今は昔、
湊川 郁
今は昔、
辺りは静寂に包まれたままゆっくりと夜が明けようとしていた。未だ残る薄暗さの中に僅かに現れ出し始めた橙色の朝日を見て、彼女は床に敷かれていたその寝床から上半身だけ起こす。肩までずれた寝間着をそっと指先で治しほうと溜め息を吐くと、お気に入りの着物を箪笥から出しながら、ここ暫らくの出来事を思い出していた。
彼女が彼のその知らせを聞いたのは久々となる逢瀬に胸を弾ませ、着ていく着物を選んでいた時。自分とも年が近く、よく逢瀬の度に話を聞いてくれていた1人の召し使いが顔を真っ青にして息を切らしながら部屋の襖を開けた。
「……っさま、……様っ、お嬢様!!!」
「どうしたの?そんなに急いで。びっくりするじゃない!」
「……実は、」
弾む息を抑えながらどうにか話をする召し使いの話を聞くも、何処か他人事の様。泣きじゃくる日々の果てに涙は枯れ、感情もどこかに置いてきた。きっとこれ以上生きていてもこの人生は、色を、輝きを失った以上、何の意味も成さない。彼女は置き去りにされた感情の中、文を書き始めてやり場のない想いを全てそこに綴った。
『父上の仰せの通り、婚約の儀を果たすのが私の務め、当家に生まれた私の義務であると思ってまいりました。しかし、私は愛する人と、あの方と共に生涯を添い遂げられぬのならいっそ、この身を滅ぼしてしまおう、そう思い立ったのです。』
この家で想い耽って決心が揺らいでしまう前に、引き出しから取り出したお父様、お母様、そう一枚の手紙の表にしたためたそれを机に置き身支度を整える。その手紙と共に取り出した宛名の無い方を着物の胸の内側辺りにしまい込むと、今は亡き愛するあの人から貰った赤い紅を小指につけてそっと唇にひく。とても似合いますよ、そう彼の声が聞こえてきそうで、視界が涙でぼやけてしまいそうになり、きゅっと唇を結んだ。
「……輪廻転生。また、あなた様に会える日を心待にしております。」
そう呟いた時、この木の下で思い出すのはある春の出来事。この美しい桜を見たらあなたを思い出して逢いたくなってしまった、そう頭を掻きながら話す彼に思わず、頬を赤く染めて俯いてしまった時の事が鮮明に蘇ってくる。思い出しながらふと触れた頭には、彼からの最後の手紙と共に贈られた、深紅の地色に描かれた白い桜の髪飾り櫛。暫らくして身体から力が抜け、木の下に倒れ込んだ。そこに凛と立ち尽くす桜の木に、自分の全ての想いを託すかの様にそっと、穏やかな、幸せそうな表情で彼女は息を引き取った。
――― そしてまた、季節は巡る。
「雪だ!!!!」
お正月の参拝を終え、人混みに疲れた2人は人通りのない並木道をゆっくり歩いていた時、突如繋いでいた手を離して軽く駆け出し、彼女はにっこりと楽しそうに舞い散る雪を眺めた。
「おい、走るなって。草履履いてるのに危ないだろ!」
「…………」
「どうした?」
突如無言になった彼女はある場所で立ちすくむと彼の手をぎゅっと握った。彼女の突然の姿に戸惑っていると、彼女はポロリと涙を溢しながら言葉を紡いだ。
「何か、分からないんだけど、この木を見てたら涙が出ちゃって。それにね、私に話しかけてるような、そんな気がしたの。」
「・・・うん」
どこか思う所がある彼も、相槌を打ちながら彼女の話に耳を傾けた。
「あ、そう言えば。」
ポケットから出された小さな紙袋。それを開ける彼の手を眺めれば、中から出てきたそれは、どこか懐かしい気がした。
「・・・・・・これ、」
「見た瞬間に、絶対これにしようって思ったんだ。」
後ろを向かせて、そっと頭に挿された桜の絵柄の入った深紅の髪飾り櫛は彼から彼女への想いを添えて。立ち止まった桜の木の下。舞い降る雪を背に絡められた手はしっかりと繋がって、再びゆっくりと歩みを進める。
今は昔、身分の違い故許されなかった恋が、舞い散る雪と共にそっと、そんな寄り添う2人の背中を押した。
-了-
今は昔、 湊川 郁 @ikumina11
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