第7話井伊直平
『遠江・井伊谷城』
「大爺様、お久し振りでございます。此方におられますのが、御隠居様の四男で援軍総大将を務められます、井伊義直様で御座います」
「御初に御目にかかります。井伊直平でございます。義直様の御尊顔を拝し奉り、恐悦至極でございます。おとわ様の御壮健な御姿を拝する事が叶いましたこと、我が心は喜びに満ちております」
「直平高祖父様の元気な御姿を見る事が出来た事、とても嬉しく思っています。この度は若年にもかかわらず、父上の援軍大将の任を任される事になりました。そこで寿桂尼様、三浦氏満殿、母上様の推薦を受け、直平高祖父様に後見役を引き受けて頂きたく参りました」
「そのような大任を、このような隠居に任せて頂けるなど、名誉この上ない事でございます。この身に変えましても、義直様の御役にたてさせて頂きます」
「頼みます。直平高祖父様」
「はは。お任せ下さい、義直様。そこで陣代としてお願いしたいことがございます」
「なんですか。直平高祖父様」
「今後は、主従のけじめを周りの者に示さねばなりません。これからは直平と呼び捨て願います。そうせねば、義直様は井伊家の一族として周りから見られてしまいます。御隠居様の実子として、御屋形様の御舎弟として、集まる諸将を心服させていく必要がございます」
「わかった直。これからは主従のけじめを付けて、周りの目を意識しようぞ」
「早速の御承諾、有り難き幸せでございます」
私達は急ぎに急いで、井伊家の本拠・井伊谷城まで辿り着いていた。
白拍子と歩き巫女は、日頃からの修練で強行軍に耐え抜き、地侍と雑兵も必至で付いてきた。
これが可能になったのは、先ぶれの騎馬を先行さて、要所要所に水やおにぎりを用意させていたからだ。
進軍するに従って兵数が増大し、後から追いかけてくる将兵も徐々に増えて来た。
「それで直平、父上の安否は分かるか」
「今は御隠居様が籠られる沓掛城を中心に、今川と織田のにらみ合いが続いております」
「まだ直盛御爺様の援軍は到着していないのか」
「いえ、直盛が指揮する井伊勢は織田軍と対峙しております」
「なぜ御爺様は、父上を助けるために戦を始められないのだ」
「義直様。直盛と呼び捨てになされませ」
「うむ、わかった。直盛は何故戦を仕掛けないのじゃ」
「今川勢を纏める者がおらぬのでございます。直盛と瀬名氏俊様、関口親永様などの五千兵と、松平元康様の二千兵だけならよかったのですが、散り散りになっていた将兵が集まり、直盛が指揮する事に異を唱えているようでございます」
「父上が敵に囲まれ命に係わる状態と言うのに、そのような愚かな事で戦を仕掛けられぬとは、情けない話だな」
「仰られる通りでございます。ですが三浦義就が強硬に指揮権を要求しており、御隠居様の身近にいた江尻親良と斎藤利澄なども同調しているようでございます」
「直平大爺様、そこは義直様に急ぎ駆け付けて頂く事として、井伊家の陣容はどうなっているのです」
「おとわ様が小野一族を排除してくれたので、結束は出来ております。中野直由を筆頭家老として、奥山朝宗などが直臣衆を率いております。近藤康用、菅沼忠久、鈴木重時などの寄騎衆も、異心なく働いてくれています」
「では義直様さえ沓掛城に駆け付ける事が出来たら、今川軍は結束して織田軍に当たる事が出来るのですね」
「左様でございます。おとわ様」
直平大爺様と色々話し合ったが、どうにも心配だ。
織田軍が、今川の態勢が整うまで手を拱いているとは思えない。
義元の命を奪う絶好の機会なのだ。
翌日夜が明ける前、むしろ深夜に近い時間に、白拍子が急報を伝えて来た。
「おみ、何があったのです」
「今川軍が織田軍の夜襲を受け潰走いたしました」
