2-8 依頼人はあの人

 年が明け、年末年始の気忙しい時期も終わりつつある頃、「メロス」は忘新年会帰りのサラリーマンの姿も徐々になくなり、閑散とした普段の姿に戻っていった。

 祥次郎と秋音は、年末年始も十分休めず店を切り盛りしてきたが、客足が落ち着いてきたのを見計らって、遅い正月休みを取ることにした。

 秋音は実家に帰る予定であり、若菜は大学入試に向けて勉強の追い込み、そして祥次郎は店の中で何もすることなく過ごす予定である。

 休み前の最後の営業日、秋音は早めに出勤し、少しずつ古い酒や食品の整理をしていると、入り口のドアがいつものように大きな音を出して開き始めた。


「お久しぶり、秋音ちゃん。私だよ!」

「あ!理香ちゃん。久しぶり~!」


 秋音の目の前に飛び込んできたのは、満面の笑顔で手を振る池沢理香の姿だった。


「今日はどうしたの?というか、たまにはお店に遊びにきてよ!」

「あはは、ごめんね。行こうと思ってはいても、なかなか足が向かなくてさ」


 そう言うと、理香は鞄から有名菓子店の名前が入った紙袋を取り出すと、カウンターの上に置いた。


「みんなで食べてね。ここのバウムクーヘン、すっごく美味しいんだよ。秋音ちゃんやマスターにも食べてもらいたくて、買ってきちゃった」

「わあ!『車輪屋』のバウムクーヘンだ!これ、凄く美味しいよね。ただ、お店言ってもいつも行列ができていて、買うのが大変なんだよなあ。早速切り分けて、食べようか」


 秋音から包丁を取り出し、丁寧に四等分した。


「すごい!私、こんな美味しいバームクーヘン食べたことない!}

「でしょ?」


 そう言うと、理香もひとかけらを手に取り、美味しそうに頬張っていた。

 しばらくすると、祥次郎が若菜とともに厨房から出てきた。


「お!理香さん、久しぶりだね。何だよ、俺たちに内緒で二人で美味しいもの食べてるなんて」

「あ、ごめんなさい、二人の分もありますよ。どうぞ」


 秋音は、祥次郎と若菜にも切り分けたバウムクーヘンを手渡した。


「う、うますぎるっ!何じゃこりゃあ!?」

「お、美味しすぎますぅ。ふわふわで濃厚で、最高ですぅ~!」


 二人の反応は正直微妙であったが、美味しく頂いている様子であった。


「美味しいお土産サンキュー、理香ちゃん。今日は何か飲んでく?」

「そうね、何にしようかな?」


 理香は、しばらく考え込んだような顔をしたが、やがて、秋音の方に向き直り、


「やっぱ、ジントニックかな?こないだ飲んですごく美味しかったし」

「オッケー!じゃ、ちょっと待っててね」


 祥次郎と秋音が「あうん」の呼吸で手際よくカクテルを作り出す様子を、理香は頬杖しながらずっと見つめていた。


「いいね。お二人はずっと仲良くカクテルを作ることが出来て」

「ええ?そ、そんな仲良さそうに見える?」


 秋音は、突然の理香の言葉に驚いた。


「お互い喧嘩しているようで、すごく信頼し合ってやっているように見えるんだもん。今の私たちと真逆だし」

「私たちって?今の仕事の仲間?」


 秋音の言葉に、理香は笑いながら頷いた。


「私、ウエストサイドホテルを辞めることにしたんだ。もう、あの場所にいるのが耐えられなくて」

「え?今、何て言った?」

「辞めるのよ。辞表も書いたし、明日提出してこようと思うんだ」


 理香は、目の前に置かれたグラスを手に取り、そっと口元に運んだ。


「はあ……美味しい」

「ねえ、どういうこと?諸悪の根源である前の社長がいなくなったのに、何でまた辞めようだなんて思っているの?」

「私たちのホテルにエクセレントグループの社員が経営に入ってくるようになってね、社長もグループから派遣されてきた人だし。マニュアルもすべて改められたし。私たちの意向なんて以前よりも反映されなくなって、そのことに嫌気を感じて辞める人が続出してるんだ」

「そうなんだ……ごめんね、私がもっと早く動いていれば、こんなことは無かったんだろうね」


 すると、理香はフッと笑いながら、理香の方を向き、空になったグラスを差し出した。


「美味しかった。もう一杯、同じヤツをお願いしますっ!」

「う、うん……」


 秋音はジントニックを再びグラスに注ぎ込むと、理香はためらうことなく、再び口の中に注ぎ込むように飲んだ。


「一緒に仕事を頑張ってきた仲間は、てんでバラバラだよ。重田支配人は、本部の総務に異動して現場を離れちゃったし、坂口君は年末に辞めちゃったし、麻友ちゃんは年明けからずっと仕事を休んでるし……私、何で一人で頑張ってるんだろうって、すごく空しくなっちゃって」

