二 末那
第10話
「連示君、調子でも悪いの?」
三時間目と四時間目の間の休み時間に入ってすぐ、ユウカが心配そうな表情を浮かべて駆け寄ってきた。
「何だか疲れた表情してるし、珍しく授業中に眠ってたみたいだったけど」
「ま、まあ、たまにはそういうこともあるさ」
連示が曖昧に答えると、ユウカは余り納得がいっていなさそうに首を傾げた。
アミクスとは言え、彼女は幼馴染同然の存在。連示の言動の僅かな変化も感じ取れるのだろう。いや、むしろ幼馴染であり、同時にアミクスだからこそ、とでも言うべきか。それは人間よりも遥かに感覚が鋭敏なのだから。
その上で幼馴染としての人格、経験を有していれば、ほぼ百発百中に違いない。
彼女が見抜いた変化の源、阿頼耶が家に配達されてきてから既に数日が経過し、ファントムとの交戦回数も二桁に乗っていた。
戦闘は全て阿頼耶の体を使用して行われるが、それを動かすのはあくまでも連示の脳であるため、やはり精神的な疲労が蓄積してしまうようだ。
また申し訳程度ではあるが、行動の最適化と自分自身のイメージとの齟齬を少なくするために、阿頼耶から無駄のない動きを学んだりしているのも疲れの原因かもしれない。
「本当に大丈夫?」
「大丈夫だって。ちょっと夜遅くまで勉強していただけだから」
「そっ、か。……でも、本当に無理しちゃ嫌だよ? いくらアミクスを使ってる皆に負けたくないって思っても。ね? 連示君」
「分かっているって」
自分もアミクスだというのにそんなことを言って心配してくれるユウカに、連示はいくらかの感謝と、そんな彼女に嘘を言っていることへの申し訳なさを抱きつつ、しかし、表情には普段通りに苦笑を浮かべた。
そして、ユウカへと向けていた視線を教室全体へと移動させる。
鈴音は真面目に自分の席で次の授業の準備をしており、紀一郎も今日は本人が来ているようで静かに席に着いて目を瞑っていた。
ユウカの心配そうな表情以外、アミクス達も含めて教室の光景は阿頼耶が訪れる以前と何ら変わりない、はずだ。しかし、連示自身の見方が大きく変わってしまったため、それらが何もかも異なって見える。
この中にファントムの、あの渦巻くような憎悪が生み出される可能性があるのだ。
それどころか、下手をすれば既にあれが潜んでいるかもしれない。
その事実を知っているだけで、これまで普通だった風景、無機質で上辺だけを取り繕った光景が酷く恐ろしいものであるように感じられてしまう。
そして、その感覚はファントムと対峙する回数を重ねる度に強くなっていた。
阿頼耶は現在、学校に同行するのは色々とリスクが多いから、と家で待機している。
彼女によれば、たとえこの教室でファントムが発生しても、その人格がアミクスを完全に支配して稼働し始めるまでの間にここに来ることは可能らしい。
しかし、それでも連示は心のどこかで恐れを常に持ち続けていた。
あるいは、それも疲労の原因なのかもしれない。
「連示君?」
そんな感情も見抜いてしまいそうなユウカの純粋な瞳に見詰められる。
「何か、わたしにできることがあったら、言ってね。幼馴染なんだから。連示君のためなら、わたし、何でもするから」
幼馴染という言葉を殊更強調して安心させるように笑うユウカは、その関係に甘えて連示が頼るのを待っているかのようだ。
だから、少しだけ彼女に甘えてみることにする。
「……なあ、ユウカ。この前の友井の話、覚えているか?」
「へ? え、っと、何だっけ?」
「ファントム、とかいう奴の噂話」
その単語を聞いた瞬間、ユウカの表情は一瞬翳りを見せ、それからそれを誤魔化すように僅かに視線を逸らした。
「そ、それが、どうしたの?」
「いや、少し、怖いな、って思ったんだ」
連示がそう言うと、ユウカは驚いたような顔を見せ、しかし、すぐに優しく微笑んだ。
「大丈夫だよ。そんなの単なる噂だって。連示君が言ってくれたことだよ?」
「そうだと、思ったんだけど、な。何だか、気になってさ」
最初は確かに根も葉もない噂だと思ったが、それは紛れもない真実だった。
しかし、それをユウカに明かすことはできない。
その話を聞いただけで酷く恐れていたユウカには。
彼女は複雑な表情を見せながらも、連示の手を取って優しく摩ってきた。彼女の手から感じる温かさは、幼馴染という認識があるためか、阿頼耶のそれよりも安らぐ気がする。
