第17話
「そう言えば、まだ名前を言ってませんでしたね」
「そう、だったな」
「私は……アエルって言います。呼び捨てで構いませんよ」
「アエル、か。いい名前だな」
「そ、そうですか? ありがとうございます」
アエルはどこか恥ずかしそうに頬を赤らめた。
「俺の名前は――」
戒厳は少し躊躇して、自分の名前を心の中で数回呟いた。そして、語感的に違和感がないか考える。極めて日本的な名前はアシハラのものと思われかねない。
「あ、別に言えないのなら無理には」
アエルは恐らく、秘匿された事件を担当している理術師なら簡単に名を明かせない、とでも思って遠慮しているのだろう。
勘違いもここまで来ると正直心苦しいが、名を教える必要がないのは戒厳にとっては好都合ではあった。しかし――。
「い、いや、大丈夫。俺の名前は……戒厳だ」
少し楽観的な判断が過ぎるかもしれないとは思いながらも、戒厳はアエルに自身の名を伝えることを選んだ。
名乗られたら名乗るのが礼儀というものだ。東条家の家訓の一つである。
「戒厳さん。何だか珍しい感じのする名前ですね。でも、いい響きだと思います」
対してアエルはそう言って、少し嬉しそうに微笑む。
正直名前を褒められるのはくすぐったい。お世辞ではない感じだけに特に。
彼女が自分の名前を褒められて恥ずかしそうにしていた理由がよく分かる。
「どうせだから俺の方も呼び捨てにしてくれ。それと、今更だけど態々丁寧語を使わなくてもいい。そんなに歳も離れてはいないだろうし」
何より、人殺しは敬意を表されるべきではない。
「え、でも……」
「頼む」
アエルの碧眼を真っ直ぐに見詰め、真剣な声色で乞う。
「えっと……急には、難しいと思いますけど……うん、じゃあ、努力して、みるね」
彼女は少し戸惑った様子を見せていたが、しっかりと頷いて早速砕けた話し方をしてくれた。
「努力、してみるけど、戒厳って何歳なの?」
「十七歳だ」
「じゃあ、二つも年上だ」
と言うことは、アエルは十五歳。サクラと同い年だったようだ。
外見的に年下なのは確信していたが、正直会話の感じからはサクラよりは年上という印象を受けていたのだが。
あるいは、サクラの場合は、妹フィルターによって実際以上に幼く見えているのかもしれない。戒厳はそう思った。
「やっぱりため口は失礼なんじゃ――」
「いや、いいんだ。最近、こうやって気安く話せる人が少なくてさ。友達とも全然会っていないしな」
と言うよりも、この世からいなくなってしまった可能性の方が高い。
万が一免れた者がいたとして、彼等にとっても戒厳は死んだようなものだろう。
そう思うと、やはり寂しさの感情が募る。
同時に復讐心が鎌首をもたげるが、アエルの手前その感情は胸の奥で抑え込んだ。
「友達? ……そっか。友達、か」
アエルは静かに、目を閉じて確かめるように呟いた。
「どうした?」
「うん。……ちょっと、ね。私って友達いなかったから」
恥じるように顔を伏せながら呟くアエルの言葉を戒厳は意外に感じた。
「あ、意外だって思った?」
表情を読んだのか苦笑いするアエルに戒厳は正直に頷いた。
昨日自分から話しかけてきたことと言い、そうした彼女の積極さと会話から抱いた印象では、友達の一人や二人簡単に作れそうに思えたからだ。
「家庭環境のせいかな。普通に話をしてても、壁みたいなものを感じるの」
「壁?」
「うん。小さかった頃は、そんなものなかったはずなんだけどね」
アエルは悲しそうに微笑んだ。
その碧い瞳は遠く過去を、しがらみも何もなく他者をその人そのものとして見ることができていた日々を見ているかのようだった。
何かしら差別的なものがあったのだろうか。
しかし、もし侮蔑的な感情によって傷つけられたのなら、こうして話題にするのは中々難しい気がするが。
少し疑問に思いながらも、いくら互いに名前呼びしていても知り合ったばかりの戒厳には、さすがにアエルの家庭に立ち入った質問をすることは躊躇われた。
