第111話天文24年(1555年)17歳

12月尾張末森城:織田信長視点


 鷹司卿の真実の姿を見たくてここまで来たが、思っていた以上に己を持っているな。

 確とした天下の構想を持っているし、それを実行するだけの行動力もある。

 己を守るための準備も怠っていないが、しかしあの狼は遣り過ぎだろう。

 ここまで追い込まれては、本願寺か三好の客将や属将となって他日を期すより、鷹司の内部に入って機会を窺う方が、復活の可能性が高いだろう。


 鷹司軍を案内して、末森城から急ぎ清州城に走った。

 鷹司に仕えるなら、徹底しなければならないから、先陣を務めて木曽三川を渡河して、河内に攻め込んだ。

 鷹司では既に浮橋も準備しており、牛馬に引かせる荷車に大弩砲を積んだ、砲車と言うものまであった。

 美濃決戦で、荷物を運ぶ車を鷹司卿が使っているのは知っていたが、まさか大弩砲を乗せるとは思いもしなかった。

 我が織田勢の裏切りに不意を突かれた一向衆は、河内の左岸上部を失ったが、状況を把握した後は激烈な反撃を行ってきやがった。

 まあ当然だろう、ずっと共に戦って来た俺に裏切られたのだから。

 だがそれは御互いさまだ、窮地に陥った我を傀儡にして、全ての実権を奪おうとしたのだから。

 今の時代に合従連衡は当たり前、余りに不当な要求をすれば、敵に寝返るのは当然で、裏切りを考えない方が悪い。

 力を失った我が一向衆の支援を頼れば、家臣は改宗させられ捕り込まれてしまう。

 改宗しない者は戦死するように仕向けられるか、人知れず殺されてしまうだろう。

 だが鷹司に降伏臣従すれば、家臣は独立させられ、鷹司の直臣化にされてしまうだろう。

 一旦主従の関係は切れても、互いに生きていれば、力を取り戻した時に再度取り込むことも可能だ。

 実兵力を持てなくとも、張良のように、 名声や権限を手に入れることは出来る。

 





1月尾張末森城:鷹司義信視点


 河内を攻めるのは難しかった。


 木曽三川が天然の水堀の役目を果たし、幾つもの島に分かれている為、1度の渡河上陸では済まないからだ。


 渡河の途中で弓や鉄砲で攻撃されたら、碌な抵抗もできずに、一方的に叩かれるだろう。


 その損害を考えれば、迂闊な攻撃はできない。


 それに今まで攻撃してきた山城と違って水が豊富だから、火攻めで焼き殺すのも難しいし、伊勢側を包囲していないから、兵糧攻めも成立しない。


 だが伊勢側を開けて、窮地になれば逃げる余地を残してやっているからこそ、完全包囲して殲滅しようとするより、自軍の損害を減らせると考えたのだが、結果はどうなるだろう?


 先に北伊勢側を確保する為の損害、北伊勢確保した後に維持し続ける損害、コンピューターで試算できる時代じゃないから、自分の感覚を信じるしかない。


 大弩砲の支援下で徐々に浮橋を前進させ、鉄砲射程圏と大弩砲制圧圏を前進させて、ついに河内侵攻を行ったが、一向衆の抵抗も激しかった。


 河内に残った小舟に藁や柴を乗せて、火舟にして浮橋にぶつけて来たのだ。


 何度も何度も浮橋を焼かれたものの、最後は生産量と補給量の差が、侵攻作戦の勝敗を決めた。


 次々と河内の島々まで浮橋を届かせ、大竹盾足軽隊で護られた、足軽槍隊と大弩砲搭載大八車(砲車)を前進させた。


 島々に攻め込めれば、後は虐殺に近かった。


 足軽盾隊・足軽槍隊・足軽弓隊・足軽鉄砲隊で鉄壁の陣を組み、砲車による遠距離支援攻撃で攻め立てたのだ。


 一向衆のよる必死の反撃も、盾隊に近付く前に、弓鉄砲で大半を討ち取った。


 何とか盾に取り付こうとした一向衆も、槍衾の所為で無理な態勢を強いられ、そこに3間槍が叩き落され、最後は討ち取られる事に成る。


 今の鷹司軍の兵列は、第1列が足軽盾隊、第2列が槍衾役の足軽槍隊、第3列が叩き役の足軽槍隊、第4・5・6列が足軽鉄砲隊、第7列が足軽弓隊、第8列が大弩砲隊となっている。


