第48話天文19年(1550年)12歳・越中侵攻

1月10日花岡城の義信私室:義信視点


 小笠原長時の騎馬隊による略奪は、ほぼ封じ込めに成功した。領民と私財の全てを、城砦に収容保護した事で、略奪する物がなくなったのだ。あと小笠原にやれる事は、損害を無視した城砦への突撃だけだろう。


 軍を維持し士気を高めるには、将兵に勝利と褒賞(ほうしょう)を与え続けるしか、他に方法がなくなってきているのだろう。小笠原も馬鹿ではなく、密偵を使って色々調べているようだ。裏切った信濃国衆の中で、防御の薄い城砦に強襲を仕掛けて来る。


 それに対して俺は、以前から研究生産していた連弩を、支配下に入った城砦群に配備した。鉄砲よりも維持費が安く、難民上がりの兵にも扱えるからだ。野戦では扱い難いが、籠城では重宝する兵器だ。


 特に鉄砲や和弓の技術を習得するまでの繋ぎとして、籠城中の百姓衆や女子供に貸し与え、彼らを迎撃戦力化するには丁度いい。






3月5日花岡城の義信私室:義信視点


 2月26日に越後守護の上杉定実が亡くなった。謙信が暗殺した証拠はないが、このままでは謙信が守護を代行して、済崩(なしくず)し的に守護に就任してしまう。京の足利将軍家と細川晴元伯父上に加え、朝廷にも献金と根回しを済ませて、守護就任を阻止する準備はしてある。


 だがそれが必ず成功するとは限らない。だから謙信と敵対している、上田長尾家の長尾政景に、軍資金5万貫文を支援した。そして謙信が、上杉定実を暗殺すると吹き込んであった。


 長尾政景が、謙信の上杉定実暗殺を言い立てて、越後国内で兵を揚げてくれたら、謙信の越中介入を防ぐことができるかもしれない。なぜなら、越中は家臣の椎名康胤に預けていると考えている謙信は、俺が越中に攻め込めば、確実に援軍を率いて現れるからだ。






6月10日越中国の古国府城:武田義信視点


 雪解けを待って越中に侵攻した。侵攻は荻町城を起点に、庄川を下り古国府城を盗り、新湊を確保した!


 先陣は飛騨部隊1500兵にした。飛騨勢に裏切られ退路を断たれては、我が軍の全滅もありえるので、根こそぎ動員して先陣に抜擢した。


 次陣は木曽と諏訪の部隊700兵、3陣は扶持武士部隊2400兵、4陣は足軽弓隊と槍隊を交互に配備した5000兵、5陣は俺を含めた騎馬隊4000兵、6陣が黒鍬輜重(くろくわしちょう)5000兵。


 侵攻初日には、損害を恐れず我攻めで国境の藤井城を落とした。


 侵攻しながら黒鍬輜重部隊に、侵攻と防衛の拠点にできる新城の建築をさせた。そう言う万全の態勢で休息しつつ、庄川沿いを下り3日後に隠尾城主を落とした。


 隠尾城主の南部源左衛門尚吉は、忠誠心の強い武士と素破から報告を受けていた。そんな武人を殺すのは忍びなかったが、湊を確保したかった俺は、南部源左衛門尚吉を謀殺する準備を整えていた。


 何時ものように、潜入させていた素破に南部源左衛門尚吉暗殺させた。同時に近隣城砦の夜襲を実行し、これで南部尚源左衛門吉が支配下に置いていた隠尾城、千代ヶ様城、鉢伏山城を確保した。


