2B あの日世界が交わった場所で

第10話

 空は晴れていた。まるで世界自体には何一つとして憂いなどないかのように。

 いや、実際そんなものはないのだろう。

 世界は人間の憂鬱など理解しない。

 人間の都合などお構いなしに、世界はそれ自体の都合で動いているのだ。

 だから、文学作品のように誰かの心象を表さないのも、アエルの心が晴れていないにもかかわらず、見上げれば苛立つ程まっさらな青空が広がっていてもおかしいことなど何もない。

 世界は人の心象を映す鏡などではないのだから。


 最初の事件から五日。

 未だに亜人による殺人事件は続いていた。犠牲者の数は既に十名を超え、それに伴い十ヶ所のレグナ生成工場も機能を停止している。

 レグナの生成は理術師達がレグヌムに対して思念波によって働きかけることで行われるが、これは個人では中々骨の折れる作業らしい。

 そこで大勢の理術師の思念波を緻密に統合することによって効率を高めているのだが、中心的な役割を担える程の理術師はレクトゥスにあって尚限られている。

 優秀な理術師の損失は、そのままレグナの生産力の低下に繋がってしまうのだ。


(全く、これじゃあ本末転倒、よね)


 レクトゥスが異世界に進出した目的の一つは、レグナの生産力の増強だ。

 そもそもレグナの生産力は鉱物資源などとは違い、気候や地質に関係しない。

 レグヌムはそこら中に充満しているため、潜在的な生産力は領土の大きさに比例するのだ。

 そうなると大まかに三国が定まってしまった現代、他国を侵略して領土を得るよりも異世界の土地を手に入れた方が遥かに効率的だ。

 そういう風に、お偉方は十年前の戦争から身を以って理解したのだろう。

 しかし、この事態は完全に想定外だったに違いない。少なくとも現時点のレグナの生産力強化については、この島においてはマイナス分の方が大きい。

 それでも、国の威信にかけて、亜人如きにやられっ放しのまま手を引くような真似はできないのだろうが。


 アエルは新聞を読んで好き勝手に批評する購読者のように自身の中の情報を整理しつつ、若干無責任に大人の思惑を想像しながら空を見詰めていた。

 それはある意味、殺人という身近な恐ろしさを、国家の動向への悪影響という大きなスケールにまで希釈して心を取り繕っているようなものだった。

 そんな自分の心の弱さに嘆息しつつ、ダイニングのテーブルに置かれているティーカップを満たす紅茶へと視線を落とす。

 光の加減のせいか精神状態のせいか、その赤が血のように見えてしまい、アエルはもう一度逃げるように空を見上げた。

 やはり晴天。憎らしい程に青く澄み渡っている。


(貴方は誰の心象を表してるのよ)


 心の中の文句は、当然誰にも届きはしない。

 世界が表す心象があるとすれば、それは世界自体のもののはずだ。


(なら、世界って?)


 今のこの状況を楽しんでいる不謹慎な存在がどこかにいるとでも言うのか。


(……馬鹿馬鹿しい)


 そんな妄想染みた思考を振り払うために、紅茶を一口だけ飲んで一息つく。

 理術で適切に保たれた温かさが体に広がり、僅かながら心を落ち着かせてくれるが、胸に渦巻く不安の大きさと比較すると焼け石に水も同然だった。

 事件が連続する中、生成工場以外の場所で理術師が殺害されることも二件あった。

 それも含めて見出された事件の共通点は二つあった。

 一つは優れた理術師として国内では知る人ぞ知る存在だったこと。

 この事実だけでもアエルの恐怖心を煽るには十分だった。が、もう一つの共通点はそれとは異なる焦燥染みた恐れをアエルに植えつけていた。

 その共通点とは、十年前のアシハラとの戦争で彼等の防御結界を打ち破り、多大な戦功を上げた人々であることだ。


(父さんも――)


 それこそ、フォルテはその筆頭のような存在だった。


(もしかしたら、父さんも今正に命を狙われて……?)


 フォルテの実力についてはアエルも時々手合わせをして貰っているため、よく知っているつもりだった。

 正直、真っ当な理術の勝負では彼に勝てるとは一度も思ったことはない。

 どんな相手であれ、容易く命を取られることはないと断言できる。

 それでも事件の犯人だという亜人はただただ薄気味悪かった。

 殺人現場にいて生き残った理術師から得られた証言には「亜人は突然現れ、目にも留まらない程のスピードで工場の監督者を長い刃物で斬殺した」とあるそうだ。


(そんなの……あり得ない)


 変わり者の姉に強引に剣の指南を受けさせられて多少は心得があったアエルではあったが、それが理術師相手に戦力になるとは欠片も思っていなかった。

 実際、イリスもまた「イメージトレーニングの一環として我流で形を整えただけよ」と言っていた。

 全ては理術を用いた超近接戦闘という彼女の奇抜過ぎるスタイルを洗練するための手段に過ぎず、実戦で実体の剣を使用することなど姉も想定していない。

 そもそもレクトゥスでは刃物を使うという行為自体が極めて稀なのだ。

 何故なら、そんなものがなくても理術で容易く全てを切断できるからだ。

 アシハラでは料理などにナイフを使用するらしいが、レクトゥスではそれもない。

 そんな真似をすれば理術の才がないとして侮られるのが関の山だ。


(刃物で理術師を、なんて普通には絶対に無理。……でも、あの眉唾なもう一つの証言が本当だったら、可能かもしれない)