 3列以降は戦況に応じて順番を入れ替え、攻守を臨機応変に行うが、敵が近づいて来るまでは鉄砲隊が3列で交代射撃を行い、弓隊が最大射程の仰角で面制圧射を行う。


 敵が盾隊に近付けば、叩き役の槍隊が3列目に入る事に成る。


 専業兵でなければ、これほど連携した共同戦闘は行えない。


 常の訓練で諸兵科連携を考えておかなければ、各兵科だけで訓練していては、命懸けの戦場で上手く連携できないのだ。


 それにしても、一向衆の死を恐れぬ戦い方には辟易する。


 折角逃げ口を開けているのに、徹底抗戦する者がいるのだ。


 上級僧はさっさと逃げるのだが、唆された下級狂徒が城砦を死守させられ、上級僧の逃げる時間稼ぎをさせられる。


 俺達の侵攻を防ぐ為に、ほとんどの舟を火舟にしたから、島から移動できる人数が限られてしまっている。


 そこまで追い込まれる前に逃げろと言うか、自分達が逃げる船だけ残す上級僧に反吐が出る。


 兵力数では一向衆が上回るものの、総合戦力で圧倒している我が軍は、河内から一向衆を叩きだしたが、今回はここで進軍を中止した。


 進軍を停止した理由は、ここで停止する方が、戦力に余裕がでるからだ。


 木曽三川と養老山地を防壁とする事で、少数の兵で敵の侵攻を抑える事が出来る。


 その上で軍の再編を行った。


 生抜く為に向背つねなき国衆と地侍を直臣化する事は、今後の戦略上必要不可欠だ。


 だから三河と尾張の国衆と地侍は、城地を没収して土地から切り離し、近衛府扶持武士にする予定だ。


 最初に行ったのは、帰農を望む農兵達を武装解除して、村に戻した事だ。


 同時に彼らが、日々の生活に困らず生きていける様に、日雇い仕事を創り出した。


 三河と尾張で始めた日雇い仕事は、砲車や大八車が迅速に移動できるように、堤防と城壁が兼用となっている道や、純粋な道を普請させた。


 知行地が残った国衆と地侍には、領内の荒廃した田畑を回復させた。


 日々の兵糧や再開墾資金がない国衆と地侍には、この時代では破格の年利2割で資金を貸し与えた。


 彼らには、2年間は籠城以外の動員は掛けない事を約束して、復興に専念させた。


 一方知行地を取り上げて扶持化した者達は、俺の直轄地となった田畑の再開墾に動員した。


 直轄地の生産量は出来るだけ早く回復させなければならないが、食うや食わずの農民は、今食べるのに必死だから、彼らに金穀を貸し与えて回復させる手も有るが、それでは効率が悪い。