「だから学校を卒業してからはもう連絡なんて取り合ってないし、父さんの仕事の都合でこっちの世界に来て、完全に繋がりが絶たれた、って感じかな」
「そうか……」
「あ、でも、私は全然寂しいとか思ってないよ?」
アエルは慌てたように寂しさを否定するように右手を顔の前で振ったが、その仕草はむしろ彼女の孤独感をはっきりと示していた。
「今は理術師になるための訓練で忙しいし。体を鍛えたり、勉強したり」
それはつまり、アエルもいずれは戦争に参加するかもしれない、ということか。
「だから、昨日はあんなことを聞いたのか?」
「………………うん」
アエルは決まりが悪そうに小さく頷いた。
「何で、理術師になりたいんだ?」
「父さんも姉さんもそうで、そのために頑張ってきたから」
そんなアエルの言い方に何となく違和感を抱く。それではアエル自身の想いがどこにもないように感じられるのだが。
「アエルは本当にそれを望んでいるのか?」
「え? も、勿論」
「それはアエルの両親や周りが植えつけた他の誰かの夢、じゃないか?」
まだ平凡な一市民として高校に通っていた頃「親が医者だから、自分も医者になる」と言っていたクラスメイトがいたことを戒厳は思い出していた。
それは彼自身が本当に望んでいた夢だったのだろうか。
今となっては、その真意も死の闇の中、だろうが。
「それ、は……」
違う。そうはっきりと言えないことが、その答えのような気がする。
それを自覚してかアエルの表情には困惑の色が広がっていた。
「いや、悪い。ちょっと余計なことを言ったかもしれない」
「う、ううん。そんなことない」
「ハッキリ自分の夢だと言えるなら何の問題もないんだ。でも、もし何か夢が別にあって自分の意思一つでそれを目指せるなら、それを目指すべきだと思ったから」
「……うん。それは私も、そう思う」
戒厳にもかつては相応の夢があった。
しかし、あの日以来様々なことを経験したせいか、もはやその夢を見ていた当時の自分と今の自分が余りに乖離し過ぎて何もかも色褪せてしまっていた。
だから、という訳ではないが、もしアエルに自分が心の底から望む夢があるのなら、それを追いかけて欲しい。戒厳は「身勝手だな」と思いつつ、そう願った。
「じゃあ、戒厳には何か夢ってある?」
「俺の、今の夢?」
想定していなかったアエルの返しに、戒厳は言葉に詰まってしまった。
かつての夢は文字通り夢幻と化し、決して届かない。では、今この場にいる自分には何か別の夢があるのか。
「……普通に、生きていたかった」
考えて、無意識に呟いていたそれは夢などではなく願いだった。
しかも、決して叶うことのない過去への願いだ。
あるいは、この願いを胸に持ち続けることが、人殺しに成り果てた罪に対する罰の一つなのかもしれない。
「え? 普通に?」
「い、いや、何でもない」
慌ててそう誤魔化すとアエルは訝るように首を捻ったが、それ以上は追及してこなかった。彼女もまた戒厳と同じように、知り合って日が浅過ぎるために踏み込もうにも踏み込めずにいるのだろう。
「そう言えば、戒厳は一人でこっちの世界に来たの? 家族は?」
「血の繋がった家族は……皆、死んでしまった」
「あ、ご、ごめん……」
アエルは心底申し訳なさそうに視線を下に向けた。
「アエルが謝る必要はないさ」
謝るべきは手を下したフォルテだ。
勿論、謝られたところで許せるとは思わないが。
そもそも彼は誰を殺したかなど覚えていないだろうし、考えてもいないに違いない。躊躇いも、罪の意識も欠片も存在していないだろう。
ただ空から全てを見下ろし、この地球の全てを見下し、有象無象の内の一つ程度の認識で焼き尽くしたのだ。
そんな彼が謝るなどあり得る話ではない。
「それに、血は繋がっていないけど妹がいる。俺を引き取ってくれた家の子で、俺をお兄様なんて呼んで慕ってくれている。本当に俺には勿体ないぐらいの、可愛い妹なんだ。今は離れているけどな」
