2-7 信じていいの?
シングルモルトのウイスキーを飲み干した野口は、一息つくと、ゆっくりと立ち上がった。そして、上着のポケットから財布を取り出すと、万札をそっと秋音の手の中に忍ばせた。
「今日はありがとう。これ、チップね。あ、お代じゃなく、あなたの心遣いと美味しいお酒を提供してくれたことへのほんの気持ちです。気にしないで受け取って」
「あ、あの、こんなに?」
「いいんですよ。さ、私はこれで帰ります。今日は本当にありがとう」
野口はコートを羽織り、マフラーを首に巻くと、出口へと歩みを進めた。
秋音はカウンターを出て、ドアの前に立って、野口の行く手を阻んだ。
「ごめんなさい、これは結構です。その代わり、教えてほしいことがあるんです」
「ほう。なんでしょう?」
「さっき、企業合併の仲介のお仕事をしてるって言いましたよね?私の友達の勤めてるホテルが、大手のホテルグループに吸収合併されそうなんです。友達はそのホテルで働くことにやりがいを感じていたのに、黙って吸収合併されてしまうのを見てられなくって。だから、吸収合併を防ぐために何かいい知恵があれば、教えていただけないでしょうか?」
野口は顎に手を置き、しばらく物思いに耽った後、秋音の方を振り返った。
「そのホテルの名前は、何というのですか?」
「ウエストサイドホテルです」
「どちらのホテルに合併されるのでしょうか?」
「エクセレントグループです。ご存知でしょうか?」
すると、野口は何か思い当たることがあった様子で、目を見開き、口元が緩んだように見えた。
「ああ、知ってますよ。名前だけですけどね。私のところで手掛けていない案件ですが、知り合いの同業者に聞いてみましょうか?」
「本当ですか!?」
「ええ、さすがに細かいことまでは教えてくれないでしょうけどね。力になれるか分かりませんが、関口さんとお友達の役に立つことができれば、と思います」
「あ、ありがとうございます!やった!」
秋音は、こみ上げてくる嬉しさをこらえられず、思わず悲鳴を上げてしまった。
野口は驚いた様子で、腰を引きながら秋音の顔を見つめていた。
「あ。ご、ごめんなさい、私ったら、もう……」
「いいんですよ。どこまでできるか分かりませんが、調べてみますね。あ、チップはどうぞ受け取ってください。これは今日のおもてなしへのお礼ですから」
そう言うと、野口は一礼して、金属音を立てながら重いドアを閉めた。野口に向かって頭を下げた秋音の姿を見て、祥次郎はようやく厨房から姿を現した。
「やっと帰ったのか」
「『やっと』って?野口さんはせっかくこの店に来て下さったのよ。そして、何より、野口さんの力でウエストサイドホテルの合併を避けることができるかもしれないし。なのに、『やっと』帰ったはないでしょう?」
秋音は、両手を腰に当てて、祥次郎を睨みつけながら声を荒げた。
「秋音ちゃん。あの人を簡単に信じちゃいけないよ」
「え?何でマスターが野口さんの事知ってるのよ?知ってるならば、カウンターに出てきて堂々とお話すればいいんじゃない?」
「嫌だ。俺はあの人とは会いたくもないし、話したくもない」
「はあ?どうして?あんな素敵な紳士なのに?性格も悪くなさそうだし、何か裏がありそうでもないのに?」
すると祥次郎は、野口が飲んだウイスキー「アードベッグ」のシングルモルトを小さなグラスに注ぐと、一気に飲み干し、壁側を向いたまま呟くように話し出した。
「アードベッグか、相変わらず、兄貴はこんな強い酒が好きなんだな」
「え?今……アニキって言わなかった?」
「そうさ……あの人は、俺の、実の兄貴なんだ」
秋音は、祥次郎の突然の告白に、頭を後ろから殴られたかのような衝撃を感じた。
「ただ、俺が幼い時に両親が離婚してな。俺は母親に、あの人は父親に引き取られた。両親が離婚して俺は母親の苗字になったから、あの人と俺の苗字が違うんだよ。兄貴とその後会ったのは、ほんの数回ぐらいかな?最後に会ったのは俺が高校生ぐらいの時だから、あの人は俺の事、きれいさっぱり忘れてるかもな」
