2-6 紳士との再会

「すみません、こないだ駅前で転倒した時、助けていただいた関口秋音といいます。お礼を言いたくて、連絡しました」

「ああ、あの時の人か。お怪我は大丈夫ですか?」

「はい。今はまだちょっと痛みは残ってますけど、何とか大丈夫です」

「おお、それはよかった。心配してたのですよ。転んでから起き上がれない様子でしたからね」


野口は、紳士のような落ち着いた口調で、訥々と話を続けた。


「ごめんなさい、私も急いでいるものですから、これにて失礼しますね」

「すみません……突然、電話してしまって。実は私、さっきまで同じ車両に乗っていたんですよ。本当は直接お礼を言いたかったんですけど、新宿駅ではぐれてしまいまして、お話するタイミングを失ってしまったというか……」

「え?そうだったんですか?それはこちらで気が付かなくて、申し訳ありませんでしたね」

「いえ、また今度どこかでお会いできた時、直接お礼を言いたいと思います。それでは」

「ちょ、ちょっと待ってください。今はどちらにいらっしゃるんですか?」

「今、私はお茶の水におります」

「そうですか。私もこれから用件があるものですから。良かったら、夕方などはどうでしょうか?先日お怪我をされた駅のタクシープールの辺りに居りますので、お声掛け下さい」

「ごめんなさい、私、夕方は別な仕事をしているので、帰りは夜遅くになるかもしれません」

「ほう、別なお仕事ですか?」

「恥ずかしい話ですけど、バーテンダーの仕事を手伝っているんですよ。

店の名は『メロス』といいます。アーケード街から外れた所の雑居ビルにあります」

「面白いですね。あなたのような若い女性がバーテンダーのお仕事とはね。それじゃ、今夜、そのお店に行ってみましょうかね」

「じゃ、駅まで迎えに行きますよ」

「それでは、お言葉に甘えまして。午後七時ごろ、駅に来ていただければ」

「了解しました。それでは、失礼しました」


電話を切ると、秋音はホッと胸を撫でおろした。

野口に直接会ってお礼を言いたかった秋音は、ようやくその機会を得ることができた。胸を撫でおろし、ふと時計に目を遣ると、予備校の講義が始まる三分前であった。


「や、ヤバい!急がなくちゃ!!」


ヒールの音を響かせ、コートの裾を揺らし、秋音は駆け足で予備校への道を急いだ。


□□□□


午後七時、秋音はコートにマフラーで寒さをしのぎつつ、「メロス」の最寄り駅の前で、野口がやってくるのをじっと待ち続けた。

かじかむ手を何度もこすり、白い息をはずませ、多くの人達が目の前を駆け抜けていくのを見送っていたが、ようやく、オールバックのロマンスグレーの男性が改札を通り抜けてくるのを見ることが出来た。


