第47話下向第一陣・年末棚卸

9月3日花岡城の義信私室:義信視点


 小笠原長時の北条城強襲は予想外だった。まさか陣頭指揮して、全軍夜襲を仕掛けてくるとは思わなかった。だがこれは、ある意味好都合だった。


 俺が悪者にならずに、元小笠原勢の大物を取り除くことができた。ありがとう長時ちゃん。これで境目の国衆は、俺を頼るしかなくなった。彼らは今頃、小笠原長時の恨みの深さに恐怖しているだろう。


 小笠原長時を裏切った国衆は、報復として、いつ全軍夜襲を仕掛けられるか分からない状態だ。結果として、境目の寝返り国衆は、武田の援軍を城砦内に受け入れるしかない。


 それと、小笠原と村上の騎馬隊による夜襲略奪は、小笠原だけが続けているようだ。彼らは合戦で年貢収入と関料が激減していて、軍の維持に汲々としている。略奪収入で軍を維持するしか、他に方法がないのだろう。


 一方関料で莫大な利益を上げたのが、遠江の今川とその国衆だ。俺との正式交易の窓口は、伊那口が一番関数が少なく、いわゆる関税が安く済む。だから各地の商人は、遠江の湊に船をつけ、商品を荷揚げして甲斐に陸路で持ち込む。そして甲斐で俺が開発した産物を買い込み、西国に運び利益を上げる。


 次に儲けたのは、駿河口を受け持つ穴山と、相模口を受け持つ小山田だ。だから彼らの経済力は、侮れない状態だろう。穴山家と小山田家の関料収入を正確に把握して、その分軍役を負担させて、余分な利益を吐き出させないといけない。


 そうしておかないと、力をつけた穴山家と小山田家が、独立の野心を抱くかもしれない。そんな事になると、いつ寝首を掻かれるか分かった物ではない。信玄とよく相談して、対村上戦で穴山家と小山田家を消耗させないといけない。


 規模は少なくなるが、美濃口の斎藤家と上野口の関東管領・上杉も利益を出しているだろう。彼らが武田と友好を計って、利益の安定を目指してくれればよい。だが羨(うらや)み妬(ねた)んで、攻め込んで来たら大変だ。国境線の警戒と兵力配備には、今まで以上に資金を投入しなければならない。


 俺の経済力と甲斐信濃への領内投資は、武田支配域に好景気をもたらした。俺に産物を供給してくれる元難民も、予定以上に豊かに成っている。特に荷役などの歩合のある家臣領民の購買力は、飛躍的に上昇している。


 6年の歳月は、元難民にも家族をもたらした。いや、俺が態と裏切り防止の人質になる、家庭を持たせる政策をしたのだ。


 それは兎も角、大切な家族に少しでも豊かな生活をさせてやりたいのは人情だ。愛する家族がいれば、美味し物を食べさせてやりたいし、暖かな着物の1つも買ってやりたくなる。だからこそ、銭と物の流れが上手くいっている。この好景気サイクルを維持すれば、武田が負ける事はない!






9月4日京の三条屋敷:第3者視点


 甲斐下向の第1陣が整った。当初は細川晴元と前将軍の足利義晴は、下向の護衛に付ける兵力抽出に難色を示した。しかし義信から、新たな雑兵雇用の軍資金供与を受けて、ようやく納得した。


 下向護衛に使う足軽2000兵用に1万貫文。細川晴元が独自に足軽集め使う1万貫文。合計2万貫文が義信から供与された。


 公家衆の武田への手土産も決まった。三条公頼の鷹司家の継承が認められたのだ!


 さらに太政大臣任官が決まり、三条公頼は京に残留することになった。これに伴い、武田二郎改め三条実信の、三条家当主継承も認められた。これらは表向き武田家直接の褒美(ほうび)ではなかったが、この後大盤振る舞いがあった。


 武田家が願い出ていた、信繁への左馬助・正六位下と、信廉の大膳大進・従六位上就任が認められた。あとは信玄の官位が微妙に上がったが、これは次男の二郎との官位逆転現象を考慮したのだろう。公家らしい配慮と言える。これにより武田家は、お礼と内祝いを公家にばらまくことになった。


鷹司公頼:従一位 :太政大臣


武田信玄:従四位上:大膳大夫兼甲斐守

    :足利幕府・礼式奉行・国持衆・甲斐守護    

武田義信:従五位下:大膳亮

    :足利幕府・准国持衆・飛騨守護


三条実信:従四位下:侍従

三条公之:従五位下:侍従に任官


武田信繁 :正六位下:左馬助

武田信廉 :従六位上:大膳大進

姉小路信綱:従六位下:飛騨国司

     :足利幕府・飛騨守護代


 義信の影衆が率いる公家衆の下向は、険しい山道を越える事になった。本当は堺に出て、海路で遠江に行くのが楽なのだ。だが将軍家の軍が護衛しているため、将軍家と細川晴元が敵対している、三好長慶の勢力圏を行くのは危険だった。


