追憧の刃 ―異世界で悪徳令嬢になった幼なじみを、僕は全力で助ける―

アレセイア

プロローグ 失われた日常の中で

 その日も、道場は夜遅くまで灯りがついていた。


 たった一人、道場に残った袴姿の青年――彼は、血気迫る勢いで地を蹴る。

「シ――ッ!」

 目の前の的。打ち込みにつかう人形に、彼は竹刀を突き出した。

 瞬間、残像が生まれ、ほとんど同時に三つの突きが突き刺さった。それに留まらず、彼の腕が留まることなく、駆け抜ける。

 一閃、一閃、一閃――瞬く間に、叩きのめされていく人形。

 それが揺らいだ瞬間、激しい音を響かせ、踏み込む。それと同時に、横薙ぎに竹刀を振り抜いた――激しい一閃に、人形の頭が、打ち砕かれる――。

 普通では、砕けるはずのない、頭。

 それだけに、その打突の激しさが伺わせる――だが、青年はぐっと唇を噛み締める。

 悔しそうに顔を歪め、渾身の力で人形の胴体を蹴り飛ばす。

 がしゃん、とけたたましい音がやけに空しく響き渡る――青年は、少しだけ冷静になり、肩を震わせる。


「くそっ、こんなことを、しても……」


 何もならない。それは、分かっていた。

 何故なら、彼――松平空也まつだいらくうやは、もう大事な人を失ってしまった。


 水原真紅みずはらしんく――無邪気な笑顔の、少女。

 同じ幼稚園から、大学まで一緒だった。一緒に、恋もした。

 にこにこと笑いながら、面倒見がよくて、困っている人を放っておけなかった。

 その笑顔を――もう、見ることはできない。

 彼女は、彼の腕の中で、か細く震えながら――最後まで、笑って。

 守りきれずに、その手から、零れ落ちていった――。


「――ッ!」


 竹刀を、床にたたきつける。砕けた竹刀が飛び散り、木張りの床に散らばる――。

 もう、過ぎてしまったこと――こうやって何かを埋めるように、身体を動かしても、彼女が戻ってこない。それは、分かっているのだ。

 それでも――動かずには、いられなかった。


「僕に、もっと力があれば――!」


 少しでも足が速ければ。

 少しでも力があれば。

 少しでも、思慮深ければ――。


(きっと、彼女は、死ぬことはなかったはずなのに――ッ)


