第12話
「あ、あのー」
恐らく視界には入っていたが、話しかけられるとは思っていなかったのだろう。
少年は驚いたように少し目を開き、意識の焦点をこちらに合わせたようだった。
「……何か?」
それから、話をするべきか否か僅かに逡巡したように瞳を左右に揺らした後、彼はアエルを無視することなくそう返した。
しかし、その口調、表情には警戒の色が濃い。
「貴方はもしかして、その、亜人――」
その言葉に顔を強張らせた少年の様子に、アエルは彼に関する自身の推測が正しいことを確信した。
もし特に何の反応もなければ、適当に誤魔化して立ち去ろうと思っていたがそのまま続ける。
「――の事件を調査している理術師の方ですか?」
「……は?」
アエルの推測とはその言葉の通りだった。
時期的に考えても彼を見かけるようになったのは事件が起きてからだし、その手に握られている布袋に入った長い何かはレグナがはめ込まれた杖に違いない。
公園の人々を観察していたのも、不審な人物がいないか探っていたのだろう。
「い、いや、違う、けど」
少年は戸惑ったようにそう言うが、普通に考えてそんな調査をしている者が「はい、調査しています」などと素直に言う訳がない。
この街のどこに犯人が潜んでいるのか、どころか犯人の風貌すら全く分かっていないのだ。下手に身分を明かせば、自分の身が危険になる可能性もある。
しかし、この時点で彼は大きな過ちを犯している。
違うという返答は、事件を調査する理術師がいる事実を知っていなければ出てこない。秘匿されたその情報を知るのは、担当の理術師以外にはいない。
「そういうことにしておきます」
「いや、おい、話を聞けよ」
「はい。話を聞かせて下さい。事件について」
半ば強引に有無を言わせぬ笑顔を装って告げると、少年は「妙な奴に掴まった」とでも言いたげな、何とも微妙な顔と共に半眼を向けてきた。
「お願いします」
そんな彼に対し、作り笑顔を消して真剣な声で頼む。
すると、彼は諦めたように大きく嘆息して口を開いた。
「何故、君はその事件について知っているんだ?」
「えっと、それは……身内に調査を行ってる理術師がいるもので」
一瞬父親の名前を出してしまいそうになったが、この場は伏せておくことにした。
広く知られたその名を出せば、普通に話せなくなってしまう可能性が高いから。
「なら、その身内にでも聞けばいいじゃないか」
「それができないから貴方に聞こうとしてるんじゃないですか」
しかし、正直アエルは事件の情報についてはそれ程期待していなかった。
総督という立場にあるフォルテ以上に重要な情報を持つ一般の理術師など、いるはずがない。
ただ、アエルは父親や姉とは違う理術師と話をしてみたかったのだ。
「それで、何の話がしたいんだ? 俺が話せることなんて多くはないぞ」
「ええと、その、貴方は十年前の戦いには……参加してませんよね」
少年の容姿から考えて二五歳を超えているとは到底思えない。
できれば、戦争に参加していた人に率直な話を聞きたかったのだが。
「俺がそんなに歳を取っているように見えるか?」
「ですよねー」
「それが聞きたいことか?」
「いえ、その、違います。えっと、その………………貴方は自分の仕事のために人を殺せますか?」
その質問に彼は目を見開いた。それから、少しの間固く目を閉じる。
(うぅ、いきなり重過ぎる質問だったかも……)
少し後悔してアエルが「忘れて下さい」と言おうと口を開いた瞬間、彼は再び目を開けて静かに告げた。
「そこに大義があるのなら」
それは決意を秘めた強い言葉だった。
彼自身のあり方を全て表すかのような、覚悟の込められた意思表示だった。
「大義……正義ってことですか?」
「いや――」
少年は首を横に振ってアエルの言葉を否定した。
「正義とは別物だ。正義なんて概念はそもそも曖昧なものだからな。それに、曖昧なものであったとしても人殺しが正義じゃないのは絶対だ。だから……理由、とか言った方が正確かもしれない」
「理由、ですか?」
「ああ。人殺しは悪だという真っ当で絶対の倫理観を乗り越えて尚、相手を殺すことができるだけの、理由だ」
(乗り越えられる、乗り越えてしまう、理由……? それは――)
何となく、アエルはそれが後づけの結果論のような気がした。
「本当にそんな理由がこの世にあるんでしょうか」
暇潰しにたまに読む小説には人を殺すための多くの理由が描かれている。
その中にはアエルも共感してしまいそうになる理由も確かにある。
しかし、だからと言って、彼の言う通り人殺しが悪ならばたとえ理由があろうとなかろうと、何があろうと認めてはならないのではないか。
「……本来はあってはいけない。だけど、現実に人を殺さなければならないのであれば、大義を持たなければならない。大義のない人殺しなど善悪以前の問題だ。そして、もしそれをなす者がいるのなら、命を以って償わせる以外にないだろう」
強く言い切る彼の言葉には、覚悟以上に深い絶望が滲み出ていた。
それが正義でなくとも、社会のために。
そんな英雄的な悪を要する世界の理不尽への、計り知れない怒りが見て取れる。
(ああ。この人はきっと、本当は優しい人なんだ)
そんな彼の姿に心の底からそう思う。
何より、アエルの世迷言のような話につき合ってくれて、真面目に受け答えまでしてくれているのだから。
「一つ、俺も聞いていいか?」
「え? あ、はい。どうぞ」
アエルは少年を苦しませるような質問をしてしまったお詫びにと「どんな質問が来ても真剣に答えよう」と思いながら頷いた。
