りに落ちてしまえば、少なくとも朝までは何も知らずに済むかもしれない。
(母さんが、泣いてる……?)
アエルはその意味を直感的に気づいてしまっていた。
だから、無意識の躊躇を振り切るように自室を出る。
今そうしなければ、きっと一生後悔し続けることになると思ったからだ。
一階のエントランスに母親はいた。想像以上に取り乱している。
使用人達もある者は泣き、ある者は怯え、またある者は現実逃避をしているかのように呆然と立ち尽くしていた。
そんな家の者の様子を、玄関の扉の前であのカリダが蔑むように眺めていた。
(何よ……その顔は。犯人を取り逃がした揚句、重傷を負った癖に)
昨日、いや、もう一昨日か。
彼の失態はアエルの耳にも入っていた。
内臓が破裂するなど、それなりに酷い怪我だったらしいが、既に医用理術によって完治しているようだ。生理的嫌悪感を受けるような雰囲気は全く普段通りだ。
状況が状況だけに、アエルには彼が咽び泣く母親を嘲っているように見えた。
(医用理術の効果があるぐらいまで弱ってた癖に)
本来、理術は人間の肉体には直接干渉できない。つまり、直接相手の肉体を破壊したりはできず、逆に癒したりすることも不可能なのだ。
意識がある限り、人間は無意識に自分の身を守るように思念波を発しているためだ。自身の肉体に干渉することを目的とした思念波が向けられると逆位相の思念波を出し、完全に無効化するらしい。
ただし、あくまでも意識がある場合のみであり、麻酔などで脳機能を一時的に低下させることで理術による治療が可能となる。
また、レグナを相当量用いれば意識があっても干渉は不可能ではないそうだ。
肉体の再生、病巣の除去。まだ生きてさえいれば大概の病、怪我は即座に治すことができるのだ。それが人口問題の大きな要因でもあった。
そう。生きてさえいれば、深い傷を負おうとも何の問題もないのだ。
だが、死んでしまった者は甦らせることは決してできない。
たとえ国中の理術師を集めて、世界中のレグナを用いようとも、だ。
アエルは本当なら同じ空気も吸いたくないカリダに近づき、母の涙の訳を尋ねた。
脳裏に浮かぶ可能性を必死に打ち消しながら。
「フォルテ総督が、貴方の父君が亡くなりました。亜人に殺されたようです」
「う……嘘」
ほとんど抑揚なく、ただ淡々と事実を連ねるような事務的な口調で告げられ、逆にアエルは現実だと思えなかった。
いや、本当は余りにも分かり易過ぎて、理解を拒んでいたのかもしれない。
「ちょ、ちょっと、待ってよ。父さんが、そんな簡単に――」
アエルはそう言いながら、心の中でそれを想定していた己を全力で否定していた。
フォルテを父親として確かに尊敬してきた十五年間の想いの積み重ねが、それを納得しそうになっている自分を強く拒絶している。
「あの父さんが、致命傷を負ったりする訳が……そうよ、あの十年前の戦争でだって、ちょっとした傷は負ったけど、そんな、全然……」
「これまでの殺害方法とは明らかに異なっています。使用された凶器は同一のものと思われますが――」
アエルの動揺など意に介していないかのように、あるいは、そんなアエルの姿を楽しんでいるかのようにカリダが言葉を続ける。
「両腕と腰から下が切断され、頭部は砕け散り、原形を留めていませんでした」
「――っ!」
余りにも無惨。
アエルはその言葉が示す光景を想像しようとして、しかし、できなかった。
想像力が全く追いつかなかった。
そんな場面に遭遇したことのないアエルに、追いつけるはずもなかった。
むしろこの場合は想像などできなくてよかったのかもしれない。
だが、そこにある強い、余りにも強過ぎる憎しみだけは痛い程に感じ取れる。犯人の動機、殺人の理由がそれであることが強烈に示されている。
そして、アエルは一度それを理解し、納得しそうになったこともあった。
しかし、それでも家族として過ごした時間の重さが、それを許してはならないと厳しく主張していた。
その主張はきっとどこまでも正しい。正しくなければならない。
「床には犯人の書いたと思われるメッセージがありました。あの場所で待つ、と」
アエルはその言葉にハッとしたように顔を上げた。
自分に宛てたものだと直感して。
(やっぱり、そうなの?)