「連示君……安心して。わたしが傍にいる時は、どんなことがあっても、どんなものからだって、わたしが守ってあげるから。約束する」
そう言うと、ユウカは連示の小指に彼女自身の小指を絡めてきた。
どこか恥ずかしそうな、その頬を微かに赤く染めた少し子供っぽい笑顔で隠してはいたが、彼女の瞳の奥にはいつにない真剣さが見て取れた。
「あ、もう休み時間、終わっちゃう。席に戻るね」
しかし、それも一瞬のことでユウカは恥ずかしさを誤魔化すかのように、大袈裟に時計を指し示して、自分の席へと戻っていってしまった。
彼女が席に着くとほぼ同時に四時間目開始のベルが教室に鳴り響き、担当の教師のアミクスが入ってくる。
時間通りに授業を機械的に始める教師のアミクス。
その授業を静かに聞くアミクス。
不真面目な人格でも共有しているのか無駄口を叩いている生徒のアミクス。
それらと同じアミクスでありながら、教師の意識に入ることもなく、それにもかかわらず真面目に授業に耳を傾けている幼馴染、のアミクス。
その全てをぼんやりと眺める。
「守ってあげる、か」
そして、口の中だけで小さく呟く。
そんなユウカの言葉、そこに溢れる意思に、正直男としては少々情けないような気もしたが、そこから感じる純粋な好意は嬉しかった。
やはりアミクスという技術、存在そのものを嫌っている訳ではないのだ。
それが自分の本心であると連示ははっきりと認識できた。
あの時、悲しそうにしていた阿頼耶に対して慰めようと嘘を言ったのではないのだ。
阿頼耶もユウカもアミクスではあるが、好ましく感じている。
嫌悪の対象となっているのはアミクスの中身。内面がそれに類するものであれば、たとえ人間だろうが気に食わないに違いない。
では、自分が厭うその内面とは正確には一体何なのか。
その答えの一つは既に分かっている。
阿頼耶に言った通り、仮面のような空虚さだ。
だが、それだけでは漠然とし過ぎて恐らくまだ不完全だろう。
連示はいつも通りの絶対に当てられることのない授業で、しかし、阿頼耶と出会う以前とは異なり、教師の声を完全に聞き流しながらその正答を考えていた。
授業内容はもはや連示にとって然程重要なものではなくなっていた。
そもそも勉強は他にやることがないから、暇潰しとアミクスへの反骨精神で続けていただけだ。今となってはそれに、かつてよりも一歩だけ進んだ自問やファントムへの対応よりも大きな価値は見出せない。
最初から連示の努力など世界の方向性とは異なっていたのだから。
『ご主人様!』
授業も終盤に差しかかったところで、脳裏に阿頼耶の妙に焦ったような声が響いた。
『ファントムか?』
授業中なので平静を装いながら、頭の中で阿頼耶に言葉を伝える。
『はい。とにかく人格交換を行います』
『分かった。……あ、ちょっと待て。今からだと――』
「授業がもうすぐ終わるから。って、またか」
余程急いでいるのか、連示は自分の言葉を全て阿頼耶に伝え終わる前に、彼女の体へと人格が疑似的に移されていた。
既に視界に映る見慣れた部屋の風景の中に、ファントムの発生を知らせるウインドウが浮かび上がっている。
『すみません、ご主人様』
「どうした?」
早速マンションを出て、ファントムの表示が示す方向へと走り出しながら尋ねる。
『理由はよく分からないんですが、ネットワーク異常によってファントムの発生を感知しました。恐らく特別処理班もほぼ同時に知ったはずです』
「な、大丈夫なのか?」
焦燥感がじわりと湧き上がり、もう一度ファントムの表示に注意を向ける。
確かに普段のそれとは異なり、ネットワーク異常を告げるものになっていた。
まさかファントム発生時の電子的な揺らぎを見逃したのか、と一瞬疑うが、阿頼耶がそんな根本的なミスをするとは考えられない。
理由がよく分からない、というのは彼女の偽りない言葉に違いない。
さすがに少々不気味に思うが、今はそれどころではない。
『今回は距離的な優位があるので、素早く行動すれば大丈夫です。しかし、もし特別処理班の警戒表示が出たら、速やかにその場から離脱して下さい』
まだこの地域の戦力について詳細まで分かっていないので、と阿頼耶はつけ加えた。
「分かった。阿頼耶、そっちの対応はちゃんとしておいてくれよ?」
『はい。こちらは任せて下さい。ご主人様はファントムをお願いします』