 信じられない話だが、別の証言に「亜人が現れた瞬間からいなくなるまでの間、理術を一切使用することができなかった」というものもあった。

 そのためか、工場内の電気が一時ストップし、誰も犯人の顔はおろか風貌の情報も得られなかったそうだ。

 フォルテ達上層の者は「それは集中力が乱されたからだ」と結論づけていたものの、アエルのネガティブ思考は加速するばかりだった。


(さすがの父さんも、理術が使えなければ――)

「アエル、大丈夫?」


 いつもの負のスパイラルに陥りつつあった思考を母親の言葉が遮ってくれて、アエルはハッとしたように顔を上げた。


「母さん?」

「最近、何だか調子が悪そうだけど……」


 余程浮かない顔でもしていたのだろうか、とアエルは三度窓に顔を向け、胸糞悪い晴天ではなくそこにぼんやりと映る自分の顔に焦点を合わせた。


(確かに、少し疲れてる顔かも)


 自覚できる程なのだから、母親から見れば相当のものに違いない。


「うん……ちょっと、ね」


 解決する気配を見せない事件。

 それに追われ、徹夜続きで帰ることのできない父親。

 犯人である亜人の異常な能力。

 不安と恐怖は指数関数的に増していく。


「大丈夫よ。お父さんが亜人如きに負ける訳がないでしょ? すぐに退治してくれるはずよ」

「うん。そう、だよね」


 母親の自信に満ち溢れた言葉が、今のアエルには僅かながら心強かった。

 しかし、そもそも今回の件は本当に、単なる亜人の仕業として片づけていい話なのだろうか。ふと脳裏に新たな疑問が浮かび上がる。


「ねえ、母さん。確かアシハラの防御結界って、理術を使えなくするんだよね?」

「どうしたの? 急に」

「何となく、気になって……」

「ああ、あの証言ね。大丈夫よ。お父さんが言ってたでしょ? 確かにアシハラの結界はレグヌムに思念波を伝達しにくくするものらしいけど、それには大規模な施設と人員が必要という話だもの。それを私達に知られずに用意できると思う?」


 母親に苦笑交じりに諭され、アエルは少し顔を伏せた。


「やっぱり集中力が切れたんじゃないかしら」

(そう、なのかな……そう、だよね。いくら何でもレクトゥスの領土の中で結界を作るなんてできる訳ないし。そうしなきゃ、あのタイプの理術は役に立たないし)


 理術の効果範囲は本来非常に狭い。

 ものにもよるが、場に効果を与えるような術については基本的に空間を区切らなければ効果も極端に薄くなってしまうのだ。

 アシハラの結界も、かの国全土とその周囲数キロが効果範囲と通常の理術からすれば破格だが、それが可能なのも国を縁取るように装置を配置しているからだ。

 何故、彼ら自身はその中で理術を使えるのかは未だに謎のままだが。


 ともかく、十年前の戦争ではレクトゥスはこの結界に苦汁をなめさせられた。

 当時、優秀な理術師達でさえレグナを用いて尚、飛行を維持できなくなってしまったと聞く。その末路は、落下して海面に叩きつけられるか、敵の対空砲火で撃ち落とされるかの二つに一つで、多大な被害が出たのだった。

 それでも最後には、理術がまだ普通に扱える距離から相当量のレグナを用いての超長距離砲撃を行い、その装置を破壊することに成功。

 結界を停止させたおかげで、この島を手に入れることができたのだが。

 余談だが、この戦法からも分かる通り、アシハラは防御力こそ優れているが、自ら攻めることは全く不可能と言っていいレベルなのだ。


(やっぱり、集中力を欠いただけだよね。ただ、そうなると……亜人は理術をかい潜って理術師を殺せる程の剣技と身体能力を?)


 アシハラの関与を考えなければ、今度は犯人とされている亜人の恐ろしさが増すばかりだ。


「そんな不安そうな顔しないの。敵を過小評価するのは避けるべきだけど、過大評価して恐怖するのも愚かだ、ってお父さんも言ってるでしょ?」


 母の言葉にアエルは内心では納得していなかったが小さく頷いた。


(それは正論……だけど、どこまでが過小評価で、どこからが過大評価なのかは、どうやって判断すればいいのかな)


 現実には「自分が過大評価だと思っていたことが、実は過小評価だった」ということも十分あり得るのではないだろうか。


(さすがにそれはネガティブ思考が過ぎる、のかな)


 やはり自分は臆病過ぎるのだろうか。こんなことで本当に父や姉と同じ立派な理術師になれるのだろうか。そんな疑問までもが連鎖的に生じてきてしまう。


「……母さん、私ちょっと散歩してくるね」


 だから、少し冷たい風にでも当たりながら一人で色々と考えたくなって、アエルはそう母親に断って外に出ることにした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る