「フォルテ・サエクルムを知っているよな?」
「え!? は、いや、それは……はい。有名、ですから」
予想外の質問に気が動転してしまった。
そのせいで一瞬否定しそうになったが、それはレクトゥスの人間ではないと言っているようなものだ。身内贔屓ではなく事実として。
「彼は十年前のアシハラの戦争に参加し、一ヶ月前にはこの島の亜人を一掃してここをレクトゥスのものとした。そうだったな?」
「そう、聞いてます。と言うか、有名な話ですよね?」
軽く少年のことを不審に思う。この国の理術師で、しかも、この地に配属されているのなら、尚更知らないはずがない。
「確認しただけだ。やはり、そうなると彼が狙われるのは確実と言っていいな」
しかし、続く言葉にそんな思考は脳裏から消し飛んでしまった。
アエル自身も確かにその可能性を考えてはいた。
だが、他人からそれをはっきりと告げられると途端に現実味が増してくる。
「特に犯人が亜人となると、かつてこの地にいた者だろう。なら、他の被害者に比べ、彼に対する憎しみは一段と強いかもしれない」
「亜人から、憎まれる?」
想定外の考え方に、一瞬思考が停止してしまう。
だから、それを咀嚼するのに短くない時間がかかってしまった。
「憎まれる……」
その呟きに少年は一瞬だけ表情を歪めたように見えた。
「犬猫だって人間に手酷く傷つけられたら、敵意ぐらい抱くだろ? なら、亜人が憎しみを抱いたっておかしくはない」
少年のその言い方はまるで皮肉を言っているかのようだった。
が、そこに込められた意味は皆目見当がつかずにアエルは首を傾げてしまった。
(でも、よくよく考えると――)
彼の言ったことは正しいことのように感じた。
例えば、もしも自分がそんな事態に巻き込まれたら。
今までそんな想像をしたことは一度もなかったが、確かに憎悪を抱いてもおかしくはない。むしろ当然のことだ。
少年との問答にあった、倫理観を乗り越える大義にすらなりかねない。
(でも、でも、それは――)
それでも、その考えを全て受け入れることは酷く難しかった。
それは、一つの恐ろしい考えを事実と認めることにも繋がりかねなかったから。
「……亜人、って一体何なんでしょうか」
彼等についての知識はほとんど、いや、むしろ全くと言っていい程ない。
それが恐怖心を増してしまう最大の原因だった。
そんな無知に由来する恐怖心を解消するには、知るしかない。
たとえ、それが別の知りたくない事実まで明るみに出すとしても。
「君は、亜人についてどう思う?」
「え? そう、ですね。……改めて質問されると、分かりません」
世間一般の常識ではなく、自分の正直なところを告げる。この少年ならば、一般とは異なる答えでも否定せずに受け止めてくれる気がしたから。
「分からない?」
「はい。私が知ってるのは、理術を扱えない、野蛮な存在だっていう一般的に言われてるようなことだけです。けど、それは自分の目で見たものじゃなくて単なる噂です。そんなの、何も知らないのと一緒じゃないですか」
少年はアエルの言葉にほんの僅かにだが頷いた。
「そもそも姿だって分からないのに。誰も本物を見たことがないのに毛むくじゃらの猿だって言ったり、二足歩行する豚みたいな変なイメージを作ったりして……」
「猿や豚、か。そんなものだったら、何も問題なんか生じなかったのかもな」
「え? もしかして、貴方は亜人を見たことがあるんですか? ……ええと、まさか、も、もっと怖くて恐ろしい化物だった、とか?」
「……見方によっては、この世界で最も酷い化物だな」
少年は力なく、呟くように言った。
そんな彼の様子とその言葉に不安な気持ちが増してしまう。
「あ、あの、本当にこの事件、ちゃんと解決するんでしょうか」
ここ数日の恐怖を打ち消してくれる答えを望みながら、アエルはそう尋ねた。
「大丈夫だ。心配はいらない。もうすぐ、全て片がつく」
彼の言葉には強い確信が込められており、それはアエルが最も望んでいた言葉のはずだった。しかし、アエルの心に渦巻く不安が薄れることはなかった。
理由はよく分からないが、彼の答えに何か妙な胸騒ぎを覚えてしまうのだ。微妙にニュアンスの取り違いをしているような変な焦燥感が心にある。
「……さて、俺はそろそろ仕事に戻らなければならない。君も、もう家に帰るといい。念のために言っておくが、夜遅くは出歩かない方がいいぞ。そうすれば、君に被害が及ぶようなことは決してないから」
少年は立ち上がると、大事そうに右手で抱え込んでいた布袋を左手に持ち替えながら歩き出した。いつの間にか空を染めていた茜色を背に受けながら。
「あ、はい。ありがとうございました」
そうアエルが礼を言うと、少年は立ち止まって振り返った。
「そうだ。君の身内の理術師さんには、俺がここで気分転換していたことは内緒にしておいてくれよ?」
「そ、そんなこと、言いません。約束します」
少し慌ててそう言うと、少年は幾分か穏やかな表情で小さく頷いた。
そして、今度こそ彼は振り返ることなく公園は出ていった。
(何だろう。この嫌な感覚……)
彼の背を眺めながら、アエルは自分が抱いた胸騒ぎの理由を探していた。
その感覚を受けた言葉にだけではない。
はっきりとは分からないが、彼との会話全体を通してどことなくおかしい部分があったような気がしたのだ。
しかし、事件がもうすぐ終わると言った少年の言葉だけは、何故だか分からないが、アエルには漠然と真実であるように感じられていた。
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