阿頼耶に小さく頷いて速度をさらに上げる。
これまでは時間的なアドバンテージがあったため、特別処理班とニアミスするようなことはなかった。
一応、処理班の動向はほぼ把握しているそうだが、今回は時間的な優位はほとんどない。
とは言え、それについては正直構わなかった。
阿頼耶達としては正体を公にしたくないのだろうし、連示自身処理班には不審を抱いているため遭遇を回避しているが、処理班が被害を出さずにファントムを処理できるのであれば、それはそれでいいのだ。
問題は揺らぎ発生とネットワーク異常とのタイムラグの間に、人的な被害が出ること。
実際に所有者のすぐ傍でアミクスがファントム化したことはまだなかったが、もしそうなったら確実に処理班は間に合わず、所有者は命の危機に陥るだろう。揺らぎの発生からシステム掌握までの間に動ける阿頼耶達でなければ、僅かな可能性すらもない。
そのような限定的な状況でなくとも、ファントムが所有者を求めて動く以上、一秒たりとも無駄にはできない。
現に、今更ながら揺らぎの発生時刻と場所が視界に表示されていたが、そこからファントムはかなりの距離を移動していた。複合娯楽施設へと向かって。
「よし、この角を曲がれば――」
だが、この場は阿頼耶が言った通りの距離のアドバンテージがファントムに対してもあり、被害が出るよりも早くそこに到着できたようだった。
「って、いない!?」
指示された地点はアミクスが行き交う表通りから少し脇道に逸れた場所だったが、そこに対象はいなかった。
ネットワーク異常に陥ったアミクスの位置を特定するGPS画面では、確かに四体のアミクスがそこにいると示されているというのに。
警戒心を抱き、強烈な緊張感に包まれながら、連示は不気味な感覚が背を這うのを感じていた。GPSからの情報は得ているにもかかわらず、姿が見えないだけで実は既に所有者の許に到達してしまったのでは、という疑念が脳裏に渦巻く。
周囲を見回しながら、ゆっくりと壁に背をつけてなるべく死角を消そうと試みつつ、そのまま四方へと注意を払う。
現実にはほとんど時間は進んでいないだろうが、主観的には長い間この状態にあるように感じられていた。
「……上か!」
永遠に続くような張り詰めた感覚の中、機械としての五感が微かな気配を敏感に察知してくれた。その直後に上方から窓ガラスが割れる音が響いてくる。
視線を上へ向けてそこにいた存在を確認しつつ、ガラスの雨を避けるために地面を蹴ってその場から離れ、右手に意識を集中させる。
一秒にも満たない時の中で、白刃と化した右手を構え、連示は落下してくるアミクスを見据えた。そして、アミクスの着地により地面に亀裂が生じた音とガラスの欠片が降り注いだ音の余韻が終わる前に、それへと駆け出す。
そして、地面に降り立った衝撃のために、僅かな間硬直して隙だらけとなったアミクスの頭部に狙いを定め、連示は右の白刃を一閃させた。
斜めに切り落とされた頭の一部が地に転がり、その瞳から光が急速に失われ、無機的な視線を向けてくる。
胴体にまだ連なっている顔に残る瞳も同様になり、それを合図とするように胴体はゆっくりと傾いて、金属的な音を発しながら地面に伏した。
「ふう……」
緊張からの僅かな解放。残り三体のアミクスがいると視界には表示され、理解していたにもかかわらず、それは連示の隙となっていた。
「な、しまっ――」
新たに後方から現れた二体のアミクスにそれぞれ右手と左手を完全に押さえ込まれ、一瞬の緊張の弛緩から我に返る。
左手を押さえるアミクスはそれをきつく捻り上げ、右手を固定しているアミクスに至っては刃に自分の腹部を貫かせてまで連示の動きを縛っている。さらにはもう一体、最後のアミクスが奥まった道から鉄パイプらしき鈍器を手に駆けてきていた。
「操られたアミクスが、連係を取っているのか?」
驚きを口の中で呟きながら拘束を解こうと足掻くが、右手はどうにもならない。
左手を多少動かしたところで、このままでは右の重荷が邪魔で容易く抑えられてしまう。
「それでも、この程度なら阿頼耶の性能が勝つ」
勝利するために最適化されたイメージ通りに、連示は左手に意識を集中させながらそれを無理矢理に振り上げた。
瞬間、その左手は右手と同様に刃を形作り、しかし、それは右手の白刃とは対照的に高熱を発して紅に光り輝く。
