第49話第二次下向・越中侵食・ジャンク船購入の模索。

6月10日越中国古国府城:武田義信視点


 ここで、俺が越中侵攻できた背景を語ろう。


 全ては信玄あっての事なのだ。


 先にも、信玄が甲斐で今川・北条・関東管領上杉・村上・小笠原に備えていると語ったが、もし俺が信玄を殺したり追放したりしていたら、叔父たちや彼らを担いだ国衆と血で血を洗う内乱となるだろう。


 内乱となっていなくても、彼らが俺に従った振りをしていた場合、今回のような遠征をすれば、伊那を狙って留守中に反逆しただろう。史実でも甲斐の覇権を争って、穴山信懸は今川に組して武田信虎爺ちゃんと戦ってる。俺の守役・飯富虎昌ですら、信虎爺ちゃんと争っているのだ。


 だから信玄から俺への権力交代は、遅ければ遅いほどいいのだ。最低でも俺に子ができて、その子が元服してからだ。

 

 次になぜ信玄が俺を殺して伊奈を手に入れないか、それは簡単だ、俺の家臣領民が反乱するからだ。たぶん飛影を頭に、伊那を封鎖して戦うだろう。他の直轄城砦と連携しつつ、信玄の首を執拗に狙うだろう。


 莫大な軍資金と生産力を持つ飛影たちに、信玄が勝てるとは思わない。もし信玄が勝ったとしても、戦で伊那の生産力は失われているだろう。いや、逃げた者が信玄と敵対している大名家に移住して、そこで生産活動を再開するから、相対的に俺が産まれる前より甲斐は弱くなるだろう。


 飛影を初めとする、俺の直臣衆が裏切らない訳も簡単だ。裏切り者は恩知らずと排除され、伊那では血で血を洗う権力闘争が始まる。大別すれば河原者と山窩の二大派閥だが、それぞれの生産分野ごとに、派閥や血縁集団がある。


 彼らの中から、必ず伊那を逃げる者たちが出てくる。それでは他国に情報や技術が流れてしまい、もはや伊那の先進性は失われる。そんな事になれば、伊那と言う楽園が崩壊(ほうかい)することが明らかだからだ。


 結論は内部抗争は駄目と言う事だ。


 次に本願寺との抗争だが、俺は政教分離は絶対守らなければならないと思っている。いや宗教嫌いなのだ!


 特にオウム真理教が業界の悪評を撒き散らしてから、東洋思想の施術を封印していた。その後なぜ俺が死んだのかは思い出せない。戦前の国家神道も嫌いだし、ISなどは唾棄すべき存在だと思っている!


 その点織田信長の叡山焼き討ちなどには共感を覚えるし、本願寺の一向宗との闘争も賛成している。だから史実で本願寺に嫁ぎ如春尼となった、叔母さんの結婚妨害工作は前からしている。


 いや俺が縁談を進めている段階では、一切本願寺との婚姻話は出ていなかった。たぶん晴元伯父上が完全に没落し、三条公頼お爺ちゃんが大内の陶反乱に巻き込まれて亡くなってからの話だろう。


 俺が叔母さんの嫁ぎ先として画策しているのは、皇室への入内だ。俺の経済力なら、女院止まり、いや典侍しか置けない今の皇室で、叔母さんを皇后や中宮に薦めるとも可能だ。駄目なら五摂家・今川家・北条家当たりだ。


 結論は本願寺の一向宗との対決は不可避だが、先延ばしできるなら、できる限り後回しにする。だが戦う場合には、必ず勝つ!


 それと、越後で仕掛けた内乱について語ろう。謙信の長尾政景討伐は、史実ほど進んでいない、いやむしろ苦戦している。俺が仕掛けた守護・上杉定実暗殺の噂が、想像以上に効果があったのだ。


 実兄で先代守護代の長尾晴景も、謙信が暗殺したと言う噂が立ったのだ。兄も殺したとなったら、2度も主君を殺したことになり、国衆を掌握するには非常に不利だ。だがなぜこんな噂が信じられたのか?


 それは父親・長尾為景の兇状にある。主人である越後守護・上杉房能を攻め自刃に追い込み、報復の合戦を起こした、房能の実兄で関東管領・上杉顕定と戦い敗死させているのだ!


 つまり実父が2度主殺しをしているのだ!