 悔やんでも、悔やみきれない――その一心で、彼は身体を動かし続けていた。

 彼女が死んでから、ずっと、ずっと――。

 あの死に際の、笑顔を振りきるように。あるいは、忘れないように。身体に刻み付けるように、ただ彼は動き続けている。

 だけど――もう……。


「気が済んだか、空也」


 不意に、穏やかな低い声が聞こえた。視線を上げれば、そこに立っていたのは、初老の男が立っていた。着物姿で、じっと澄んだ瞳で見つめてくる。

 この道場の主で、空也の師匠である、楊令明ようれいめい――。

 諭すような穏やさで――厳しい声で、彼は告げる。


「もう、このような自棄を止めろ――どうやっても、彼女――真紅は戻ってこないのだぞ」

「――分かって、いますよ……それでも……忘れられないんです」

「もう――二年前の話、なんだぞ……?」

「二年前――そうでしょうか、僕にとってはつい昨日のように、思い出せますよ」


 あれは、事故だった。誰もが分かっている、ことだった。

 近くで起きた、ショッピングモールの火災――不意に起きた、謎の爆発だった。

 そこに居合わせた、空也と真紅はそれに巻き込まれた。逃げようと思えば、すぐに逃げることができた。しかし、二人はそれを良しとしなかった。

 二人は、逃げ遅れた人を助けるために残ったのだ。

 扉が歪み、逃げ出せなくなった飲食店の人たちを守るために、二人は扉を破り、中にいる人たちを助ける――そのときだった。


 ガス爆発に、巻き込まれたのは。


 子供を庇い、爆炎を直に受けた真紅を空也は必死に支えて外に出た。だけど、そのときには彼女の意識は、朦朧としていて――それでも、笑っていて――。


『ごめんね……空也……ごめん……』

『真紅……真紅……っ』

『泣か、ないで……空也……前を、向いて……お願い、だから……』

『お、おい……真紅……っ』

『前を向いて……いつか、追いついて、ね……』


 そう言って儚く笑った彼女の身体から、何かが抜け落ち――。

 ずっしりと、彼女の身体が腕の中で重くなったのを感じたのだ。

 その感触を思い出し、拳を握る――爪が掌に食い込み、ずきりと痛む。それよりも――胸の奥底が、痛い。どんなに忘れようとしても、あの最後の笑顔が心から離れない。


「楊師範――確かに、二年、経ちましたよ……分かっています……」


 真紅が死んで、二年間が経った。

 前に向いて欲しい。その願いに応えようと思った。忘れようとした。振り切ろうとした。いや――逃げ出そうとした。

 それでも――空也には、無理だったのだ。

 何をしても、どこにいようと――真紅の無邪気な笑顔がちらつく。

 人懐っこい仕草が、澄んだ声が、いつも一緒だった――あの、声が。


『空也くん、何やっているのかな?』

『あはっ、空也くん、なんで泣いているのかな?』

『空也くん、見て、綺麗な夕日だよ』

『ねえ、空也くん』


『空也くん』


 真紅の全てを――彼は、忘れることができなかった。


「僕には――真紅が、死んだと思うことが、できないんだ……」


 吐き出した言葉が、静けさの道場の中に消えていく――。

 やがて、師範のため息が深くこぼれ――そっと、空也の肩に手を載せ、その肩を強く握る。痛いほどの、掴まれた感触――。

 それが、きっと楊師範の中の、心の痛みなのだろう。


「好きに、するといい――羨ましいな。その、若さが。心の叫びが」


 そうつぶやいた楊師範が、踵を返す。

 彼もまた、真紅を大切に思っていた一人だった。妹夫婦が遺した、忘れ形見であり、目に入れても惜しくないくらいに、可愛がっていて――。

 彼もまた、一人、道場で呻き声を漏らしていたことを、空也だけが知っている。

 それでも――彼は、立ち上がったのだ。


(師範――僕は貴方の強さが、羨ましいよ……)


 想い出に縋ってしか、空也は動くことすらできない。

 いや、もう動くことすら、できないのかもしれない――。

 気がつけば、空也はその場で座り込み――ただ、呆然と涙を流していた。

 身体が鉛のように重い。どこか、視界も暗いように思える――気を抜けば、意識すら手放せそうな気がする――。


(それも、悪くない、か……)


 思わず笑みをこぼしながら、その場で目を閉じる――優しい闇が、包み込もうとしていた。


「――松平空也」


 意識を、縫い止めたのは、歪な声だった。

 思わず、瞼を開くと――そこには、白い光が立っていた。白い、靄のような人影。

 小柄な少年にも、老人にも――あるいは、少女にも見える。

 そこから響いてくる声は、ちぐはぐだった。まるで、いろんな人が喋った言葉を、無理矢理繋ぎ合わせたようだ。その言葉は、所々にノイズも走る。

 だが、次の瞬間、語った内容は、理解できた。できて、しまった。


「貴様は、水原真紅を、救いたいか」


「は、はは……」


 思わず乾いた笑みが零れ落ちる。ついに、幻覚まで見始めたか、と。

(見えるなら、真紅の幻覚がよかったな……最期の、最後で締まらない……)

 自嘲するように笑い、その白い光を見つめ返した。


「ああ、助けられるものなら、救いたい――仮に、もう一度、やり直せるのなら、僕は全力で助ける。この命を、代わりに捧げたとしても」

「やり直すことは、できない――だが、彼女を救うことはできる」

「どういう、ことだ?」

「彼女は、今、この次元ではない、別の世界で――窮しているのだ」


 目を見開く。白い靄は、小刻みに揺れる。

 笑いように、試すように、誘うように。

 歪な声が訊ねる。所々にノイズが走った声で、告げる。


「彼女は、今、誰も助けのない立場で、苦しんでいる」

「――連れて行け。そこへ」

「戻ってこられないのだぞ? いいのか?」

「もちろんだ」


 迷わなかった。自分の胸を拳で叩き、即答する。


「神でも悪魔でも構わない――代償が何であっても、構わない。真紅を、今度こそ救えるなら!」

「その言葉を、待っていた」


 不意に、声が澄み渡る。まるで、透き通るような声。

 それと共に、白い靄から扉開くように、光が満ち溢れる――。


「頼む――空也。真紅を、今度こそ、助けてくれ」


 その言葉は、とても優しくて――どこか、聞き覚えがある、気がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る