 そこで仕方なく、近江を通り美濃に入ってから飛騨に向かう事になった。だがここでも、周辺諸国の戦乱が影響してくる。


 それは三河を巡る、織田信秀と今川義元殿の合戦だ。信濃伊那郡吉岡城に入るのなら、本当は美濃から尾張に出て海路で遠江に行くのが楽なのだ。だが三河で大合戦中のため、幕府軍であろうと下向は危険だった。仕方なく万が一にも戦に巻き込まれないように、美濃から飛騨川を上って飛騨桜洞城に入る、山道を使う事になった。


 道案内の者には、公家衆の足が遅いのは織り込み済みだった。正直な所は、女子供を含む喰うに困った難民なのだ。だから下向のついでに、各種物資の豊富な堺から、食料や硝石などの戦略物資を大量に運ばせることになった。


 それでなくとも武田領内は、合戦と好景気で物価高になっている。大量の公家衆が下向すれば、さらに物価高に拍車がかかる。物価を安定させるためにも、眼に見える形で大量の物資を、公家衆と共に武田領で受け入れないと不味いのだ。


 今回の公家衆の下向には、堺・近江の商人も多数随伴していた。公家衆の家人と言う体裁を整えれば、安全な上に片道の関料が免除になるのだ。公家衆に賄賂を払ってでも、武田領で物資を売買できれば、大きな利益が見込めるのだ。


 さらに強(したた)かな商人は、下向途中に各地の国衆地侍を相手に商売を行っている。武田家としても、大量の物資が必要だから、黙認していた。


 それに商人だけではなく、通過する近江と美濃の国衆が、高位高官の公家に接待を行った。野心を持つ国衆が、この好機を見逃すはずはなく、公家衆や朝廷と縁を結ぼうと必死だった。武田家も、将来近江と美濃の国衆切り崩しは考慮しており、護衛役が調略を行っていた。


 下向の公家衆は、大桑城の土岐頼芸殿の下で長めに滞在した。斎藤道三の稲葉山城よりも、長めに滞在した。大桑城は前世の山県市大桑・青波・富永地区にあり、飛騨から長良川を下れば鷲見城・烏帽子山城・二日町城・六ツ城・阿千葉城・東氏館・木越城・東殿山城・中山城・深戸城・苅安城・高原城・鉈尾山城・小野城・跡部城を経由して、飛騨から直接援軍が可能になる。


 だがそのためには、土岐家旧臣の心を繋ぎ止めて置く必要がある。特に直接援軍経路を抑えている、東一族と跡部一族への懐柔と圧力は、武田家にとって必須だった。そのために武田家の案内役は、大桑城に長く逗留(とうりゅう)して、土岐頼芸との親密な関係を築こうとした。


東常慶

東殿山城:東常堯

木越城 :遠藤胤縁

苅安城 :遠藤盛数


跡部城 :跡部将監頼利

小野城 :斎藤氏






12月1日飛騨桜洞城の三条夫人私室:第3者視点


 義信の願いを受けて、三条夫人は飛騨の桜洞城に来ていた。武田家を代表して、桜洞城に入る公家衆を歓迎していた。もちろん三条実信になった二郎と、三条公之になった三郎も同行させている。これから2人には、公家としての勉強があるのだ。


 桜洞城はもともと三木直頼の避寒地だったし、飛騨攻略のため大軍を越冬させたことがある。その時に大人数が快適に越冬するために、多くの長屋が建てられていた。そこに大量の人夫と銭を投入して、公家衆が快適に暮らせるように改築した。公家衆には、春まではここで我慢してもらうしかなかった。






12月10日花岡城の義信私室:義信視点


 さて、なぜ三河で大合戦が起きたかと言うと、3月に松平広忠が暗殺されたからだ。今川義元殿は三河を横領すべく、太原雪斎を総大将に公称2万余の軍勢を三河へ出陣させた。もちろん2万の中には、松平勢も含まれている。


 太原雪斎は今川勢の一部を岡崎城に入れて、三河の横領を確定させた。さらに織田方の安祥城を孤立させるべく、尾張からの援軍遮断のために、鳴海・大高方面にも軍を分けて派遣した。


 その上で山崎城をなどの安祥城の出城を占領し、松平竹千代との交換のために人質が必要と言って、松平家の戦意を煽った。


 主君の松平広忠を暗殺されて、当主不在の松平勢は、被害を顧みず安祥城攻め立てた。三の丸と二の丸を次々に落とし本丸に迫ったが、焦り過ぎて陣代の本多忠高(本多忠勝の父)が討ち死にしてしまった!