祥次郎は、ウイスキーを再びグラスに注ぐと、喉に流し込むかのように一気に飲んだ。
「あの人は、俺とは違って優秀だったよ。父親の再婚相手が資産家の娘だったから、お金にも困らなかったみたいだし。俺があの人に最後に会った時は、爺さんの葬式だったんだけど、その時あの人は超一流大学の学生だった。身なりも綺麗でな。俺なんか、母子家庭で苦しい生活を送っていたのに。高校の学費も、朝晩とアルバイトをして何とか捻出していたのに……」
話を続ける祥次郎の手は、小刻みに震えていた。
「親戚から聞いた話じゃ、あの人は大学卒業後に大手の都銀に入って、その後独立して会計士になったらしい。そして、今は企業買収の仲介役か……フッ、俺とは違って、順調に人生を歩んでるようだな」
祥次郎はウイスキーを再びグラスに注ぎ込むと、一気に飲み干し、やや体をふらつかせながら再び語りだした。
「ただ、あの人はな……昔から世渡りが上手いというか、外面だけは良いんだよ。
あの人は自分の出世や立場が良くなることには必死にやってくれるけど、そうじゃないことには、そっけないんだよ。昔からそうなんだ。一度、高校時代に学費に困った時、あの人を通して向こうの両親にお金を工面してもらえないか、頼んだことがあったんだ。でも、何もしてくれなかった。あんなに俺を気遣ってくれたのに、あれは嘘だったんだ。そう思うと、ただただ悔しくて……グ、グホッツ!」
話している途中で祥次郎はふらつきがひどくなり、壁にもたれかかると、突然顔が青ざめ、強く咳き込み始めた。
「やだ、マスター!顔色悪いわよ!ひょっとして、戻しそう?」
「へへっ、気が付かないうちに、飲みすぎちゃった。しかし、兄貴は相変わらずこんな強い酒、ストレートで飲んでるんだな……グホッ!」
祥次郎は口元を押さえ、慌ててトイレに駆け込んだ。
トイレからは、苦しそうに何度も咳こむ声が聞こえてきた。
「マスターがかわいそう。先生、マスターを何とかしてあげられないんですかぁ?」
若菜は、心配そうにトイレの方を見続けていた。
「これまでも何度か羽目外して飲んで、そのたびにトイレで戻してるの見てきたから、きっと大丈夫だよ。そのうち、這いつくばって出てくるから」
秋音は、呆れ顔で腕組みをしながら、グラスを洗い始めた。
やがて、トイレのドアが少しずつ開き、祥次郎が芋虫のように体を伸縮させながら、床を這いつくばって出てきた。
「はあ……辛いなあ。ソファで横になってていいかい?」
「どうぞ、ご勝手に。はい、毛布!」
そう言うと、秋音はカウンターの下に常備している毛布を取り出し、祥次郎の体に放り投げた。
「すまないな。じゃあ、寝るわ。あとは頼む!」
そう言うと、祥次郎は毛布をまとってソファーの上でゴロゴロ寝転がり、あっという間に熟睡してしまった。
「は、はやい。あっという間に寝ちゃった。マスター、ある意味凄すぎ」
若菜は、あっけにとられた表情で祥次郎の行動に見入っていた。
「そんなところは感心しなくていいわよ。それより、後でトイレ掃除が大変なんだから、マスターの分際で飲みすぎるのはやめてほしいわよ」
そう言うと、秋音はマスクを付けて、モップとバケツを片手にトイレに入っていった。案の定、吐しゃ物で汚れが目立つトイレを掃除しながら、秋音は祥次郎の言葉を思い起こした。
『あの人はな……昔から世渡りが上手いというか、外面だけは良いんだよ』
『あの人は自分の出世や立場が良くなることには必死にやってくれるけど、そうじゃないことには、そっけないんだよ』
本当にそうなんだろうか?けど、血のつながった兄弟である祥次郎は、幼い頃に引き離されたと言えど、野口のことを良く分かっているはず。
そう考えると、野口の言葉を一体どこまで信頼すればいいのか?秋音には非常に悩ましい所であった。
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