第5話桶狭間の戦い
一五六〇年『駿河・今川館・おとわ私室』
「しらね、怪我をしているようですね。いったい何があったのです」
「信長の奇襲でございます」
「やはり仕掛けてきましたか」
「はい。御隠居様は、十分な索敵をした上で沓掛城を出られたのですが、折悪しく雹混じりの大雨となり、信長軍の接近を許してしまいました」
「御隠居様も陰陽師を側に置かれるべきなのでしょうが、よき者が見つからぬようです」
「私達でも務まりますが、周りの者達が許すとは思われません」
「そうでしょうね。それで御隠居様はどうされたのですか」
「話が逸れました。御隠居様は、桶狭間山の麓で信長軍の奇襲を受けてしまわれましたが、雨が降り出して直ぐに、輿を降り馬に乗っておられました」
「奇襲に備えておられたのですね」
「はい。馬廻り三百騎にも騎乗を命じられ、何時でも動ける体制を整えておられました。奇襲の一報が入って直ぐに、沓掛城に撤退を御命じになられました」
「無事に沓掛城に入られたのですね」
「はい。ただ直盛様の行方が分かりません」
「父上は、先鋒の大将を任されておられましたね。だとすると、背後を信長に取られた事になります」
「はい。先鋒と本隊は分断された上、奇襲前後の雨で御隠居様の安否も分からず、沓掛城に逃げた御味方と、大高城に逃げた御味方に分かれたようでございます」
「ですが御隠居様は、無事に沓掛城に入られた。だとすれば、散り散りに逃げた御味方も、沓掛城に集まりますね」
「そう思われます。直盛様の安否を確認する為、沓掛城と大高城の周りには、手の者を潜ませております」
「この話を寿桂尼様に御伝えします。ついて来なさい」
いい機会だ。
ここで四郎の元服と初陣を済ませてしまう手も有る。
危険は伴うが、初陣が御隠居様の援軍の大将なら、後々評価が高くなるだろう。
氏真が援軍を率いるのは、危険だと皆が反対するはず。
だが名の有る将の殆どは、御隠居様と共に出陣してしまっている。
直平大爺様を後見役にすれば、井伊家の指揮下に諸将を置く実績を作ることも出来る。
「今川方城砦」
沓掛城:今川義元・浅井正敏・近藤景春・松井宗信・蒲原氏徳など
大高城:鵜殿長照・井伊直盛・瀬名氏俊・関口親永など
鳴海城:岡部元信
丸根砦:松平元康・石川家成・酒井忠次
鷲津砦:朝比奈泰朝・本多忠勝・本多忠真
私の急報で今川館は大騒動となったが、猜疑心の強い氏真は、私が御屋形様の留守に謀反を企んだ策謀と決めつけた。
寿桂尼様と三浦氏満の取り無しで無事に済んだが、やはり迂闊に動くと逆効果になりかねない。
今の所は、寿桂尼様と氏真の重臣で後見役でもある三浦氏満が抑えているが、万が一義元が討ち取られるようなら、氏真は躊躇わず私と子供達を殺すだろう。
白拍子達との連絡を密にして、いざという時は井伊谷に逃げなければならない。
三浦氏満は、亡くなった朝比奈泰能と並ぶ重臣で、駿河に残る氏真の後見役兼御目付だ。
その氏満の手配りで、駿河から多くの若武者が物見に放たれ、同時に在国の国衆と地侍に、根こそぎ動員を掛ける準備を整えた。
「ふじ、どうしたのです」
「御隠居様の籠られる沓掛城に、信長が猛攻を仕掛けております」
「一刻の猶予も無いのですね」
「手の者を大高城、丸根砦、鷲津砦にも向かわせて、御隠居様の援軍に向かうように手配りいたしましたが、結果までは確認できておりません。一刻も早く御知らせすべく戻ってまいりました」
「分かりました。一緒に来なさい」
私は意を決して、寿桂尼様と直談判する事にした。
このままでは、座して死を待つことになりかねない。
女中達の案内を受けて寿桂尼様の部屋まで行ったが、氏真が当主に就いてからの今川館は、敵地と同じ。
油断すると刺客に殺される可能性も有れば、毒殺される恐れもある。
「寿桂尼様、手の者が新たな知らせを持って参りました」
「白拍子達ですね。直答を許しますから、詳しく話を聞かせなさい」
寿桂尼様も、義元が心配なのだろう。
身分卑しい白拍子の直答を許された。
「はい、恐れながら申し上げます。信長軍は五千の兵をもって、御隠居様が入られた沓掛城に攻撃を仕掛けております」
