1B 亜人

第8話

 夜遅く、慌ただしく動き回る人々の物音でアエル・サエクルムは目を覚ました。

 右半身を下にして丸まって眠る癖のせいか、右側だけ微妙に乱れて視界の端で踊っているセミロングのブロンドはそのままに自室を出る。

 二階にあるそこから一階のエントランスホールへと階段を下りていくと、丁度父親であるフォルテが玄関のドアの前で母親から杖を受け取っているところだった。

 その傍らには彼の部下が一人、静かに控えている。


「父さん、仕事?」

「ん? ああ、うるさくして済まないね。アエル」

「……杖を持ち出すなんて、何か大事件でも起きたの?」


 アエルはフォルテの手元に視線を移しながら尋ねた。

 その手に握られた杖には、先端に純度の高いレグナが備えられている。

 この道具は理術の威力を高める役割を担うものだ。とは言え、それは厳密に言えばレグナの効果であって杖自体には特に意味はないのだが。

 一応、棒術に使用できる程度には強度があるそうだが、それを用いて戦うのは正に最後の手段であり、そこまで追い詰められることはレクトゥスでは恥とされる。

 なので、利点と言えば精々「レグナを視界に入れたまま戦えるため、理術を強化するイメージが持ち易い」ことぐらいか。

 実際、理術の制御のし易さが格段に上がると聞く。

 レグナの増幅能力自体も折り紙つきで、それを軍でも指折りの理術師として名高いフォルテが用いれば、街の一つや二つ壊滅させることすら可能だ。

 杖を持ち出すということは即ち、それだけの力が必要ということ。

 この事態は明らかに只ごとではないのだ。


「ああ――」


 フォルテは一瞬話すべきかどうか逡巡したように言い淀む。

 が、すぐに言葉を続けた。


「実はいくつかのレグナの生成工場が何者かの襲撃を受けたらしい。ほとんどの職員は無事だったのだが、そこを監督している者が……殺された」

「え!? まさか、アシハラやヘルシャフトが?」


 レクトゥス内部の犯行も一瞬考えたが、この異世界に住む権利を持つのは軍関係者と厳正に審査された上流階級の者だけだ。それに世界間の移動も厳しく管理されており、犯罪者や犯罪者予備軍が入り込む余地はないはずだ。

 そうなると考えられるのは敵国たるアシハラかヘルシャフトだけだ。


「でも、今の状況で行動を起こすのは……」


 空戦能力に長け、圧倒的な個人の火力で敵を蹴散らすレクトゥス。

 理術の特殊な運用により、異質な効果や絶大な威力の理術を扱うヘルシャフト。

 そして、他の二国に対抗するために科学という力に頼り、理術の常識では考えられない鉄壁の防御力を誇るアシハラ。

 この三竦みの状態を態々壊すのは、他の二国にとっても得策ではないはずだ。

 もっともアエルが持つ情報は全てフォルテから与えられた断片的なものに過ぎず、正確な世界情勢を把握できている訳ではないのだが。


(まさか、正面からぶつかっても勝てるだけの力を得た、とか?)


 そんな自分自身の思考に身震いする。

 この十年間。冷戦状態にあって、仮初に過ぎないにしても平和ではあったのだ。


(もし、また戦争が再開されれば、多くの人が犠牲に……)


 レクトゥスの人間だけでなく、他国の人々も。

 アエルは己の想像に対して少し過剰に不安を募らせてしまっていた。

 だが、次に続くフォルテの言葉は予想を大きく裏切るものだった。


「いや、どうやら亜人の仕業らしいのだ」

「あ、亜人が!?」


 アエルは耳にしたその事実に愕然としてしまった。

 敵国の理術師ならともかく、野蛮で愚かな存在と聞いている亜人に対してこのレクトゥスの理術師が後れを取るなどとは思えない。

 その上、工場の監督者と言えば、十年前のアシハラとの戦争の功労者で、非常に優れた理術師として名の知れた人物だ。


(そんな人が、亜人に殺された? どうして……一体、どうやって)


 アエルは戦争再開への不安とは全く別の、得体の知れない不気味な感覚が自分の心の中に渦巻き始めているのを感じた。


「総督、それ以上の情報は――」


 アエルの思考を遮るように、フォルテを迎えに来たらしい部下の青年が口を挟む。

 意図的に彼の存在を視界から排していたにもかかわらず横から口を出され、アエルは舌打ちでもしてやりたい程不愉快な気分になった。


(確かカリダ・アンビティオとか言ったわね。全く父さんに取り入って何を考えてるのやら。……なんて、一つしかないか)


