5.シーン1-4(きっかけ自体は些事な大事)
船の縁に両腕を乗せてもたれかかった私は、名残惜しさにそっと海を覗き込んだ。輝く月、散らばる星々、真っ黒な海。すべてがもう、無駄である。
私の背後で繰り広げられていた、贔屓のチームが勝利したかというほど盛大な歓声も次第に落ち着き始めてくる。皆、この際誰がやったのかなんて気付いてはいないのだろう。いないだろうが、ほんの少し前まではあわや沈没かと思われた脅威が消え去ったのだ。浮かれて叫びたくもなるはずである。せっかく船は沈没を免れたのに、何ゆえ私が撃沈せねばならぬのだ。
悲しいかな、私は船の脅威を消し去り、そして同時に私の気分を撃沈させる切っ掛けを作りだした人物に、心当たりがあるのである。こういうのを、報復と呼ぶ。
私のなんて可愛らしいチョップ二回だったというのに、これではおつりが来ても良い。悪運の強いやつめ、今日はちょっと直におつりをせがむ勇気をうっかり家に置いてきてしまったのだよ。
私の濁った恨みの瞳は、いとも容易く当の本人を視界に捉えた。マントのフードを目深にかぶったあからさまな不審人物は、自身が巻き起こした歓声の中で、特に喜ぶ素振りも疲れていそうな素振りもみせず、ただ静かに突っ立っている。
そして、彼は一人無言のまま踵を返して、何事も無く船内へと戻ろうとしてしまった。ああさようなら、私のおつり。
「今の、君だろ? 凄いね。あ、おれはオルカ。君は?」
なんと、オルカ君が彼に気付いて声を掛けに寄っていった。力の強いオルカ君も、やはり彼の物凄い魔力の気配に気付いたのだろう。私もそろそろと二人の声が聞き取れる場所まで近づいてみた。
オルカ君はあの凄まじい気配を無言で放った人物について驚いた顔をしているものの、それでも普通に声をかけるだなんて大した度胸をしているようだ。
話しかけられた張本人は、黙ったまま歩を進めようとしている。反応なしと悟ったオルカ君は、彼の行こうとする進路にひょいと割り込んだ。
「ほんとに凄かったよ! ね、名前、なんていうの?」
こう言うのもなんだが、オルカ君は随分と彼にご執心のようである。大胆だ。
「答える必要は無い」
なんと、彼から返答があった。私は思わず彼も普通に喋るんだと感心してしまった。超音波みたいな言葉とか、高周波みたいな音波とか、目からビームとかだったらどうしようなんて思ってしまった自分を恥じよう。ただし返答の方はと言えば、非常にそっけない一言のみだ。
彼はオルカ君を避けて船内へ戻ろうとするが、オルカ君もにこやかな表情のまま退かない。そこまでして彼の名前が知りたいのだろうか。やはり気があるのではなかろうか。ここから先は、私などが踏み込んではいけない禁断の領域である。
彼は小さく溜息をついた後、このままだと埒が明かないと悟ったのか口を開いた。
「クラドラグカインだ」
どこからどこまでが名前で苗字でミドルネームなのだろう。それでえーと、何て言ったのだったろう。
今度こそドラッグだかパラリラだか名乗った彼は、強引にオルカ君を押しのけて船内に入っていった。
船上ではこちらの様子に気付くこともなく、まだ微妙にお祭り状態が続いている。周囲にはオルカ君と私だけしかいないらしい。
「か、彼に気があるなんて思いませんでした」
不意にオルカ君と目が合った私は、非常に気まずくなってしまった。きっと、目撃してはいけない禁断のやりとりだったのだろう。
「あれだけの魔術を簡単に放つなんて、普通じゃないよ、彼。でも、聞いたことない名前だったなあ。あれだけ出来るんだから、名の知れた人物かと思ったんだけど」
なるほど、つまるところ、オルカ君は高い魔力を持った者として他の有力者に敏感なようだ。気があるの方向性を勘違いした自分を恥じよう。
少しの沈黙の後にお互い顔を見合わせ、アイコンタクトで「自分らも戻りますか」と合図をかわして、私とオルカ君も船内に引き上げた。私は勿論のことながら、オルカ君も歓声を上げるような気分ではないらしい。はっきり言って、かなり疲れた。