 新湊を確保するまでは、本願寺との直接対決は後回しにしたかった。だから隠尾城付近にある本願寺の拠点、井波城は無視した。


 翌朝、近隣国衆に武田侵攻が知れ渡る前に素早く進軍し、庄川沿いの城砦群の攻略を目指した。


 神保安芸守氏重が守る亀山城と、神保安芸守氏重の支配下にある、増山城と孫次山砦を囲んだ。すると神保家は、我が軍の包囲を受けて、武田恭順派と徹底抗戦派に分かれた。


 神保氏重の養子・神保氏張は、誠意をもって養父に武田恭順を説得するも、聞き入れられなかった。そのためついに亀山城内では、武田恭順派と徹底抗戦派の戦いが発生し、武田恭順派が城門を開いた。


 これに乗じて俺は軍を突入させ、亀山城を制圧した。越中三大山城の1つ、増山城を楽に落とせたので助かった。


 神保氏張は能登畠山・畠山義総の猶子として神保氏重の養子となっていたので、武田に付いてくれた。畠山義総の正妻は勧修寺政顕の娘、その間に産まれた能登畠山の現当主・畠山義続は、回り回って俺とは縁戚になる。裏切りやすい下地があったし、そのための事前準備・根回しは慎重かつ十分やっておいたのだ。


 まあ、俺の立ち位置は微妙ではある。細川晴元伯父上の寄騎として見た場合は、畠山総州家の畠山在氏殿と畠山尚誠殿は味方だ。敵のはずの紀伊・河内国・越中の守護、尾州畠山家の畠山高政は、各地の守護代に実権を握られ当主と認められていない状態だ。


 一方足利義藤将軍の処遇を巡って、三好長慶と争い隠居された、尾州畠山家の先代・畠山政国殿は中立だ。これまた戦国時代ならではの複雑怪奇な関係だ。


 今回は能登の畠山義続殿が家中を修めきれず、畠山一門の越中守護権を放棄してでも、能登を確保したい思惑があった。


 義続殿は、家臣の伊丹総堅・平総知・長続連・温井総貞・三宅総広・遊佐宗円・遊佐続光などに、国政を壟断(ろうだん)されていた。


 だがその重臣団も、能登珠洲郡の領主・遊佐続光と能登国天堂城主・温井総貞を中心に2派にわかれ、権力争いで一触即発状態だった。


 義続殿には、能登国内の守護権力を取り返し、内乱を未然に防ぎたい思惑があった。そこで俺の軍事力を利用して、重臣団を取り除く心算のようだ。そのための取引材料として、越中の守護権を俺に渡すと共に、神保氏張を説得してくれた。


 俺は亀山城に守備兵を残して、神保氏張を先鋒に加えて、北陸道の要衝にある火宮城を囲んだ。


 火宮城は、沼地の中にある標高20m程度の丘陵に築かれており、全体を水濠で囲んでいた。主郭の外側は、北東・南西・南の3つの郭に分かれていて、北東郭は土塁と堀切を効果的に使い、入り組んだ構造となっている。南郭はなだらかな丘陵に作られ、平坦面が広く土塁・堀切・竪堀が効果的に配置されている。南西郭は傾斜のきつい丘陵に二段に分かれて郭が作られているが、土塁・堀切・竪堀などは設置されていない。


 こんな堅固な城を我攻めすると、大切な兵と時間を浪費してしまう。


 だから取りあえず、神保氏張を開城降伏の使者にたてた。条件は城兵の助命と逃亡の自由だが、もちろん扶持武士・足軽でよいなら、家臣として召し抱えると伝えてもらった。


 その上で万が一の事を考慮して、城兵が討って出られないように、弓足軽500兵と扶持武士500兵を城門前に配備した。そして残りの全軍を、新湊に近い放生津城を囲むために進軍させた。


 放生津城は富山湾の海岸線に近い平城で、長尾為景(上杉謙信の父)が攻めた時も、城主の神保慶宗(じんぼうよしむね)を破り、簡単に落城させた防御力の弱い城だ。だから俺も、扶持武士部隊を先鋒に、我攻めで一気に落城させた。