納得するような感情が心のどこかに生まれる。
しかし、それも無理矢理否定する。
おかしいではないか。父親を殺されていながら、納得してしまうなんて。
「どうかなさいましたか?」
「な……何でも、ない」
訝るような視線を向けてくるカリダから視線を逸らし、アエルはそれだけをやっと呟いた。
アエルの心には強い感情が溢れていた。
今、その中で最も強いのは憎悪だとハッキリ言うことができたが、その矛先がどこに向けられているのかは何故だかよく分からない。
何より、それ以外の様々な感情も同時に複雑に絡み合っていて、アエルの思考は完全に混乱してしまっていた。
父親との十五年間の記憶。
その信頼に疑問を持たされた戒厳との会話。
彼から感じた優しさとその奥に見えた深い悲しみと一握りの絶望。
それら全てが思考に上り、頭がパンクしてしまいそうな感覚に囚われる。
(もう、これ以上考えてられないよ)
だから、アエルは最も単純な選択をした。犯人に憎悪のみを向けることを。
そうしなければ、自分自身が壊れてしまいそうだったから。
(父さんの、仇を、取らなきゃ)
物置に行ってフォルテの予備の杖を持ち出し、誰にも気づかれないように注意しながら屋敷を出て走り出る。あの場所へと向かうために。
たった二度会っただけ。
だが、色々なことを話し、自分自身の無知に気づかされた。
もしかしたら、彼に対して抱いた感情の中には友達へのそれだけではなく、年相応の淡い何かも僅かながら生まれつつあったのかもしれない。
だが、今はもう分からない。様々な感情の中に埋もれ、潰えてしまった。
(戒厳……)
アエルは全ての雑念をかき消すように走った。
息が乱れる。それは決して無理な走り方をしているからだけではないだろう。
それでも速度を緩めることなく全力で、アエルの周囲だけを照らす街灯の下、慣れ親しんだ順路を駆けていく。
風景は記憶の通り、順番通りに変わっていくが、いつもと同じ光景には見えない。
深夜なのだから当然と言えば当然だ。しかし、それだけでなく、闇の中へと向かっていくような錯覚に囚われているせいでもあるだろう。
そして、アエルは至った。街外れにある、ただただ広い公園に。
戒厳にはその場にいないで欲しかった。そうすれば、全ては単なる偶然。犯人をただ純粋に憎んでいればいいのだから。
そんなアエルの願いとは裏腹に、果たして彼はそこにいた。
背を向けてはいたが、アエルには彼だと分かった。
しかし、どういう訳か存在感が薄い気がする。
彼だけでなく、この近傍全体が作りものめいているような違和感がある。
まるで、普段対象を認識するために使っている感覚の内の一つが機能していないかのようだ。とは言っても、彼を前にして、そんな瑣末なことに気を取られている余裕はアエルにはなかったが。
「戒厳……こんな時間に、こんな場所で、一体何をしてるの?」
何故か周囲の街灯が消えてしまっているがために、遠くの電灯と僅かな月明かりのみに照らされたその背中に向けて、努めて冷静に話しかける。
『アエルか。床に書いたメッセージは届いたみたいだな』
振り返りつつ、どこまでも冷たい声で戒厳が言った。
その言葉に重なるように聞き慣れない単語の羅列が耳に届く。
どこか響きはアシハラのものに似ているが、また異質な言葉。
何故重なるように聞こえてくるのかは分からないが、それこそレクトゥスの人間が亜人と呼ぶ者の言葉なのだと直感する。
(つまり――)
それは同時に「戒厳がこの世界の人間かもしれない」という限りなく確率の高いアエルの予想が、真実となったということに他ならない。
その事実も相まってか、まるで別人のような重苦しい気配を戒厳から感じる。
彼の顔隠す、何かを模した仮面もまたそうさせる一因かもしれない。
ダッフルコートの上から巻かれたベルトには、アエルが知る剣とは異なる独特な形状の剣が二振り提げられている。
恐らく、その内の長い方が凶器として用いられた刃物に違いない。
「やっぱり、貴方が、犯人だったの?」
『そうだ。俺が、お前の父を殺した』
そう戒厳が淡白に告げた瞬間、アエルは杖を、その先端のレグナを戒厳に向けた。
そして顔を苦悶に歪ませながら、しかし、未だ心に残る躊躇いを全て憎しみで無理矢理塗り潰すようにして叫ぶ。
「父さんの、仇!」
しかし、その声は暗闇に染み渡り、空しく消えてしまった。
「え?」
アエルは確かに理術を使ったつもりだった。戒厳を、戒厳だけでなく公園の全てを焼き尽くすつもりで一つの容赦もなく、ただ全力で。
なのに、世界は何も応えてくれなかった。
情報としては確かに知っていた。犯人が理術を封じる力を持つことは。
だが、生まれてこの方使えて当たり前だと思っていたそれを、現実に使えなかった事実はアエルの動揺を誘った。そのまま身動きができなくなってしまった。
『あの時の理術師と言い、滑稽だな。理術しかよりどころがないのか? まあ、その点で言えば、フォルテはよく対応したと言えるか』
戒厳は緩やかに剣を鞘から引き抜くと、その切っ先を向けてきた。
その間、アエルは呆然と立ち竦むことしかできなかった。
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