 何よりも貸借や金利の計算に、莫大な人手が取られるのが問題だ。


 俺が資金に困っているならともかく、莫大な資金が有るのだから、人材や労働力の有効活用を優先させた。


 経験豊富な部隊は、国境線の城砦群築城に投入した。


 中小国衆が群雄割拠する北伊勢が、連合して尾張や美濃に侵攻する恐れは少ない。


 だが俺が想像しているより早く、一向衆が体勢を立て直す事が、決して無いとは言えない。


 油断こそが一番の敵だと思うので、手を抜かずに全力を尽くした。


 この激戦の間に打った手がいくつかある。


 1つは高島七頭の朽木家に対する調略だ。


 朽木家は、京を追い出された足利義澄(1507年)と足利義晴(1528年)を匿うほど、将軍家に対して忠誠心がある。


 だが同時に、武家伝奏の飛鳥井雅綱の娘を前当主の正室に迎えており、朝廷との繋がりも深い。


 弱小国衆が独立を維持していくには、将軍家・朝廷・有力大名との関係に腐心してきたのだろう。


 此方としても緩衝地帯として、朽木家を含む高島七頭を滅ぼす気はない。


 朽木家の当主は、父が若くして戦死した為に、僅か6歳の竹若丸が務めている。


 祖父である朽木稙綱が後見しているが、外祖父である飛鳥井雅綱を使って、公家人脈からの調略ができる。


 稙綱も竹若丸の将来が心配だったのだろう、表面上は敵対しても、皇室への献金や献納に協力すれば本領安堵すると言う密約に乗って来た。


 表面上は朽木家から朝廷・目々典侍・飛鳥井への献上品として、御所内の近衛府軍に鷹司家から軍資金を送った。


 飛鳥井家の娘である目々典侍殿は、椿叔母さんと一緒に方仁親王の御側に仕えている。


 俺の支援が有る椿叔母さんは、資金的には第1皇子を御産みになった藤原(万里小路)房子殿を遥かに凌いでいるが、皇室の継承順に手を出すような不遜を行う心算は毛頭ない。


 史実では、徳川秀忠の娘である中宮・徳川和子が、次々と皇子を夭折で失っている。


 絶対に何か陰謀があったと思う。


 だがこのような事を起こさせては、皇室、鷹司、武田共に名誉を失う事に成る。


 それに亡くなられた永高内親王は、実弟の三条公之と婚約していたし、何より房子殿の祖父である万里小路賢房殿は、勧修寺教秀の3男で、遠いとはいえ縁戚なのだ。


 椿叔母さんが男児を御産みになられたら、宮家を創設させて頂ければそれで十分だ。


 その事は繰り返し繰り返し、朝廷・覚院宮・方仁親王・今上帝に奏上し、誤解の無いように努めて来た。


 朽木家を調略していて、飛鳥井家との縁も深くすべきだと分かった。


 飛鳥井雅綱の息子の1人である尭慧(ぎょうえ)が、真宗高田派(しんしゅうたかだは)の専修寺12世だと言うことが分かったのだ。


 高田派は本願寺派の蓮如が布教するまでは、本願寺派を凌ぐ門派であったそうで、加賀一向一揆・永正一揆・大小一揆・三河一向一揆と、常に本願寺派と戦い続けている。


 今回の河内長島一揆でも、鷹司側に立って戦っていたが、飛鳥井家の出だとは思ってもいなかった。


 政教分離の原則を曲げる気は毛頭無い。


 だが宗教に惑わされて道を誤る者も、救ってやれるなら救うべきだろう。


 尭慧(ぎょうえ)とは宗教の有り方を徹底的に話し合って、これからの天下の有り方に仏教がどう係わるべきか、結論下さなければけない。


 妥協点が見つけられなければ、本願寺派と共に滅ぼさねばならないが、妥協点が見つかれば、本願寺派の切り崩しを任せることになるだろう。


 公家の出なのだから、今上帝を頂点とした新しい天下の構想に、参画してくれると信じたい。






1月山城の御所内一条屋敷:第3者視点


「虎繁、御苦労である」


「有り難き御言葉を賜り、恐悦至極でございます」


「大内義隆親子を京に招き、羽林家を新家として立てる事が出来た。これも九条卿と鷹司卿の御助力の賜物である、余が礼を言っていたと御伝えしてくれ」


「は、確かに承りました。大内様が一条家の門流として、百済の聖王(聖明王)の第3王子の後裔、多々良家として新家が認められたとの事、この後新邸に御挨拶に伺わせて頂く所存でございます」


「うむ、そうしてやってくれれば、義隆も心丈夫であろう。今後とも帝の為、朝廷の為、九条卿と鷹司卿とは、手を取り合ってやっていきたいと思っておる。東国の事は御任せするから、西国の事は御構い下さるなと、御伝えしてくれ」


「承りました」


朽木竹若丸:朽木谷城城主・父・晴綱が戦死でわずか2歳で家督を継承、6歳

朽木稙綱(くつきたねつな):竹若丸祖父・後見人

竹若丸の母:飛鳥井雅綱の娘

 

飛鳥井雅綱:蹴鞠の大家・武家伝奏・竹若丸の外祖父 

「以下は子女」

覚澄:(安居院僧正)

某:(最勝院)

宗禎:(伊豆国修善寺住持)

喜雲:

飛鳥井雅春:

某:(最勝院)

尭慧(ぎょうえ):伊勢国一身田の無量寿寺(のちの専修寺)・専修寺12世・足利義晴の猶子

宗禎:(伊豆国修善寺住持・二卜と号す)

遠山:

某:(報恩院、水本と号す)

雅厳:(僧正・松橋)

重茂:

仏光寺経範の妻:

朽木晴綱室:

目々典侍:(方仁親王・後の正親町天皇典侍)

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