船員さんの話によると、やっぱりというか何というか、船は相当破損しているとのことだった。沈没の危険はないそうだが多少浸水もしているしマストも帆もボロボロで、このままの航海は厳しいらしい。「えっじゃあ漂流!?」と私が慌てて問いかけると、船員さんは苦笑しながら、予定航路を変更して近くの漁村に停めさせてもらうことにしたのだと教えてくれた。
私は休憩室の中に戻ると、溜息と共にどかっと床に腰を落として、勢いとは裏腹に体育座りでちんまりと落ち着いた。
「うわー、マジかあ……」
吐き出しそうな気分のままで、膝に顔をうずめて心の底から嘆く。もちろん嘆いただけでは事態は好転などしない。
早く聖都へ到着して楽になりたいという気持ちと、このまま海で漂流してもよかったのでは、なんていう気持ちがせめぎ合う。いや、謝ろう、流石に漂流は御免である。しかし、判決の瞬間を先延ばしにされた落胆は拭えない。あぐらでも掻きたい気分だったが、人がいる手前ぐっと我慢だ。私だって乙女である。
全力で嘆く私にオルカ君が声をかけてきた。
「アリエさん……うーんなんか余所余所しいよなあ。アリエって呼んじゃ駄目かな? で、やっぱり聖都に用事があってこの船に乗ってるんだよね」
タコのあたりからすでに口調が馴れ馴れしかったことから思ってはいたが、随分フレンドリーである。たまたま同じ船に乗り合わせた人と数回話しただけで余所余所しさが気になるらしい。好かれやすい性質だろうとは思う。
私は最初の質問に、いいですよ、じゃあ私も敬語抜きで、と答えてから続けた。もう何度か会話しているし、同年代だし、その方が話しやすかろう。
「うん、そうだよ。聖都というか、聖女の方にちょっと用があるんだよね」
オルカ君、いや、オルカの表情が微量の驚きを含む。「どんな?」と暗に言っている気がしたので、私はさらに続けた。
「あ、うん、でもまあ、聖女に用って言っても大したことじゃないんだけどね。私の妹なんだ」
私の妹ミリエリーナ、通称ミリエは世に名を馳せる聖女様なのである。もっとも、そのお陰でミリエなんて愛称で呼ぶのは家族くらいなものだろう。
彼は今度こそ本当に驚いた顔をした。穏やかな時間の為には公に言うようなことでもないが、だからと言ってそれほど隠すことでもない。
「今、聖女と言ったか」
今度は私が驚いた。私のちょっとした暴露に対して返って来た言葉は、オルカのものではなかったのだ。
すぐ傍にいることは知っていた。雰囲気からして知っていた。常にもんもんしているから知っていた。知ってはいたが、腹が立つので考えないようにしていたのである。まさかまさか、声をかけてくるとは思いもしない。そんなことはいいから君、おつり、おつりを払いなさい。もちろん声に出しては言えない。
声の主は部屋に運ばれて来た積荷で遮られていて姿が全て見えるわけではないが、私たちの後方、すぐ近くに座っていたのである。室内は他の人やら浸水した部屋から避難させた積荷やら何やらで、タコ襲撃以前に比べてかなり狭くなっていた。必然的、そして偶然的に近くに座ることになったのだ。
「チョップさん」
「それはお前だろう」
見事なツッコミありがとう。
そう、彼こそまさに、名前をえーと、何だったかな。ドラッグだかパラリラだか言ったはずである。もしかしたら違ったかもしれない。
それにしても彼から声をかけてくるだなんて、意外も意外だ。そんなに聖女が気になるのだろうか。先ほどフードの中を覗いた時には若いように思えたし、ああ見えて実はお年頃なのかもしれない。もしかしたら、チョップへの報復があれでは飽き足らないのかもしれない。がっかりだよ、すでに超過でおつりが出ている。
「何か気になることでもあるんですか、チョップさん?」
「……いや、お前の妹が本当に聖女なのか気になっただけだ」