「父上が、それ程容易く織田に後れを取るとは思えないです。何か理由が有るのですか」
「織田軍は今川軍の不仲に気づいていたようでございます。夜陰に乗じて三浦義就らの陣に入り込み、松平元康謀叛と叫んで暴れたようでございます」
「何と愚かな。易々と陣内に入り込まれた上に、離間策に乗せられたと言う事ですか。
「はい。松平勢の裏切りを信じ切った三浦勢は、同士討ちを始めた上に逃げ出してしまいました。その混乱で井伊家などの陣も動揺してしまい、織田軍の攻撃を支える事が出来ませんでした」
「父上や叔父上、関口様の安否は分かりますか」
「残念ながら生死は不明でございます」
「では松平勢はどうなりました」
「松平勢の陣は無傷だったと思われます」
「夜襲の時は裏切っていなかったでしょうが、裏切りを偽装されたのです。敗退した今川軍は、松平勢が裏切ったと決めつけて、本当の同士討ちが始まるかもしれません。敗走した今川軍は、織田軍に策に嵌まって負けたと言うより、松平の裏切りで負けたと信じたいでしょう」
「織田がそれを突いてくると仰られるのですか」
「私が信長なら、松平家に同盟を持ちかけます」
「そうなれば今川は大変な事になりますね」
「はい。ですが全ては御隠居様の生死に掛かっています。御隠居様は御無事なのですか」
「私が此方に向かうまでは、沓掛城は持ちこたえていました」
「今日の行軍は、昨日にまして急がねばなりません」
私は義直と直平大爺様を起こして、事の顛末を伝えて行軍を急がせた。
だからと言って、疲弊した状況で最前線に行くのは愚かだ。
それに追い込まれた松平勢が、織田軍と手を組まないとは断言できない。
そこで今川家の代官が預かっている、松平家の本拠地・岡崎城を確保する事にした。
「山田殿、此方がこの度の援軍の総大将と成られた、御隠居様の四男、義直様です。」
「御初に御目にかかります。岡崎城の城代を務めさせて頂いております、山田景隆と申します。以後お見知りおき願います」
「うむ、宜しく頼む。して御父上のことは何か情報が入っているのか」
「申し訳ございません。織田の奇襲を受け敗走され、沓掛城に入られたと言う以外は、何も分かっておりません」
「物見を出しておらんのか」
「今回の尾張遠征に多くの兵が動員されている為、物見に出す兵すら残っておりませんでした」
「そうか、ならば教えてつかわす。三浦義就、江尻親良、斎藤利澄らは、御父上の危急にもかかわらず、井伊直盛の指揮に不服を申して従わず、救援の合戦を反対した。しかも無能にも織田の策に嵌まり、松平元康裏切りの嘘に踊らされて同士討ちを始め、織田軍につけいる隙を与えたのだ。その為に今川軍は再び潰走する事になった。もはや父上をお助けするのは我らしかない。景隆は何があっても岡崎城を死守し、これ以上織田に付け入る隙を与えるではない」
「はは、承りました」
義直は教えた通りの事を言ってくれ、徐々に集まった援軍の諸将の前で、立派な振舞いが出来た。
義元の援軍を出し渋った氏真との違いを、際立って印象付ける事が出来た。
後は襤褸が出ないように、大爺様に任せるのが一番だ。
「直平、後の指示を致せ」
「はは、承りました。今ここに集まった援軍は二千兵を越える。これだけの兵があれば、織田と十分戦う事が出来る。だが、御隠居様を救い出す事が一番の目標だ。無理に織田と雌雄を決する必要は無い。そこで今日は十分休養を取り、明払暁に岡崎城を立ち沓掛城を目指す。そしてしゃにむに沓掛城を囲む織田軍を攻め立て、囲みを破り御隠居様を救い出したら安祥城にまで引く。それで宜しいかな、御一同」
「「「「「おう。何としても御隠居様を御救いするぞ」」」」」
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