31.シーン2-19(空白)
びしりと覚悟を決める私に感激したように、アリアと名乗った彼女は「わあ」と言って両手を胸の前で合わせ、ぱっと明るい顔をした。
「本当? ありがとう、嬉しい!」
何やら、彼女と私の間で行き違いがあるようだ。と、いうよりも、私の対応が思い切りすぎてしまったようである。
「じゃあ、お願いしても……いい?」
彼女は少し躊躇いがちに上目遣いで私を見た。彼女は彼女で、思い切りすぎて食い違っちゃった私の対応などはまるで気にも留めていない、思い切った根性である。多少の相違や違和感などはものともしない大胆さである。
緩くふわりとウェーブを描きながら、染めているのか上品な藤色の髪の毛が、彼女の背中でゆれている。
どこかで見たことのある顔だなあなんて考えてから、その心当たりにはっと思い当たった瞬間、私を寒気と吐き気が襲う。自分の大切にしていた思い出を、自分の存在を、自分の居場所を盗まれてしまったような気がして、ひどく胸が気持ち悪くなる思いがしたのだ。落ち着こうと自分に無理やり言い聞かせて、深く息を吸い込んで吐いた。恨みがましいやつであると、笑ってくれて構わない。どうみても、別人だろう。
涼やかながらも優しい眼差しは同じくきれいな藤色で、日だまりのように穏やかな印象の人だった。そして、その微笑みに隠れるように、寂しげな影が時々顔をのぞかせる。彼女の身を包む白く簡素なワンピースは、周囲の白い闇の中へ簡単に溶け込んでしまいそうで、どこか危うく、そして儚い。悲しそうなのは、貴女のほうではありませんか。思わず、そう問いかけたくなるような人だった。
「ねえ、あなた、あの時に会った人でしょう? わたしにはわかるの、何となく。あれはあなたでしょう?」
「は、はい?」
かなり唐突に意表を突いてくる人でもある。百歩譲って、これではただの口説き文句だ。私は今、口説かれている。まるでモテたためしのないアリエときたら、死の瀬戸際で謎の美人に口説かれているのである。私はちょっと泣いてもいい。
「すみません。身に覚えがありません」
きっぱりとお断りした私の答えに、彼女はどこか腑に落ちない悩ましげな顔をした。申し訳ないが、それに関する私の趣向は多数派の方である。
「おかしいなあ。あなただと思うんだけどなあ」
熱烈なアタックである。
「どうしてそう思うのですか?」
「乙女の勘よ」
同じ乙女の私の意見はどうなるのだ。勘ではないから駄目なのだろうか。
紫の髪の美人なんて一度会えば忘れそうにないものだが、しかし事実として身に覚えはないのだから、他に答えようがない。もし本当にどこかで会ったことがあるとしても、私の記憶も万能ではないのだから致し方ない。
「でも、ここに来たということは、あなたは歪みの存在と関係があるということね」
彼女はアプローチの仕方を変えてきた。
「うーん、多分それも身に覚えがありません」
歪みの存在が何を指し示しているかは存じないが、それと似た名称ならば、先にちょうど耳にしている。
不浄なる歪み。洗われることなき存在である。
たしかに私の出所が如何わしいのは認めるが、しかしだからといってあのモヤモヤと関係あるかと言われたら、首を横に振っておきたい。むしろ、あれとよく似ているのはギャラクシー・パラリラの方であると断言しよう。
まあそう考えてみるのならば、関係ないとは言い切れない。なんたって私は彼に借金を吹っ掛け、しかも彼が抱える赤裸々な秘密を暴いたばかりか、その頭を鷲掴みにして無理やり下げさせたのである。名誉毀損である。恨みを買っていると思われる。
「やっぱり、身に覚えがありません」
ひとまず否定しておいた。お金は払ってもらうのである。
「そうなのかなあ。そんなことないと思うけどなあ」
しかし彼女は腑に落ちないようである。
「まあ、いっか」
と、思いきや、意外とあっさりしていたようだ。多少のことには動じない思いきった根性である。
「ところで、お願いって何でしょうか」
アリアさんからほのぼのとした感じが漂いはじめ、会話が前に進まない気配がしたので、私は本題を切り出した。
「ああ、えっとね」
彼女はほんわかとした笑みで私を見たあと、少し悲しそうな色をその眼差しに滲ませた。
「わたしを解放してほしいの」
「解放ですか」
すんごい漠然としたお願いである。
「わたしね、ここみたいに、いろいろ落とし物、しちゃったんだ。だからね、それを解放してほしいの」
「落とし物ですか」
「うん、そうよ」
お願いの内容を把握する前に謎を解けという、そこはかとない挑戦状である。
「落とし物を解放するんですよね」
「うん」
「貴女を解放するんですよね」
「そう」
「落とし物って貴女なのですか」
「あら、ふふ、そうなるわね」
彼女は新たな発見を驚くように微笑んだ。誰か私を助けてほしい。
「たぶん、間違ってないと思うわ。ここにあるのは、わたしが残してしまったわたしの欠片。行き場もなくて、いたずらに留まるだけの欠片なの」
困ったように眉を下げて、それでもやはり、彼女は日だまりの中に立っている。
「あなたにお願いしていいのかどうか分からないけど、でも、わたしの前にはあなたしかいないの。やっと届いた声なのよ。わたしの声を聞いてくれた、ただひとりの人なのよ」
お願いします。助けてください。
寂しそうに翳る表情の隙間から木漏れ日のような温度が差し込み、それがかえって悲痛な叫びとなって私へ届く。まったく、なんとまあ理不尽なお願いなのだ。
さらに残念なことに、私ときたら既にこの申し出を受けて立ってしまっている。なんたることだ。
いまさらやっぱり聞けませんなんて手のひらを返すというのも、それはそれで名が廃るというものだ。切ない顔で嘆願している人を前に、そんな薄情な真似をするのは気が引ける。
「ん、あれ?」
言葉を失い、手持ちぶさたを持て余しながら彼女の言葉を頭で反芻していた私は、はっとした。
「ここに残されたものって、ふけっ……」
それは下品な方である。目の前の清涼感漂う美人にその言葉を浴びせた日には、私は打ち首獄門決定である。
言い直そうとした瞬間、ひたすら白いだけのはずの空間が、ぐにゃりと揺らいだような気がした。
「ここにあるのは、わたしの欠片」
急に光の闇が眩しさを増し、さらさらと全てが消えゆくように、彼女の声が遠くなる。
「囚われてしまった、思いの欠片」
すっかり忘れていたむせ返るような気配が襲い、私は思わず口元をおさえて背を丸め込んだ。
気分が悪い、いや、正確にはそうではない。足を掬われ、地を離れた麻酔のような浮遊感に寒気がするのだ。大地に確かにおろしていたはずの根を、ずるずると引き抜かれている気分になる。周りをマナに取りつかれた時の、この感覚は本当に苦手だ。
「ありがとう、でも」
これだけじゃ駄目なの、なんてありがたくもないお告げを残して、眩い世界は暗転していく。
後悔先に立たずとか、後の祭りとかいったことわざがあったりするが、言わせてほしい。
ついてなんて、来るんじゃなかった。
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