訂正したにも関わらず私から同じ呼ばれ方をされたことに一瞬言葉を失ったようだが、彼はそれにはもう言及せずに話を続けた。声の調子は起伏に乏しく、少しばかり棘があって排他的な感じだが、声質自体は若さの補正も相まって、柔らかく張りもある。別段高周波とか超音波とかワレワレハウチュウジンダとかではないらしい。声だけ聞けば一応のところは普通の人だ。
横ではオルカがきょとんとした顔でこちらを見ていた。頭の上にクエスチョンマークが浮いている。彼は私に「知り合いだったの?」と小さく聞いてきた。そりゃあもう、落としつ落とされつのご関係である。勢い余って海に投げ出されるところだったのだ。
「あれは悪かった。見えなかったんだ」
うっかり小声で発した愚痴が聞こえていた。
しかも、見えなかったからとは何事か。寝言は寝て言え、見えてなかったというお陰で私の旅路は散々である。
彼も私が投げ出されそうになった一部始終を目撃していたようだ。謝るついでにおつりを払う気はないだろうか。
なぜチョップ?なんて独り言を呟きながら、オルカが彼の言葉を継ぎ、もう一度私に尋ねてきた。
「んで、本当に妹なの?」
「うん、そうだよ。信じられないかもしれないけど」
私の妹は聖女と呼ばれるだけありかなりの魔力を持っているが、私の方はと言えば二人の反応を見ればもう一目瞭然だろう。あまりにもその差がかけ離れすぎていると、よく珍しがられるのだ。
「……そうか」
後ろの方の彼は私の返答を聞くなり黙ってしまいそうだったので、私はすかさず聞いてみた。わずかでも可能性に賭け、彼の気が反れる前に話を軌道に乗せたいのである。
「そんなに気になるなら、会ってみますか? 普通にいけば会えないかも知れませんけど、私を通せば確実に面会できると思いますよ」
来い。聖都まで来い。そして聖女の前まで私と来い。
なぜ彼が聖女に興味を持っているのかは知れないが、恐らく聖女というだけで話題性は十分だろう。それに魔力が高い稀有な存在という者同士、思うところがあるのかもしれない。ここまで少し話をしてみての判断ではあるが、引き合わせても危ないことにはならないだろう。
しかし、彼はそれ以降はもう最後まで口を開かなかった。別に会いたいわけではないのかもしれない。非常に残念である。私も後ろへねじり気味だった姿勢を正した。
それにしても、こうしてマントで威嚇色を隠していたら、彼の魔力の警報が発令されずに危険なのではなかろうか。万が一その異様さに気がつかないないまま知らずに近づき、濃い力に中てられて知らないうちにうっかりぽっくりあの世行き、なんて冗談でも笑えないことになってしまってからでは遅い。例え三途の手前で踏みとどまっても、体調に異常をきたしてしまったり、なんてこともありうるだろう。
とは言えマントのフードを目深にかぶって無言で佇んでいる時点ですでに不審人物が怪しいを着て歩いているようなものだ。そう考えれば、近づきたくないという点では、あまり変わり映えしないと言えなくもない。流石のオルカも、彼の威嚇色については未だ知らないままである。見たら驚くに違いない。頭が割れたと思うに違いない。実際、私が割っている。
会話が途切れて沈黙が続き、乗員達も騒動による疲弊からか、うとうととし始めた空気が漂う。
私はそっと息をつきながら、積荷に遮られて狭苦しくなってしまった天井を仰いだ。背後からはもんもんとした息苦しくなるような魔力を叩きつけられ、眠りに入るシチュエーションとしては最悪である。息苦しくて閉鎖的な空間なんて、ろくなものではないからだ。
あの時も、せまい天井だったなあ、なんてことが頭を過ぎる。予期せぬ想起に懐かしさと切なさが襲い、私はそっと目を閉じた。あの時もそう、ぽっかりと切り取られたように、白く小さな天井だった。
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