 これに今回の主殺しの噂が重なって、国衆の離反が止まらないのだ。越後では守護・守護代の2つの権力を争って、血で血を洗う権力抗争が勃発している。


 ここで史実の謙信が、あれほど「義」を強調したかの、謎の一端が窺(うかが)える。「義」を強調し、それに即した行動をしなければ、越後の国衆を束ねる事ができない凶状持ちの家系なのだ。特に関東管領職に執着した理由も、父親の関東管領殺しのトラウマなのかもしれない。


 さてここで俺の謀略の影響を考えよう。親子二代に渡る4度の主殺しの謙信に、足利義藤将軍は越後守護職を与えられるのだろうか?


 関東管領・上杉憲政は、謙信を頼って越後に落ちる事ができるのだろうか?


 そもそも謙信は越後を統一できるのだろうか?


 俺は前世の記憶で謙信と呼んでいるが、長尾から上杉への改名は無理な気がしてきた。


 次に俺が新湊を確保して行った事を語ろう。


 新湊を確保した俺が、合戦と共に優先して行った事が、真珠の販売だ。湊を確保したら、水軍の確立と海上交易は最優先事項だ。だがそのためには、海賊衆を支配下に置くか、独自に水軍を設立しなければならない。


 安東水軍(能代水軍)・丹後水軍・輪島水軍から、海賊としての知識と技術のある者を引き抜くこと。小早船・関船・安宅船を建造して漁師に貸与し、徐々に自前で水軍を育成していく事だ。


 だが交易を優先に考えると、1年で北回り航路を1往復しかできない和船には、交易量で限界がある。だからと言って、俺には南蛮船を建造する知識も能力もない。


 俺の知識を加えて改良や建造が可能な船は、1000石弁財船だ。全長29m・幅7・5m・深さ2・4m・帆柱27m・帆の大きさ18m×20m・積載重量約150トンくらいだろう。


 だがこれでは、1年1往復は覆せない。しかし明国のジャンク船を購入できたらどうだろう。ジャンク船は喫水の浅い海での航行に便利で、耐波性に優れ、速度も同時代の南蛮船よりも上だ。


 帆は横方向に多数の割り竹が挿入されており、1枚の帆全体を帆柱頂部から吊り下げている。だから風上への切り上り性に優れ、横風に対する安定性が同時代の南蛮船と比べ高く、もし突風が近づいた時も素早く帆を下ろすことを可能だったはずだ。


 ジャンク船なら、日本海の北回り航路を、1年で3往復可能だったと記憶している!


 依頼するジャンク船は、全長28m・幅7・5m・深さ3・3m・帆柱27m・帆の大きさ18m×20m・積石数1500石以上の交易船タイプと、全長35m・幅9・4m・深さ4・2m尺・帆柱34m・帆の大きさ23m×25mの戦闘艦タイプにした。


 だが問題は、取引の安全性と支払い方法だった。欠陥船だと大問題だし、買ったはずの船を船員に奪われても最悪だ。取引相手が明国海賊だと、それぐらいの警戒は必要だ。それに支払いの対価が、食料品や奴隷だったら問題外だ!


 だが金銀銅貨は手元に残して置きたいと言う事で、淡水真珠の登場となる。博多商人や堺商人を通じて事前交渉していたが、交渉の結果淡水真珠1個を金貨1両と同等の扱いとなった。交易船ジャンクは淡水真珠1500個、戦闘艦ジャンクは淡水真珠2500個で話が付いた。


 次に京からの下向について語ろう。


 京から飛騨の桜洞城に入られていた第1次公家下向衆は、信濃伊那の吉岡城に移動され、この世の春を謳歌(おうか)されている。駿府の今川義元の下に遊びに行く公家衆もおり、関料なしで商品の移動売買ができる商人が、盛んに吉岡城と今川館の移動を後押ししている。俺が想像していた以上に、伊那と駿河の交流が盛んになっている。


 第2次公家下向衆は、雪解けには飛騨路に入れるように京を立っている。今回も晴元伯父上に軍資金を提供して、護衛の足軽を集めて頂いた。武田足軽3000兵用に2万貫文、晴元伯父上足軽3000兵用に2万貫文送った。もちろん銭ではなく、漢方薬や薬酒などの、少量で大金に換金できる商品で送った。


 そして今回の下向の指揮官には、畠山在氏殿を指名した。この軍資金と兵力で、伯父上は三好長慶と拮抗できるのだろうか?