 彼は三年程前に理術師になったばかりなのだが、その実力と特に頭の回転の速さをフォルテは認めていて、いたく気に入っていた。

 アエルの姉、自分自身の娘たるイリスと結婚させようという考えを持つ程に。

 それは既に彼女に一蹴され、白紙となったのだが。

 カリダはアエルを意味あり気に一瞥し、すぐに視線をフォルテへと戻した。

 アエルはそれだけで吐き気がする思いだった。

 姉のこともあるが、何よりその目の奥にある何かに生理的な嫌悪を感じるのだ。

 しかし、アエルは仮面のような愛想笑いを顔に貼りつけて、不快さを表に出さないようにしていた。父親の体面のために、内心でどう思っていようと外に向けては笑顔を振りまくことには昔から慣れている。


「心配ない。アエルはこれでしっかりしている。情報を漏らすことは決してない」

「……分かりました」


 カリダはフォルテに一礼して玄関の扉の前に、両手を背で組んで立った。


「それで、亜人が一体どうやって?」


 アエルはカリダの存在を再びないものとして話を戻した。


「詳細は分からない。だが、残留思念波は全く検出されていなかった。理術は使用されていないのだ。……工場にいた者達も含めて、な」

「そ、そんな、ことって」


 思念をレグヌムへと伝えるための波形は当然人によって異なる。そのため、現場に残る思念の波の痕跡を調べれば、誰が理術を使ったかなど一目瞭然だ。

 しかし、現場にその残留思念波がない。即ち理術は使われていないということ。

 となれば、やはり亜人の仕業としか思えない。


(でも、それだと……)


 犯人を捜し出すことは難しいかもしれない。

 レクトゥスでは犯罪も理術を用いて行われるため、事件の捜査は残留思念波を頼りに行われるのだから。

 いつか姉がそんなようなことを危惧していた覚えがある。


「私はこれから現場に向かい、調査の指揮をしなければならなくなった。この地区の総督として、このような蛮行を許す訳にはいかないからな。……行ってくるよ」


 アエルは一瞬「今すぐにでもテラに帰りたい」と強く思ってしまった。

 レクトゥスの理術師が、理術を扱えない亜人に殺される。

 その事実に恐怖を覚えて。

 よくよく考えてみれば、事件の現場はレグナの生成工場だった。

 つまり、そこには生成されたばかりのレグナがそれなりの数あったはずなのだ。

 それを用いれば普段以上の力を、それこそレクトゥスの理術師であれば、地形を変える程の力を発揮できたはずだ。

 にもかかわらず、監督者が殺害され、さらには術が使用された形跡すらもないなど、とても現実の出来事とはアエルには思えなかった。

 だから、亜人という存在が恐るべき怪物のように感じられ、アエルは背を向けて家を出ようとしている父に縋りついて「帰ろう」と懇願したかった。

 ……しかし、そんな真似はできなかった。


「行ってらっしゃい。父さん」


 そう言って静かに父を見送ることしかアエルにはできなかった。


「心配しなくても大丈夫よ」


 そんなアエルの内心に気づいてか母親が安心させるように微笑む。


「お父さんにはクレイオの加護があるのだから」

「母さん……」


 クレイオとは戦いを司る神の名だ。

 あくまでも神話に登場する神で信仰の対象ではないが、レクトゥスでは慣例的に理術の才能に富んだ人間をクレイオの加護を受けた、あるいはクレイオに愛されたと評することが多い。

 そして母親の言葉通り、フォルテは理術師として類稀なる才を誇り、軍では相応の地位と、それ以上の発言力を有しているのだ。


「十年前のアシハラとの戦争でも、あれだけ大きな戦功を上げたお父さんよ? 今回だって、この地域に巣食う亜人を一晩の内に一掃したんだから、犯人が亜人だったとしても何の問題も危険もないわ」