サクラの笑顔が自然と脳裏に浮かぶ。
彼女という存在がなければ、あるいは、こうして敵国の女の子と穏やかに会話する程の心の余裕など持てなかっただろう。
「その妹さんのこと、大切に思ってるんだね」
「……どうして、そう思うんだ?」
「だって今、凄く優しい顔、してたから」
「そ、そう、か?」
そんなアエルの指摘に、戒厳は何となく恥ずかしくなって右手で頬をかいた。
「まあ、でも、当然だろうな。大事な、たった一人の家族なんだから」
「……そっか。うん、そう、だよね」
そう言いながら空を見上げたアエルの横顔は、何故か少し悲しそうに見えた。
そんな彼女の視線の先を辿り、戒厳もまた赤く染まり始めた空に目を向けた。
「あ、月」
言われて広大な空の中にそれを探す。
「ああ。本当だ」
遠方にある一際大きなビルのさらに上方にそれはあった。
三日月と上弦の間ぐらいの半端な形の月が。
「戒厳は月の神話って聞いたことある?」
「神話? いや、俺はそういうのには詳しくないから」
地球における月に関わる神の名ぐらいはいくらか知っている。
が、その逸話についてまでは詳細に知っている訳ではない。
それに、そもそもアエルが言っているのはテラの神話についてだろう。
ならば、皆目見当もつかない。
「昔、全ての存在を滅ぼそうとした悪い神様が月にいたらしいの。理術師達は人類の存亡をかけてそれに挑み、長い戦いの果てにようやく月の内部にそれを封じ込めることができたんだって。その時の地球からの攻撃で、月の表面にはクレーターができたらしいよ」
「……月のクレーターが、ね」
常識的に考えて内容を額面通りに受け取ることなどできはしないだろう。
確かに月の裏側には余りクレーターは見られないらしい。
しかし、人間の攻撃で、たとえ理術という地球の常識外の力がテラにはあったとしても、それで月のクレーターが生じるなどあり得ない。
何より、それの大部分は三八億年以上前に隕石の衝突などによって形成されたものと推測されているし、同時期の地球上は原始生命が誕生した頃だ。
そんな段階の地球には、理術師どころか人間もいるはずがないではないか。
(神話に成り果てた原初の歴史、と考えるのが妥当だろうな)
編纂された神話は古代の王権の根拠として作られたもの。
伝承的な神話は、口伝の歴史が語り継がれる中で神々の物語に歪んでいったもの。
加えて、神の性質は自然現象の神格化。
そうしたものの解釈の方向性は大抵決まっている。
アエルから聞いた限りの内容を簡単に解釈するなら、危険思想を持った人間をどこか遠くへ幽閉した、というような感じだろうか。
途端にスケールダウンしてしまい、何となく興醒めな気持ちになるが。
「あ、信じてないでしょ」
「ん、いや――」
「いいよいいよ。実際、誰も信じてないし。何て言うか、現在の理術師達が逆立ちしてもできないようなことを、過去の理術師にできる訳がない、ってね」
「そうだな。レグナもない過去にそれは、さすがに信じられない。けど、アエルは信じたいみたいだな」
「……分かる? 何て言うか、ロマンがあっていいかなあって」
「ロマン、か。まあ、それは確かに」
しかし、この神話が丸ごと真実だとするなら月に恐ろしい存在が封印されていることになるのだが、そこはいいのだろうか。
「にしても、そもそも、その悪い神様は何で全ての存在を滅ぼそうとしたんだ?」
「え? ……そう言えば、何でだろ」
戒厳の問いに軽く首を傾げるアエル。
往々にして昔話には、諸々の動機が丸ごと抜けていたり、現代の価値観では理解できないものだったりするものだ。しかし――。
「結果には必ず原因がある。その悪い神様にだって何かあったんじゃないか?」
そう告げると彼女は僅かに目を見開いて、それから視線を下げた。
「……この事件の……犯人、みたいに?」