「野口さんですよね?」

「そうです。野口です。おまたせしました。ちょっと時間がかかってしまったので。寒く無かったですか?」

「私は大丈夫ですよ。それよりも、先日は寒い中、私の事をタクシーまで運んでくださって、本当にありがとうございます。」


そう言うと秋音は、長い髪を顔の前に垂らしながら、深々と頭を下げた。


「どういたしまして。さ、もういいですから、お顔を上げてくださいな」


野口は、申し訳なさそうな表情で、秋音を気遣った。


「お気遣い、ありがとうございます。私の勤める店はここから十分位で着きます。早速ご案内しますね」


秋音は再び頭を下げると、先導するかのように野口の少し先を歩き始めた。

イルミネーションが輝き、きらびやかな看板が並ぶアーケードを、多くの人達が行き交っていた。


「この町は賑やかですねえ。私がいつも下車している駅の駅前は、もう少し大人しいんですけどねえ」

「ははは、そうですね。私も野口さんと同じ駅を使ってるんですけど、隣の駅なのに、なんでこんなに違うんだろうって、いつも思いますね」


やがて、二人はアーケードの外れにある雑居ビルの地下への階段を降りた。


「ここですか?」

「そうです。すごく年季の入った店ですよね?かれこれ三十年営業しているんですよ」

「三十年ですか。まだ新しい方ですよ。私が知ってるお店は、下手したら七十年という所もありますよ」

「そ、そんなすごい店があるんですか?」

「京都にあるバーなんですけど、そこは、戦後すぐ開店したらしいですよ」


秋音は、重いドアを物音を立てながら開けると、祥次郎がいつものようにBGMに合わせて鼻歌を唄っていた。その隣では、若菜が肩を並べて、お通しを作っていた。


「ごめん、マスター。お客さんを連れてきました。野口さん、こちらがこの店のマスターの岡崎祥次郎です」

「はじめまして。野口と言います」


野口が丁寧にお辞儀すると、祥次郎は突然丸い目をカッと見開き、そのまま体が硬直したかのようにピクリとも動かなくなってしまった。


「え?マスター、どうしちゃったの?急に動きが止まっちゃって」

「いや……何でもない。すまないけど、俺は厨房に行くぞ」


そう言うと、祥次郎はそそくさと、厨房の中に入っていった。


「あれ?あの方一体どうされたんでしょうか?突然奥に行ってしまいましたが」


野口は心配そうに、祥次郎の背中をじっと追っていた。


「いつもなら、あいさつ代わりにギャグ言ったり、からかったりするんですけどね」

「ギャグ?」

「い、いや、何でもないです。そうだ、野口さん、こないだのお礼を兼ねて、お酒をごちそういたします。マスターには私からしっかり伝えておきますから」

「そんなことはいけません。それはそれ、これはこれですから。ちゃんとお代は後でお支払いいたします」

「大丈夫ですよ、お気になさらず、お好きなものをおっしゃってください」

「それじゃあ、お言葉に甘えまして、一杯だけ……。もしこの店にあれば、ですが、アードベッグのシングルモルト。水割りでお願いします」

「かしこまりました」


秋音は、ボトルを探したが、アードベッグの名前が入ったものがなかなか見つからなかった。


「あれ?どこにあるんだろ?」


その時、若菜は、カウンターの陰から、緑色のボトルをそっと指さした。

それを見た秋音は、ボトルを見つけ、銘柄のシールを見ると、ホッと胸を撫でおろした。しかし、この店に入って間もない若菜が、何でこのボトルの場所を知ってるんだろう?

とりあえず秋音は、物陰にいる若菜にそっと軽く頭を下げると、氷の入ったグラスに丁寧に少しずつ注ぎ込んだ。


「ありがとう」


野口は秋音から差し出されたウイスキーを、目を閉じて少しずつ口に含み、やがて目を開き、一呼吸ついて、グラスを手に取りながらつぶやいた。


「この深く強い香りが昔から好きでね。麦芽の素材がしっかり生かされているウイスキーですから。ただ、相当刺激が強いから、しっかり水で割らないと胃に負担がくるんですよね」


薄明かりに照らされた野口の横顔は、そのまま絵になる位の格好良さであった。

ミステリアスな野口の雰囲気に惹かれた秋音は、普段の仕事や生活はどうしているのか、色々と尋ねてみたくなった。


「あの、失礼ですけど、普段は何のお仕事をされているんでしょうか?」

「私ですか?」

「ええ。あ、お答えしたくないならごめんなさい」


野口はしばらく沈黙したが、ウイスキーを一口飲むと、少しずつ口を開いた。


「企業の合併とか合弁をお手伝いする仕事をしているんです。アドバイスしたり、時には間に入って調整役になることもあるんです。合併ですから、どちらかの会社が吸収されてしまうことが多くて。会社だけでなく、会社に勤めている人たちの人生を左右しかねない仕事ですから、結構、心臓に悪い仕事ですよ」

「ふーん、合併のお手伝いですか。なかなか大変なお仕事で…え、が、合併!?」


秋音は、「合併」という言葉に思わず手が止まり、グラスを傾ける野口の顔を凝視した。


□□□□


一方、厨房の中では、冷蔵庫やワインセラーに囲まれた片隅にうずくまり、全く動こうとしない祥次郎の姿を見て、若菜が心配し、声をかけた。


「どうしたんですかぁ?マスター。体調悪いのなら、今夜は私と秋音先生の二人でお店を切り盛りするから、帰っていいですからねっ」


すると、祥次郎は振り向きざまに、若菜を手招きし、隣に座らせると、若菜の耳元でそっと耳打ちした。


「俺の……兄貴なんだよ、あの人」

「え?ほ、本当ですかあ?マスター!マジで?」


祥次郎から突然耳打ちされた驚きの言葉に、若菜は驚きを隠せなかった。

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