Ⅳ.霧の街のお姫様
1.全ては貴方の為に
まず、ノエが耳にしたのはちゅっちゅっと吸い付く音だった。首の辺りがくすぐったいと思い、手を動かそうとしたが思うように手が動かない。
仕方なく、ノエは首を振るって音を出す正体を振るい落とそうとする。
ほどなくすると、その気配は首筋から離れていく。しかしすぐに、するりと頬を撫でられた。
「ん、んぅぅ……」
思わずむずがるような声を出して、それからゆっくりとノエは瞼を開けた。
ぼやけた視界の中、焦点が合わさってくると一人の人間が目の前に居るのが分かった。
少女。にこにこと嬉しそうに笑う、幼い少女だ。
「あぁ、やっと起きたのね。お寝坊さんなんだから」
少女はノエの鼻頭を指でちょんと突き、それから花が咲くように微笑んだ。
美少女とはまた違う、彼女は別格だった。
おとぎ話の世界から飛び出してきたお姫様のようで。彼女は常に、人には見えないスポットライトを浴びているかのよう。
その幻光が、彼女をより美しく際立たせているのだろう。
「お寝坊さんが許されるのは、小さな子どもとお姫様だけよ?──あぁでも、王子様ももしかしたらお寝坊さんなのかしら?私、お姫様はよく知ってるけれど、王子様のことはよく知らないから」
「君は……」
「チェルシー。
彼女は身に着けている赤い外套の裾を持ち上げて、ちょこんと愛らしくおじきをした。それからノエの頬へそうっと手を添わせた。
ひやりと冷たい手の温度が、ノエの身体に侵入してくる。
「王子様、貴方のお名前は?」
「………ノエ。あの、自分は君の言うような王子様じゃない。ちゃんとした女で、えと、この格好は動きやすいから身に着けているだけで、」
ノエは、街中を歩いている時と同じく、勘違いされたときの言い訳を口にした。
基本的に街を歩く時はフードを深くかぶっている上に、ボディラインの分かりにくい大きめの外套であるので、性別を勘違いされることが多い。自身の性別に関する説明は、ノエにとっては手慣れたものだった。
チェルシーはきょとんと目を丸くしたが、すぐにノエの目尻を撫で始めた。
「あの、分かってくれた?」
「えぇ。貴方が、女の子ってことは分かったわ。でも、運命の王子様なことに変わりないわ」
「………まぁ、いいや。君が、人狼を操ってたのか?」
「狼さん?」
チェルシーはノエから視線を外し、下の方を覗いた。そこでノエは、自分の身体が路面よりも高い位置に置かれていることに気付いた。
どうやら閉鎖されたホームの上へ寝かせられているらしい。目立った生活感がこの空間にはないが、毛布や缶詰といった食品類は置かれている。
すん、とノエが鼻を鳴らせば、ようやく獣臭さを嗅ぎ取れた。
チェルシーと同じく、ノエもようやく周囲の状況を確認する。
「あそこにいるわ、王子様」
「……っこんなに」
暗がりのホームの下のスペースに、人狼がうろうろと歩いているのが分かる。ざっとノエの目で確認できるだけでも十頭はいるであろう。明かりがもう少し大きければ、詳しい頭数も分かるだろうが、今のノエにはそれをすることは出来ない。
ノエは、立ち上がろうと身体を起こそうとしたが、がしゃんと手首から音が鳴った。見上げると、両手首に鎖が巻き付けてあった。
「これ…っ」
「一応ね?大丈夫よ、王子様を傷つけることはしないわ。私達は囚われの王子と姫なのよ」
「はぁ?」
チェルシーは「囚われているの」と更に強調して言った。
囚われている、という言葉を彼女が使うのは、ノエにとっては奇妙なことのように思えた。チェルシーは人狼達を使役している。つまり、彼らの「親」に当たるのだろう。
従えている、の間違いなのではないのか。
「……君が、
「だって、あの人達は、貴方みたいに王子様じゃなかったの」
チェルシーの表情は曇る。それから腰を上げて、ホームの端に腰を落とした。そのまま足を伸ばせば、人狼の牙に美しい形の両足は喰われるだろう。
「私がまだ貴方と出会っていない時ね、私が運命の王子様を探している時のお話よ。本当は私だって白雪姫や眠り姫みたいに、ずっとここで待ってても良かったのだけれど、猟師以外の誰も来てくれなかったから。自分で探しに行かなくちゃいけなかったから。
この子達は、私に声を掛けて来た偽物の王子様達。おじい様の触媒を使って生み出した人狼に勝てなかった人達よ」
ぞ、とノエは背筋を凍らせた。
魔術師数人が束になってようやく勝てる幻獣種に、一人の人間が立ち向かわされるなど。恐怖して死んでいっただろう。