「……うん」


 ここ最近は大きな戦いがなかったため、アエルには実感が余りなかったが、フォルテは戦時中「刹那の天光」と呼ばれ、敵味方問わず恐れられていたと聞いている。

 瞬きの間に現れて次の瞬間にはその地の全てを焼き尽く。

 その様が通り名の由来だそうで、戦場を共にした理術師達はその才能に畏れと敬意を抱いているらしい。

 実際を知らないアエルもまた父親を尊敬しているのは確かで、いつかはフォルテのような理術師になるために日々努力を重ねている。

 そんなフォルテの娘が亜人如きに恐怖して逃げ出そうとするなど、父親の名前を汚す行為に他ならない。

 それだけではない。

 既にフォルテと共に去っていたが、嫌悪の対象たるカリダがあの場にいたのだ。そのような状況で父親に泣きつくことなどできる訳がない。

 理屈はともかくあの男に弱みを見せるなど感情が許せなかった。


「ほら、もう寝なさい」

「……うん。お休みなさい、母さん」


 母親に挨拶し、一度だけ無駄に煌びやかな装飾がなされた玄関の扉を見詰め、それからアエルは階段を上って自分の部屋へと戻った。


「でも、亜人、か」


 自室にある明らかにアエルの体には不釣り合いな大きさのベッドに身を投げ出して、天蓋を見上げながら呟く。


(散々馬鹿にしてるけど、よく考えたら私は何も知らないんだよね)


 アエルは亜人について自分が知っている限りのことを頭の中に並べようとした。


(理術を使えない、野蛮な存在。………………それだけ。しかも、これは――)


 脳裏に浮かんだ情報。しかし、それは誰もが知る想像でしかない。

 言うなれば、天使や悪魔の設定を嬉々として語っているようなものだ。

 そもそも亜人という存在は、一ヶ月前までアエルにとってだけでなく、多くのテラの人間にとっても想像上の生物に過ぎなかったのだから。

 テラの神話の一つにこうある。

 一万年前、亜人達は欲望のまま悪逆の限りを尽くしていた。それを憂えた何人もの優れた理術師達がクレイオの力を借りることでこの世界を二つの可能性で分岐させ、一方へと亜人達を封じ込めた、と。

 しかし、亜人の定義から考えると正直これはおかしい。

 理術を扱える人間に対し、悪事を働くことなどできる訳がない。

 そのため、これは後世の妙な創作に過ぎない、というのが通説だ。

 一万年前に世界が分かたれたのは歴史的事実であり、それ故に今アエルは異世界の地に立っている訳だが。

 ともかく、アエルもまた今の今まで亜人は力を持たない存在だと思っていた。

 だが、今回の事件のことで「もしかしたら本当に理術とは異なる妙な力を持ち、恐れられていたのかもしれない」と想像してしまい、不安な気持ちは増していくばかりだった。


(本当に、亜人って何なんだろ)


 その姿も正確には分からない。

 テラの小説には亜人が登場するものも多々あり、挿絵に姿が描かれたものもあった。しかし、それらは全て想像に過ぎない。

 その多くが猿を無駄にごつくした姿で、凶暴な雰囲気を前面に押し出したデザインだった。あるいは、人間と亜人は起源が異なると主張する作者では、豚や犬などが二足歩行したような変な生物が描かれていることもあった。


(父さんもそれは教えてくれないし、余程酷い化物だったのかな……)


 僅かな興味も覆い尽くす程に、自身の想像に恐怖して体を震わせてしまう。

 そんな自分のネガティブな思考に気づき、アエルは深く嘆息しながら右半身を下にしてブランケットに包まった。

 絶対的に情報が不足した状態で考えても、むしろ結論から遠ざかるだけだ。

 そうした場合、アエルは特に思考が負の方向へと転がり落ちてしまう傾向が強かった。結果、自分の想像に無意味な怯えを抱くことも度々あった。


「……寝よ」


 だから、逆にそういった感覚には微妙に慣れてもいて、こんな時は寝てしまうのが一番だと経験で分かっていた。

 マイナス思考は連鎖した挙句に複雑に絡まり、人を思考の袋小路に追いやるものだ。しかし、寝て起きると絡まった糸がいつの間にか解かれていて、意外と答えが簡単に分かってしまうこともある。

 そうでなくとも、やはり眠ってしまうことが最善であることに変わりはない。

 そうすれば、その問題の思考の優先順位が少し下がってくれるだろうし、普通に忘れてしまうことだってある。

 それはある意味逃避に過ぎないのかもしれないが、それでも答えに至ることができない問題で心労を溜め込むよりは遥かにいい。


(それに、もしかしたら明日、目を覚ますまでの間に父さんが全て解決してくれてるかもしれないし)


 そんな儚い望みを持ちながら、アエルは静かに部屋の明かりを消したのだった。

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