そう尋ねる声は余りにか細くて、戒厳は驚いてアエルを見た。と、彼女は少し慌てたように誤魔化しの笑みを浮かべる。
その笑顔は何故か儚げに見えて、知らず鼓動が速くなった。
別に人形のように愛らしい彼女の顔に見惚れた訳ではない。
彼女の儚い笑みを見て、あの焦燥感に似た違和感が急に湧き上がってきたのだ。
「戒厳? どうかした?」
「いや――」
何となく居た堪れなくなってしまい、戒厳は静かに立ち上がった。
「そろそろ仕事に戻らないと。さすがにサボってばかりはいられない」
「あ、サボりって認めるんだ」
どこか意地悪く尋ねてきたアエルは、しかし、少しの間残念そうにしつつ口を噤み、それから再びおずおずと口を開いた。
「あの、戒厳」
「ん?」
「あ、明日も、会えるかな?」
不安げなアエルの様子に思わず約束したくなる。が、明日のこの時間には既にこの地から去っているはずだ。そうでなければならないのだ。
「済まない。俺はここを離れなければならないんだ」
「そ、そう、なんだ」
心底残念そうな表情で呟くアエル。
「……済まない」
彼女にそんな顔をさせてしまうことが申し訳なくて、もう一度繰り返す。
「そ、そんな、いいよ。仕事なんでしょ? それに、いざとなったら――」
「え?」
「えっと……うん。いざとなったら、父さんのコネで会いに行くから」
「コネ?」
「そこは気にしないで?」
はにかみながらそう言うと、アエルもまたベンチから離れた。
「じゃあ、また、ね」
「あ、ああ。……また、な」
その言葉に嬉しさと切なさが入り混じったような表情で頷いたアエルは、そのまま小走りで遠ざかっていった。
そんな彼女の背中をベンチの傍に立ったまま見送る。
彼女が言った「また」の意味を考えながら。
しばらくしてアエルの姿が完全に見えなくなってから、戒厳もまた布袋を右手で持ってその場から歩き出した。と同時に通信が入る予兆が耳に届いた。
『話は聞かせて貰いました』
『済まない。ちょっと言っている意味がよく分からない』
いくら可愛い妹のこととは言え、今回ばかりは割と本気で理解不能だった。
『実はお兄様の会話は全てこちらに筒抜けなんです』
『いや、この前サクラが不機嫌になっていた辺りで予想はしていたけど、何故今このタイミングでばらす?』
『今の会話を話題にしたかったからです!』
『そ……そうか』
余りに堂々とした宣言に怒る気もなくなる。
しかし、アエルと会ったことでまた不機嫌になっていると思ったが、声を聞いた限りではへそを曲げてはいないらしい。むしろ機嫌がいいぐらいだ。
(まあ、何かいいことがあったんだろう)
そうこう考えている間にサクラが言葉を続ける。
『それはそれとして、お兄様。今のは少しまずかったかもしれません』
『どういうことだ?』
『月の神話の話です』
『……それがどうしたんだ?』
『あれはテラではポピュラーな話なんです。それこそ、こちらの世界で言うとシンデレラとか白雪姫、日本で言えば桃太郎レベルで』
比較の対象が童話な辺り、サクラのあの神話に対するスタンスが窺えるが、しかし、それが本当なら確かに大分まずい状況かもしれない。
『世の中を探せば知らない人がいるかもしれませんし、あちらでなら笑い話で済むことです。けど、こちらの世界で、かつ事件を知っている彼女からすれば……』
戒厳と犯人を結びつける可能性は十分にある。と言うよりも、あるいは、その確証を得るためにあの話題を振ってきたのかもしれない。
『……とりあえず、この場を離れるか』
『はい。後一日もないことですから、大丈夫だとは思いますけど、その方がいいかもしれません。念には念を入れて』
『ああ』
サクラの言葉に頷いて、歩みを気持ち速める。
(彼女が「また」と言ったのは――)
そうして、そんな少しばかりの邪推を心の中で打ち消しながら、戒厳は一先ず拠点に戻ることにした。
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