「そんな酷いことになっていたんだ……」

「でもさ、もう、以前のように上層部と抗おうなんて思わない。うちのホテルの財務状況を考えたら、エクセレントグループに世話にならないとやっていけないのは事実だから。これからもウエストサイドホテルの名を遺すには、これしか道が無いんだと思うと、諦めがついたというかね」


 そう言うと、理香は空になったグラスを再び秋音に差し出した。


「秋音ちゃんの気持ち、すごく嬉しかった。私たちのことをいつも考えてくれてて、本当に感謝してるよ。でも、もういいからね。私は私のやりたいことが出来る場所を、自分で探していくからさ。さ、今日は私の門出を一緒に祝ってちょうだい!秋音ちゃんも一緒に飲まない?今夜はとことんお付き合いしてちょうだい、ね?」

「う……うん。いいけど」

「どうしたのよ?そんな申し訳なさそうな顔はしないで。私はもう気にしてないから。これからは、自由に生きていく。それだけだからさ」


 そう言うと、理香はウインクし、グラスを傾けた。秋音も、自分のグラスに理香が飲んでいるジントニックを注ぎ込んだ。


「これからの私たちに……乾杯!」

「乾杯!」


 二つのグラスが心地よい音を響かせ重なり合ったその後、秋音と理香の二人は、時間が経つのを忘れて飲み、語り、笑いあった。

 理香にはずっと溜まりに溜まった鬱憤があったのだろうか、仕事の愚痴もこれでもかと吐き出した。

 秋音は、顔をしかめつつも頷いて、理香の話に聞き入った。

 二人が談笑している間に若菜は自宅に帰り、残された祥次郎は誰にも相手にされず、一人ぽつんと厨房にこもってスマートフォンで海外ミュージシャンの動画を見て、ボソボソと歌いながら時間を潰していた。


 時計が十二時を指そうとしていた頃、店内に響き渡っていた騒がしい声がようやく消え失せた。

 祥次郎はようやく厨房から姿を出し、カウンターに目を遣ると、秋音と理香の二人は、カウンターに突っ伏すかのような姿で熟睡していた。

 祥次郎は両方の手のひらを上げて呆れつつも、毛布を取り出し、二人の背中にかけてあげた。

 その時、入口の重いドアが、鈍い音を立てて開いた。


「いらっしゃいませ」

「こんばんは、こないだはお世話になりました」


 姿を見せたのは、先日、秋音と共にやってきた祥次郎の実の兄弟である野口三喜雄と、三十、いや四十代くらいの比較的若いサラリーマン風の男性であった。

 実の兄弟である野口に顔を合わせるのは正直気が引ける祥次郎であったが、秋音が熟睡中であるため、出来るだけ真正面から顔を見せないようにしながら、野口との会話を続けた。


「この前は、大変お世話になりました。あれ、関口さんは?」

「そこで、ずっと寝てますが」


 祥次郎がカウンターを指さすと、熟睡している秋音の姿を見て野口は目を丸くして驚き、近寄った。


「大丈夫ですか?お顔の色も悪いようですが、このままにしておいて、大丈夫なんでしょうか?」

「大丈夫ですよ。飲みすぎただけですよ。それより、お隣の方は?」

「ああ、紹介が遅れました。私、先日ここで関口さんに頼まれ事をされましてね。ウエストサイドホテルがエクセレントグループに合併されるのを防いでほしいと、ね。そこで、今日、私の知り合いで、エクセレントグループの顧問弁護士を担当している寺下てらしたさんをお連れしたんです」


 野口がそう話すと、寺下は笑顔で一歩前に出て、名刺を祥次郎に手渡した。


「はじめまして。弁護士の寺下です。このたびはよろしくお願いいたします」

「はい……こちらこそ」


 名刺には、『寺下法律事務所 寺下幸樹こうき』と書かれてあった。


「早速ですが、お話があります。ちょっとだけ、お時間を頂いて、よろしいでしょうか?」

「ああ。いいけど……俺で分かる話かな?」

「ええ、大丈夫ですよ。今日は私が、社長から受けたお話を直々に伝えたいと思います。今から私が伝えるお話を受けていただけるのであれば、今回の合併の話は考え直してもいい、とのことです」

「な、なんだって!?」


 祥次郎は、寺下から出された衝撃的な提案内容に、驚きを隠せなかった。

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