6月11日越中国の古国府城:武田義信視点


 俺は周辺国の情勢を判断して、白岩川・上市川流域に勢力を持ち、神保氏張に属していた、土肥政繁(どいまさしげ)の討伐を一向宗より優先した。謙信が動けない間に、越後国境線まで攻め取る!


 一向宗と元神保勢が、同盟して一斉蜂起した場合を考慮して、対応できるように守備兵を配置した上で出陣した。降伏臣従した越中国衆を先陣に、土肥方城砦を猛攻し、弓庄城・堀江城などを攻め落とした。


 土肥政繁は抗しきれないと判断して、松倉城の椎名康胤を頼って落ちて行った。残された土肥家の家来衆が降伏してきたので、俺の軍に加えて北上し、彼らを先陣に要塞堅固な松倉城と支城群を囲んだ。


 完全に籠城体制を固めた城を落とすのは難しく、1カ月の攻防で松倉城と支城群を落城させた。だが慎重に城攻めを行ったお陰で、思っていたより少ない損害で済んだ。


 今回の侵攻で手柄を立てた家臣には、新旧の別なく、それに見合う一時的な褒賞銭をばら撒いた。さらにそれとは別に、永続的な扶持銭支給と、子弟一門の新規取り立てをした。新規取り立てた子弟一門は、新たな武家として扶持武士団に組み込んだ。


 切り取った越中の土地は、古くからの直臣(元難民)や、甲斐・譜代衆出身の近習に与えた。この政策によって、越中国内に武田家臣を根付かせる心算だ。


 越中攻略の損害が少なくなったのには、慎重な戦術以外にも理由がある。それはこの1カ月の間に、畠山在氏殿と3000兵が、援軍として飛騨から越中に入られたからだ。


 第2次公家下向衆を護衛して飛騨に入られた畠山在氏殿は、公家衆と別れて越中援軍として来られた。俺は彼の畠山の名跡を利用したのだ。そのために下向の指揮官として、畠山在氏殿を指名したのだ。


 越中の国衆地侍も、武田には降伏できなくても、もともとの守護家である畠山家になら降伏しやすい。その上で、武田には臣従できないが、畠山になら臣従できる。そういう越中衆には、畠山在氏殿に付き従い上洛してもらう。その方が武田の越中統治が楽になるのだ。そのための軍資金は、惜しまず大盤振る舞いする。


 この戦術を、越中攻略の最初から行えばよかったのだが、思いついたのが冬で、第1次公家衆下向に間に合わなかった。それに最初は圧倒的武力を見せなければ、交渉が不利と判断したからだ。


 それに畠山在氏殿にしても、3000兵を率いて飛騨に入れば、普通は飛騨を切り取る野望が、内心に芽生えるだろう。


 それを未然に防ぐために、畠山在氏殿が素直に越中で兵を集めれば、毎年2万貫文の軍資金支援すると約束したのだ。飛騨を一時的に制圧できたとしても3万石だが、そんな事をすれば直ぐに俺と信玄の挟み撃ちに会い、袋叩きにされる。


 ならば毎年2万貫文支援してもらい、越中で集めた兵で、山城と河内半国の奪還を目指す方がよい。畠山在氏殿ならそう判断されると読んだのだが、その通りに事が運んだのだ。


 俺と畠山在氏殿は、越中を巡って降伏勧告した。武田に付いて越中に残ったら、本領安堵を約束した。敵対すれば滅亡させるとも通告した。畠山在氏殿に付いて上洛すれば、本領と同じ扶持を保証した。


 だが国衆も強かだ、武家の体面と実利を得るために、一族で武田派と畠山派に分かれたのだ。軍役の動員が減るため本領は少し削られるが、当主や後継者が少数の畠山派を率いて上洛する事にしたのだ。


 畠山在氏殿と能登の畠山義続の勧告を受け入れて、武田に降伏する。だが同時に、畠山家復興の上洛兵を整える、そう言う体裁を取ったのだ。


 その結果として、本来なら殺し合って、互いに磨り潰したはずの将兵が、俺の手元に残った。本願寺の一向宗以外は、越中全域を制圧できた。その上で越後からの介入を防ぐため、宮崎城・元屋敷城・明石城・扇山砦・上百山砦・横尾城を直轄城として、対謙信用に増築強化した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る