 翌日先鋒を入れ替え、庄川・小矢部川を渡河して古国府城を我攻めした。


 古国府城は守山城の出城で、新湊(伏木港)を抑えている。だから俺には、何があっても確保しなければならない城だった。


 古国府城は主郭を土塁と空堀で囲み、南北2か所の腰郭も土塁と空堀に守られている。さらに東西には捨郭が配置されていた。


 だから今回は、弓足軽隊を主力とした弓兵の面制圧弓射の支援の下で、扶持武士部隊が東西の捨郭から主郭を攻略し落城させたのだ。


 そこに我が軍の侵攻を知った神保長職が、急遽3000兵を狩り集めて富山城を出陣したとの知らせが入る。神保長職が、火宮城の抑えに残している我が部隊を攻撃したら、大損害を出してしまう。


 だが今いる古国府城から火宮城への距離は、歩兵部隊を伴えば長職の反撃速度に及ばない。そこで速度重視して、騎馬隊の中で騎乗している2000騎だけを率いて、急ぎ援軍に向かった。


 結果として、俺と長職が願海寺城付近で激突してしまう事になった。本来は川中島で上杉謙信に使う心算だった、鉄砲の一斉射撃を神保長職喰らわせた!


 俺が本当の戦国武将なら、火宮城を囲んでいる味方を囮にして、神保長職を誘い出すだろう。神保長職が味方を攻撃している所を見計らって、1万を超える大軍で押し包んで殲滅するだろう。切り札の鉄砲一斉射撃は秘匿するだろう。


 少なくとも謙信を騙し討ちにするまでは、鉄砲一斉射撃は秘匿するだろう。だが味方を見殺しにすることを、俺の不完全な良心回路が許さなかった。


 鉄砲の一斉射撃は射程内の神保兵を虐殺した!


 鉄砲の轟音に慣れていない馬は、暴れ出して主人を振り落として逃亡した。落馬して逃げ切れないと悟った神保長職は、自刃して果てた。俺の降伏勧告を受けた神保兵は、抵抗することなく武田家の軍門に下った。


 神保長職の敗死を知った神保方の国衆は、本領安堵を条件に次々と降伏して来た。湊を早期確保したい俺は、その降伏を受け入れた。


 これで白岩川南側から小矢部川北側の地域を確保した。古国府城で国衆の降伏の挨拶を受けていた俺は、挨拶を受ける10日間は、騎馬隊を信繁叔父上に預け別働隊として働いてもらった。支配下に入った城砦群を、巡回していただいたのだ。


 降伏してきた国衆の挨拶が終わった後で、頑強に降伏を拒否する守山城・摩頂山城・五十里砦を攻略するため、古国府城を出陣した。そして最初に、守山城の支城・摩頂山城を攻撃した。


 今回は騎馬隊が保有する鉄砲を活用させるべく、竹盾で城兵の攻撃を防ぎつつ、下馬した騎乗士の支援鉄砲射撃の下で、足軽槍隊に突撃させた。


 この戦法で、大した損害も出さずに、僅か1日の攻防で城を攻め落とす事ができた。


 翌日同じ戦法を使って、守山城に攻め掛かった。だが流石に越中3大山城の1つだけあって、摩頂山城のように1日で攻め落とすことはできず、落城させるまでに3日掛かってしまった。


 だがその攻防の間に、近隣の五十里砦の城兵は逃げ出したので、五十里砦は戦うことなく接収する事ができた。


 飛騨・越中の輸送路の安全を確保するために、黒鍬輜重(くろくわしちょう)部隊が5つの城砦を新築していた。

 (丸岡城・五箇山城・祖山城・大牧城・利賀城)


 ここで俺は決断することになる!


 それは越中一向一揆の牙城、勝興寺と瑞泉寺に戦端を開くか無視するかだ。


 瑞泉寺と言ってはいるが、瑞泉寺は実質的には井波城と言われる城だし、勝興寺も実質的には安養寺城と言う城だ。この2つの城に攻撃を仕掛ける事は、本願寺・一向宗との泥沼の宗教戦争を始めることになる!