白刃と対になる紅刃によって破壊された左のアミクスが崩れ落ち、僅かに束縛が緩んだため、連示はそのまま右のアミクスの頭部に左手を突き入れた。
その一撃によって顔面を貫かれ、高熱で顔の人工皮膚が焼け爛れたそのアミクスは完全に力を失い、自然と腹部に突き刺さった連示の右手に支えられる形になる。
内部の機械を露出し、無残な姿を晒すそれの腹を足で押し退けるように蹴り飛ばしながら、連示は右手を一気に抜き取った。
それでようやく体の自由を取り戻し、最後のアミクスと向き合う。
その間にもそれは距離を詰めていて、突っ込んでくる勢いを加算して振り下ろされた鈍器が間近まで迫っていた。人間ならばもはや間に合わないタイミングだった。
だが、阿頼耶はアミクス以上の性能を持つ。人間では不可能でも、この体なら可能。連示は瞬時にそれを受け止めるように左手を翳した。
その結果は火を見るよりも明らかで、鈍器は切り口を溶かされながら二つに分かれ、地面に落ちて空しい音を響かせた。そして、それが耳に届くまでの間に、連示は行動の最適化によって的確に紅の刃で最後のアミクスを切り伏せていた。
「全く、性能に助けられたな」
視界内に示されていた数のアミクスを撃破し、今度こそ一息つく。
念のためGPS画面を再度開くが、周囲に異常のあるアミクスは存在しないことが確認できた。……はずだった。
「何っ!?」
しかし、その路地に手を叩く乾いた音が繰り返し鳴り響き、連示は驚愕と困惑と共にその音源へと素早く体を向けた。
「誰、だ?」
警戒表示がまだ出ていないため、特別処理班ではない。
この体の機能を信じれば、通常のアミクスではあり得ないし、異常なアミクスは全て破壊したはず。加えて、生身の人間がこの時間にこんな場所にいる可能性は低い。
しかし――。
「……
問いに答えて名乗ったのは、予想に反して一見普通に見える男性型のアミクスだった。
「菴、摩羅?」
彼は色の濃いサングラスをかけていたためその瞳は見えず、疑似思考を読み取れなかったが、阿頼耶の視覚ならば外見からでも人間かアミクスか程度は見抜ける。
しかし、この場でアミクスが、しかも異常が検出されていないはずのアミクスがこのような行動を取る意味は一体何なのか。
気味の悪い感覚に包まれながら、菴摩羅と名乗ったアミクスを睨みつけ続ける。対する菴摩羅も連示を見据えているようで、サングラス越しながら強い視線が感じられた。
警戒心が心の中に渦巻き、しばらくの間金縛りになったように身動きが取れないまま対峙する。次に口を開いたのも菴摩羅だった。
「我々は貴様等のような偽善的な、何より非効率的なあり方を否定する。非合理な人間がこの世界を支配しているのも許さない。そうミラージュに伝えておくといい。人間」
「ミラージュ?」
「良識、とやらを核に生まれた幻影人格の、人間による呼称のことだ。我々に対するファントムのような、な」
「何!? まさか、お前がこのアミクス達を!?」
その問いに菴摩羅が口角を吊り上げるのを見て、連示はそれを肯定の意と判断し、即座に左手を構えて走り出そうとした。
「やめておけ。間もなく愚鈍な処理班が来る」
菴摩羅の言う通り、いつの間にか連示の視界の中に警告音と共に特別処理班の位置を示すウインドウが開いていた。
そして、一瞬それに気を取られていた隙に菴摩羅の姿が消え去ってしまう。
「ま、待てっ!」
連示が慌てて表通りに出ても、もはや後の祭り。表通りを行くアミクス達の中に紛れ込んでしまったようで、彼の姿はどこにも見当たらなかった。
GPSでは捉えられない。それはネットワーク異常が生じていない証。揺らぎも感知されていなかった。しかし、それは自らファントムを名乗った。
恐らく、危惧されていた事態が起きていた、ということだろう。彼は阿頼耶による監視が始まる遥か以前に現れ、かつ特別処理班の目をかい潜ってきた存在に違いない。
だが、何故このタイミングで現れたのか。それも、宣戦布告にしか見えない形で。
嫌な予感しかしないが、今はそれよりも近づいてくる特別処理班から遠ざからなければならない。連示はそう判断し、その不安を振り払うように一つ大きく息を吐いてから、マンションに向けて走り出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます