第9話撤退巻き返し

「はい、愉しみにしております」

「それでどこまで引く心算なのだ」

「矢作川を利用します。ですから岡崎城を拠点とします」

「元康の城だな。では元康は、今川に忠誠を尽しているのだな」

「はい。ですが哀しき事ながら、己が権勢を誇る為に、御隠居様の救出を邪魔する者がおりました。そこを織田が突いて、松平家裏切りの嘘を流しました。しかしながら元康様は、命を懸けて御隠居様の救出の戦を仕掛けております」

「うむ、左様か。余や氏真の威を借りて、遠江国衆や三河国衆を、下に見る者がいるのだな」

「普段ならば見過ごす事も出来ますが、戦場での行いは、今川家の浮沈に係わります。現に今回は、御隠居様救出軍の敗北にまでつながりました」

「あの夜の合戦の雄叫びは、その為であったか」

「三浦義就、江尻親良、斎藤利澄などが邪魔せねば、もっと早くお助けできました。いえ、私の白拍子や歩き巫女が伝えた事を信じてくれれば、鵜殿長照様、朝比奈泰朝様、岡部元信様もこの場にいたはずでございます」

 讒言していると思われない範囲で、三浦義就・江尻親良・斎藤利澄の地位を下げなければならない。

 氏真を盛り立てそうな者達の印象を、徐々に悪くしていく。

 その上で、父上や関口・新野・松平の地位と石高を上げて行く。

「おとわや義直、井伊家を軽んじた事が、余の敗北につながったと言いたいのか」

 だが露骨な地位と石高の要求は、義元に不信を持たれかねない。

 氏真だけでなく、義元も猜疑心は強い。

 例え命の恩人であろうが、息子であろうが、今川家の邪魔と判断すれば容赦なく殺すだろう。

「いえ、そうではございません。私の聞いた範囲では、天意に近いのでございましょう。さもなければ、御隠居様が沓掛を出て大高に向かう、あの刻に合せて雹は降りません。ですが、それを人意で跳ね除けました。問題は一度人意で跳ね除けた御隠居様の死という天意に、愚かにも従って御隠居様を殺そうとする一門譜代衆がいる事です。彼らを従わせる格が、御屋形様の腹心には必要でございます」

「織田家を攻め滅ぼすのは、天意に反していると申しているのか。その天意を跳ね除けて今川家が勝つためには、井伊家の家格を上げ、義直に氏真に負けない身分を与えろと言う事か」

「いえ、それでは今川家の内紛になり兼ねません。それは御家を危うくするだけで、天に意のままに操られる事になります。今川家の家督争いにもならず、裏切る心配も無い者に、地位と権力を与えることが最良と考えます」

「それはおとわ、御前に実権を与えろと言う事か」

「領地や銭が欲しいとは申しませんが、幼き頃から育てて来ました白拍子や歩き巫女を、御隠居様の正式な耳目に認めて頂きたいので。」

「おとわが素破の棟梁に成ると言うのだな」

「そうして頂ければ、もし万が一また天意が御隠居様を否定しても、人意でお助け出来ると思います」

「白拍子や歩き巫女を使って、諸将を動かす権を手にしたいと申すか。よかろう。とわはまるで胸に虎を飼っているようだから、今日から素破の棟梁として、直虎と名乗るがいい」

「有り難き幸せでございます」

 沓掛城を逃げ出し岡崎城に向かう道すがら、今後の方針と私や義直・義盛父上の地位について約束をしてもらった。

 特に指揮系統の問題は大きかった。

「今回の事でも明らかですが、御隠居様が指揮出来なく成った時は、軍勢が烏合の衆になり、散り散りに成ってしまいます。救出軍も、義直が参るまで指揮権で揉めておりました。織田への反撃時は、義直を正式な副将として、御隠居様の助けとしてはいかかでしょうか」

「義直を先鋒か後方の大将にして、余が指揮出来なく成った時に、全軍の指揮をさせるのだな。だが実際の指揮をするのは、直盛か直平なのだな」

「井伊家の兵力をどこに置くかは、御隠居様の御考え次第でございますが、義直はまだ九歳でございます。後方に置いて頂ければ、嬉しく思います」

「直虎も母親だな。義直を先鋒には置きたくないか」

「それもございますが、義直が必要とされるのは、敵との合戦が混戦となり、指揮が混乱した場合でございます。義直が最前線にいれば、混戦に巻き込まれてしまいます。後方にいれば、冷静に戦況を見て対処できます」

「直虎の申す通りだな」

『三河・岡崎城』

 私は義元・義直と共に、岡崎城まで引いた。

 今回は逃げたと言う必要はない。

 徐々に沓掛城から撤退して来る義元直属兵に話によると、織田軍を沓掛城周辺から撤退させたようだ。つまり沓掛城の戦いは、今川の勝利に終わったとう事だろう。

「御隠居様、只今戻りました」

「この度の働き天晴である。褒めてつかわす」

「お褒めに預かり、恐悦至極に存じます」

「うむ、それで沓掛城はどうなっている」

 大爺様が、救援軍を率いて岡崎城に戻って来た。

 これで岡崎城が落ちる心配はなくなった。

 義元直属軍に救援軍が加われば、五千兵は確保出来るだろう。

 これだけ兵数が有れば、織田が軍を再編して攻めてきても安心だ。

「沓掛城外の合戦は、御味方の大勝利でございます。御隠居様が沓掛城から討って出られたことで、織田軍の陣構えは崩壊いたしました。そこを我が孫・直盛と元康殿、親永殿、氏俊殿が攻め立てられ、織田軍を敗走に追い込みました。沓掛城の守備は、浅井正敏、近藤景春が以前のように努めております」

「織田軍への追い討ちは行わなかったのか」

「残念ながら、闇夜での追い討ちには限界がございました。先ずは御隠居様の撤退を確実にする為、沓掛城外を確保する事を優先したしました。何より義直の救援軍は強行軍で沓掛城に駆けつけた為、疲弊が強く追い討ちは無理でございました。直盛と元康殿、親永殿、氏俊殿の軍も、無理を重ねておったようで、追撃は危険と判断されたようでございます」

「うむ、直平の申す通りだな。それで直盛達はどうしているのだ」

「御隠居様をお助けする為とは言え、丸根砦を放棄してしまいましたので、今一度確保すると申して軍を丸根砦に進めました」

「うむ、それはよくやってくれた。もし丸根砦の再確保が出来なくても、今回の功名が傷つくわけではない。直ぐに使者を送って、感状を届けさせよう」

「有り難き幸せでございます。直盛に成り代わり、御礼申し上げます」

 徐々に名の有る将も、岡崎城の御隠居様の下に集まって来た。

 だがここで駿河に戻れば、今川の負けと世間は思うだろう。

 義元もその事は十分かっているようで、軍を再編して、再び善照寺砦・丹下砦・中島砦を攻め掛かると宣言された。

岡崎城:今川義元・井伊直虎・井伊直平・井伊義直・久野元宗・久野氏忠

   :松井宗信・蒲原氏徳・庵原之政・庵原忠縁・庵原忠春・富永氏繁

   :藤枝氏秋・長谷川元長・由比正信・吉田氏好・一宮宗是

沓掛城:浅井正敏・近藤景春

大高城:鵜殿長照・飯尾乗連

鳴海城:岡部元信・岡部長定

鷲津砦:朝比奈泰朝・朝比奈親徳・朝比奈秀詮

丸根砦:松平元康・石川家成・酒井忠次・本多忠勝・本多忠真

   :井伊直盛・瀬名氏俊・関口親永

戦死又は逃亡:三浦義就・江尻親良・斎藤利澄・松平宗次・松平政忠

 徐々に集まった報告では、丸根砦は父上を頭に再度攻め取る事が出来たようだ。

 義元救出の邪魔した今川家の者共は、討ち死にするか逃亡したようだ。

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