彼らは、無垢に見える少女へ不埒な思いで手を出したばかりに、自らの命をどぶに捨てることとなったのだ。
「
チェルシーの話を加味すると、彼女こそがロンドン市中で起こっている連続失踪事件の主犯。
人狼の数から考えるに、報告されている以上の被害者が存在している。そのことに、ノエは顔を顰めた。
「だぁれ、その人?」
チェルシーは首を傾げ、それからにこっと笑った。
「王子様は強いのよ。
初めて見た貴方もそうだった。優秀な子だったルーカスの手から、女の子を守ってたわ。勇敢に、勇猛に!あの時、私は恋に落ちてしまったの。貴方に、貴方の心に!それから今までね、ずっとどきどきしていて、ふわふわしていて…。
これって運命ね。
チェルシーは頬を赤く染めて、花が綻ぶような微笑みをノエへ向ける。
愛の告白。純粋な告白。心を込めた、彼女の感情の吐露。
ノエは息を呑んで、それからゆっくりと口を動かした。
「……君の気持ちには、応えられない。自分は女であるし、君の望む王子様のように勇敢でも勇猛でもない。ましてや、騎士のように勇ましくもない。ただの魔術師だよ」
「ルーカスに立ち向かったのに?」
「自分は欲張りなんだ。自分の周りにいる人には、皆長く生きていて欲しい。例えそれが、どんな奴でもね。自分の行動原理は、それだけだよ」
「……優しいのね」
チェルシーは小さく口を動かし、指を軽く振るった。
ぱきんと音が鳴り、ノエの手首の鎖が外される。雑に巻かれていたようで、手首には鎖の痕がくっきりと残っていた。
「ねぇ、知ってる?私達が結ばれるには、大きな障害を乗り越える必要があるのよ」
「結ばれる、って」
「この子達、飢えてるわ」
事実だけを切り取っただけの言葉。ひゅっとノエは息を呑んだ。
飢餓状態の人狼は、より凶暴になる。チェルシーの若さでは、彼らの「親」であるとしても制御できないのではないだろうか。
聡明なノエは、たったその一言で彼女がこれから何をしようとしているのか、分かってしまっていた。
「無理だ、チェルシー。自分は、魔術師としての能力は低い。君が助けられるほどの魔術は」
「大丈夫よ、王子様だもの。教えてあげたでしょう、
私、今日という日を、ずっとずっと、ずっとずっとずっと待っていたの」
赤い外套の裾を揺らして、彼女はぴょんっとホームから跳んだ。
血肉を持った人間の登場に、目を光らせている人狼達はチェルシーの方へ視線を向ける。
ずっと彼らの鋭い嗅覚は、人間の匂いを捉えていた。涎はだらだらと垂らし、今か今かと餌の訪れを待っていた。
彼らがホームを飛び越えてチェルシーを襲わなかったのは、それを行なった仲間が、ホームに仕掛けられている防御魔術によって、仲間が粉々に砕けたからである。
だが今。守りの聖地から、彼らを生み出した絶対女王は降りた。
そして、幼子を迎え入れる母のように。そっと手を彼らへと伸ばす。
「さぁ、おいで」
許された――その瞬間。チェルシーの近くにいた人狼達は、一斉に牙を剥いて襲い掛かった。
「ッ
ノエは、チェルシーの前へ飛び降りた。
意識を切り替え、イメージと集中力を高めるべく、詠唱を唱える。金色の指先が、宙を動く。
「
ノエの足元から勢いよく黒い糸が噴き出し、格子状に編まれながら、人狼達とノエ達の間に障壁を作る。
鋼鉄の強度を誇る糸に、人狼の力強い突進と鋭い牙が食い込む。その衝撃にノエの表情は歪んだが、チェルシーはぱあっと表情を輝かせる。
「凄い、凄いわ!やっぱり貴方は強くて勇ましいのね!」
呑気に楽しそうな声をチェルシーは上げているが、ノエの魔術はそう長くは保たない。
一時的な睡眠により魔力は回復しているが、それでもこの数の人狼を相手に出来るほど残っていない。加えて、ノエの魔術には耐久力がない。
食い殺されるのは、時間の問題だった。
ヴィンセントが治した、ノエの白い腕に赤い筋が入る。魔力経路に沿って、血液が流れている。既に身体は限界にも近い。
「ほら、王子様、守っているだけじゃあ倒せないわ。さぁ、反撃の時間よ!」
チェルシーは、無邪気にノエの活躍を待っていた。
ノエは、血が伝う自身の左手の甲を見つめる。認識を少し高めれば、そこに契約紋が浮かび上がることを彼女は知っている。
ノエは少し迷って、それから決意を固めた。
格子の外側、唸り声と腐臭、獣の匂いをまき散らす人狼達を睨みながら、ノエは、左手の甲へ口付けを落とした。
それは、祈りにも似た意味を含んでいた。
「—————ベディ」
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