 陣代を失った松平勢の動揺は激しく、太原雪斎はいったん軍を引いたそうだ。


 9月に成って太原雪斎は再出陣した。吉良氏の一族である荒川義広の拠点であった、幡豆郡荒川山に布陣して、織田信秀に協力した東条吉良家の西尾城を攻略した。これに観念した東条吉良家当主の吉良義安は、織田派の重臣を処分した上で降伏した。


 しかし重臣を処分して降伏したものの、吉良義安は人質として駿府に送られてしまう。しかも今川家は、西条吉良家の吉良義昭に東条吉良家も継がせて、両吉良家の統合を強行した。


 今川は本来吉良家の分家だ、分家が本家を支配下に置く、正に下克上の戦国時代だ。だが俺にとっては、ここにも工作の下地がある。後でチョッカイ出せる様に、十分調べさせておこう。


 安祥城に迫る今川軍に対して、織田家は平手政秀を大将として援軍を派遣した。織田軍は頑強に抵抗するものの、安祥城は落城し織田信広は捕虜になった。これで松平竹千代と織田信広は交換されるのだろうが、松平竹千代は史実通り駿府に人質として送られ、三河は今川の属国化されるのだろうな。


 その証拠に、安祥城には天野景泰・井伊直盛が城代として送り込まれた。岡崎城にも山田景隆が城代として送り込まれた。今川家に敵対的な三河の国衆や地侍に対しては、当主を駿府に住まわせたり人質をとることで、裏切りの動きを封じた。


 今川義元は、友好的な国衆や地侍に家督を継がせたり領地を与えることで、三河の支配力を強化していった。そのため西三河はほぼ今川の勢力圏になったと言える。


 刈谷城は水野信近に返還して、水野一族を取り込もうとしているようだが、宗家の緒川城主・水野信元の去就は、今後の合戦の行方に掛かっているのだろう。






12月25日花岡城の義信私室:義信視点


 伊那・木曽・諏訪郡では、開発と兵農分離が進み、直轄化がほぼ完了した。これにより伊那・木曽・諏訪郡の生産物や銭が、直接俺に入ることになった。だが境目の合戦地域は税を免除したので、その収入はなしだ。


 何とか麦焼酎の価格崩壊に歯止めがかかった。豊かになった俺の直臣や領民が、大量の麦焼酎を買ってくれたからだ。


 兵糧・武具甲冑・牛馬の購入にも大量に資金を投入した。伊那に入った下向護衛の足軽2000兵は、俺の軍に組み込んだ。これからも公家下向の護衛として、畿内で雑兵を集めよう。もちろんそのための工作資金は、惜しむ事なく湯水の如く使った。






『義信直轄力』


甲斐水田 :1100町(1万1000反)

甲斐畑  : 700町(7000反)

信濃伊那郡:10万石

信濃諏訪郡: 3万石

信濃木曽郡: 1・5万石

飛騨   :3万石


取れ高

玄米: 8万2000石

雑穀:15万0000石


備蓄兵糧

玄米:35万石

麦 :70万石


焼酎生産力

杜氏20人

杜氏1人当たり3石甕1000個前後

20×3×1000=6万石

6万石×(1合卸値21文)=126万貫文


鉄砲  :2778丁

三間槍 :8000本

三間薙刀:6000本

弓   :8000張

大型弩砲: 500基


打刀  :1万9000振

太刀  :  5000振

足軽具足:1万9000個


足軽弓隊 :2000兵

足軽槍隊 :6500兵

扶持武士団:5900兵

騎馬隊  :4000兵

黒鍬輜重兵:5000兵


繁殖牝馬:1523頭

訓練育成中の軍馬

0歳馬:1422頭

1歳馬:1346頭

2歳馬: 848頭

3歳馬: 421頭

4歳馬: 165頭


繁殖牝牛:911頭

育成中の牛

0歳牛:898頭

1歳牛:782頭

2歳牛:492頭

3歳牛:191頭

4歳牛: 99頭


合戦・牛馬・武具・米麦・恩賞・裏工作費用など歳出

120万貫文


『軍資金』

使用不能な武田貨幣

金銀銅貨合計:4000万貫文

(10文黄銅貨が特に使えない・半分は信玄保有)


使用可能な精銭・永楽銭

188万貫文

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