「御隠居様は、今はまだ御無事なのですね。沓掛城は持ちこたえられそうなのですか」
「申し訳ありません。御隠居様が騎馬にて沓掛城に入られたのは確かなのですが、直ぐに織田軍が城を包囲した為、城内の様子を窺い知る事が出来ません。ただ織田軍は、御隠居様が沓掛城に入られた事に気付いているようで、何としても沓掛城を落とさんと、猛攻を仕掛けております。大高城の鵜殿長照様、鳴海城の岡部元信様、丸根砦の松平元康様、鷲津砦の朝比奈泰朝に、御隠居様の援軍を御願いする白拍子を送りましたが、私達の言葉を信じて下さるかどうか・・・・・」
ふじは迫真の演技で、自分達の言葉を伝えた。
真実以外伝えてはいないのだ。
所作一つで、嘘を言っているようにも見えてしまうし、真実にも見えてくる。
何よりも大切なのは、氏真の猜疑心の所為で、貴重な時を失った事を印象付ける事だ。
同時に、白拍子と歩き巫女の、今川家内での地位を確立する事だ。
今までは、公家衆や有力譜代の性接待用の高級娼婦でしかなかったが、これからは諜報部門として認めさせる。
そしてその棟梁として、私の地位を明確にする。
「直ちに援軍を出さねばなりません。氏真をここに呼びなさい。氏満も一緒に呼ぶのです」
氏真が今川館にいるのは当然だから、直ぐにやって来た。
氏満も、私が前日届けた急報に対応する為に館に詰めていたようで、氏真と一緒にやって来た。
「氏真、氏満、今おとわの手の者から連絡が入りました。御隠居様が入られた沓掛城が、織田の攻撃を受けて危ういそうです。至急援軍を出しなさい」
「それは嘘でございます、御婆様。おとわが私を罠に嵌める為の、嘘偽りでございます」
「何故おとわが氏真を罠に嵌める必要があるのです」
「おとわは四郎に今川家を継がせたいのです。その為に今川館の護りを薄くして、謀反を起こす準備をしているのです」
「何を馬鹿な事を言っているのです。既に今川の家督は氏真が継いでいるでは有りませんか。何を心配する必要があるのです。それにおとわに謀反を起こす兵などないではありませんか」
「井伊谷に兵が残っております。白拍子達にも武芸を修練させておりました。全てはこの日の為でございます」
「愚かなことを申すでない。白拍子達に後れを取る譜代衆ではありません。井伊家の兵も、御隠居様の先鋒として、織田と戦っているではないですか」
「井伊谷に兵を残しております。それに関口、新野、松平の兵を加えれば、十分私の首を狙えます」
流石に氏真は猜疑心が強いだけに、的確に私の狙いを見抜いている。
恐らく義元も見抜いているだろう。
だが義元が今川の為に私達を操る心算なのに対して、氏真は逸早く取り除く心算だ。
当然だろう。
義元には氏真も四郎も我が子には違いない。
だが氏真から見れば、自分の地位を狙う憎き弟なのだ。
「関口も新野も、今川一門で譜代の家臣ではないか。それを無暗に疑うなど、家臣の信を失いますよ。愚かなことを申さず、今直ぐ援軍を送りなさい」
「御婆様、私は今川の当主です。いかに御婆様であろうと、軍事の指図は受けません」
「氏満。御前もその心算なのですか。御隠居様を見殺しにすると言うのですか」
「今物見を派遣しております。彼らの帰還を待って、何時でも出陣出来るように手配しております。御隠居様が大軍を編成されたため、直ぐに軍を送る事は不可能でございます」
「何を申しているのです。今川館を護る兵がいるではないですか。御前達二人は、御隠居様を見殺しにする心算ですか」
「寿桂尼様、御二人は御隠居様が邪魔なのです。家督を譲られたと言っても、それは表面だけの事。実際の政務は、御隠居様が握られておられます。氏真様は、自分の思うままに今川家を動かす為に、御隠居様を見殺しにする御心算です。氏満殿も同じでございます。自らが思いのままに今川家を動かしたいのです。御隠居様がおられれば不可能ですが、氏真様だけなら、今川家を横領する事も可能と思っているのでしょう」
「「何を言う」」
「寿桂尼様。私と四郎を、御隠居様の援軍に行かせてください」
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