 だが越中侵攻前に、信玄ともよくよく話し合った結果、新湊を確保できた場合は、井波城を攻撃する事にしていた。


 井波城は北陸における本願寺の一大拠点で、東西250m南北230m、北側を除く三方は巨大な土塁で囲まれ、南北には幅20mにも及ぶ広大な堀に囲まれた要衝だ。さら内部は三つの郭に分かれ、中央部には枡形虎口が有り、要所ごとに櫓台が建てられているので、我攻めすれば大損害が予想された。


 『越中侵攻軍』

飛騨先方:1500兵

木曽部隊: 200兵

諏訪部隊: 500兵

扶持武士:2400兵

足軽弓隊:2000兵

足軽槍隊:3000兵

騎馬隊 :4000兵

黒鍬輜重:5000兵


総計:1万8600兵


総大将 :武田義信

副将  :武田信繁

軍師  :鮎川善繁

侍大将 :於曾信安・板垣信憲

足軽大将:狗賓善狼・市川昌房・田上善親・田村善忠

武将  :酒依昌光・板垣信廣・有賀善内・武居善政・武居堯存・金刺善悦・金刺晴長・矢崎善且・小坂善蔵・守矢頼真・松岡頼貞・座光寺為清・知久頼元・山村良利・山村良候・贄川重有・大祝豊保・沢房重・鵜飼忠和・両角重政・山中幸利・小原広勝・小原忠国


『飛騨勢』

江馬時盛勢:弟・麻生野直盛・河上光久・吉村政元

塩谷秋貞勢:杉政三郎右衛門

広瀬利治勢:田中与左衛門・塩屋利盛

平野右衛門尉勢:平野安室

飯山保貞勢:

畑安高勢:

高山外記勢:

鮎崎新兵衛尉勢:

内ヶ島氏理勢:川尻氏信・川尾刑部・川尾右近・川尾氏倍・山下時慶・山下氏勝・尾上氏綱・内ヶ島氏詮・内ヶ島氏直・内ヶ島氏輝


『義信指揮下の全部隊数』

足軽弓隊 :2000兵

足軽槍隊 :6500兵

扶持武士団:5900兵

騎馬隊  :4000兵

黒鍬輜重兵:5000兵


飛騨衆  :1500兵

木曽衆  : 200兵

諏訪衆  : 500兵


『部隊配置』

犬甘城 :曽根昌世 ・足軽兵  ・1000兵

和田城 :今田家盛 ・足軽兵  ・ 500兵

中山城 :滝川一益 ・足軽兵  ・ 500兵

矢ヶ崎城:相良友和 ・足軽兵  ・ 500兵

林城  :楠浦虎常 ・扶持武士団・ 500兵

福山城 :加津野昌世・扶持武士団・ 500兵

水番城 :米倉重継 ・扶持武士団・ 500兵

深志城(信州松本城):漆戸虎光・足軽兵・1000兵


妻籠城  :甘利信忠・扶持武士団・1000兵


青崩城砦群:飯富虎昌・扶持武士団・1000兵・子飼兵800兵


桐原城 :武居善種

霜降城 :花岡善秋

洞山城 :大祝右馬助勢

横谷入城:浅間孫太郎

稲倉城 :千野靭負尉勢

三才山城:赤羽大膳

茶臼山城:諏訪満隆勢

横谷入城:座光寺頼近勢

赤沢氏館:千野昌房勢

三才山館:千野光弘勢

北条城等:三村勢


福応館:福山善沖勢

丸山館:丸山善知勢

殿館 :殿勢

荒井城:島立貞知

村井城(小屋館):諏訪満隣勢


櫛木城 :櫛置当主

波多山城:櫛置勢城代

淡路城 :櫛置勢城代

伊深城 :後庁重常


花岡城:元難民が統治

金子城:元難民が統治

その他統治地域の城砦は元難民が統治

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る