2.No one else, your only prince.
ふわりと。一本の剣と、大きく羽根を広げた天使の両翼が、血の滴るノエの左の甲に浮かび上がった。
「え」
ノエは、思わず声を出してしまう。目の前の光景は、本来であればあり得ないのだ。
ベディには
その間にも、ぎゅうっと魔力が強制的に吸い取られる感覚に襲われ、それに合わせて障壁である格子状の網が、ボロボロと先端から光の粒となって消え出した。なけなしのノエの魔力では、最早維持できなくなったのだ。
人狼の吐息が、鉤爪が、ノエとチェルシーに迫り来ていた。
「ッまず」
再びノエが魔術を行使しようとしたが、血を流し過ぎたからか、あるいは魔力が足りないからか、くらりと眩暈がして
一番先頭にいた人狼の爪が、ノエの腕を襲った。
「いッ」
三つ揃いの爪痕が、細い腕に深く刻まれた。骨までは到達していないが、皮膚と肉が人狼の爪に持って行かれる。
血肉を見たことで、更に人狼は歓喜に湧き立ち、臭い吐息を荒く吐き出す。
ノエの腕が喰われるまで、僅か──。
「─────ノエ!」
力強い言葉と共に、上から黒い影が降ってくる。
人狼の身体の上を踏みながら跳んで来た彼は、ノエの近くに居た人狼の頭を思い切り踏みつけて跳躍し、それから光り輝く右腕で一閃。
それだけでその人狼の頭蓋骨は容易く砕け、その巨躯を自身の血の海の中に沈めた。
ノエはぺたりと尻もちをつく形で座り込み、前に立つ黒外套の彼の背を見た。
「………ベディ」
「ノエ、必ず後で謝りますので、今はそこから決して動かないでください」
有無を言わさぬベディの言葉。
それにノエが返答をする前に、彼は既に路面を蹴って
黄金色の輝きを放つ腕で、次々に人狼の身体を切り落としていく。首や手足、厚い胸板や尻尾まで、ノエとチェルシーに少しでも傷を付けようとする者達へ、彼の刃は振るい落とされる。
人狼達も吠え襲い掛かるが、
大半の人狼はすっかりノエ達から興味を失い、同族殺しの勇ましい騎士を、群れの誇りに賭けて潰すことに決めたようだった。彼らは駆けるベディの後を追う。
しかし、残りの数匹は、弱っている獲物を噛み砕こうと、ノエ達の元へと疾走する。
「
先頭を走っていた人狼の頬を、風の弾丸が貫いた。
続いて、飛んできた赤き羽根を広げた機械仕掛けのカラスが、翼の先端で人狼の眼球を切り付けた。
人狼は断末魔を上げ、更にその喉に弾丸が撃たれ、さらにのたうち回る。その隙に二人が走り込んできた。
「ノエ!無事かっ」
「……フォル、ヴィンス」
「ッ酷い怪我ですね……。治します」
未だ眠ったままのミーアを抱えたフォルトゥナートが、弾丸を次々に発射する。ヴィンセントがその間に、ノエの腕に深く刻まれた三連傷を癒していった。
「まだ、ミーア寝てるの……?」
「睡眠導入の簡易魔術を掛けただけなんですけどね。どうも彼女、かかりやすい体質だったみたいで……」
「な、なんで睡眠導入なんて……」
金色の光が傷に降り注がれ、傷口が癒えていく様を見ながら、ノエはぽつりと言葉を零した。
「秘密を知っておく人間は、少ない方が良いでしょう」
「……やっぱり」
チェルシーが居る手前、ノエは詳しいことを口にはしなかったが、それだけでもベディのことを指しているのだとヴィンセントはすぐに察した。
「すみません。でも、彼を責めることは止めていてください。俺とフォルが無理やり聞いたんですからね」
「……分かってるよ。ベディは約束を破るような人じゃないのは、自分が一番良く知ってる」
ノエの言葉にヴィンセントは口元を綻ばせ、回復魔術を掛けていた手を止めて、ノエの身体を押し倒した。
驚いているノエの白い頬に、ぱたぱたと赤い血液が落ちて来る。
「単なる助けられた被害者かと思ってましたけど、そういうわけでもないみたいですね……ッ」
「ねぇ、どうして、邪魔をするの?」
ノエの視界。ヴィンセントの手の甲には、深々と白銀の短剣の刃が刺さっていた。
ナイフの柄を持つチェルシーの瞳は、昏い色を宿していた。そして、ノエと会話していた時とはまるで違う、笑みのない顔をヴィンセントへ向けていた。
「邪魔だって言ったよね?どうして来たの?ねぇ、ねぇねぇねぇ!」
「チェルシー!」
ノエは素早く起き上がり、チェルシーの身体を押した。
ヴィンセントの手からナイフは引き抜かれ、彼女の背中は石の壁にトンっと当たり、からりとナイフを路面に落とした。
チェルシーはナイフを見つめ、ノエはそんな彼女を睨みつけながら、ウエストポーチから取り出した魔法薬を服用する。
一時的な魔力回復だが、それでもノエの身体に活力が戻る。人狼が付けた腕の傷も、あらかた塞がっており、魔力が血液と共に漏れ出すことはない。
戦える、とノエは指を小さく動かした。
「ヴィンス、自分の回復を」
「えぇ。……フォル、ミーアをこちらに。担いだままだとやりにくいでしょう」
「さんきゅ!」
乱暴に投げ渡されたミーアを何とかヴィンセントは受け取り、路面に寝かせると共に、自身の回復に努めた。
ノエは、チェルシーを見据える。
「チェルシー」
「だってだってだって!私だけの、私の貴方だもの!貴方だけの私でしょう!?」
「なんです、この子。相当イカれてんですか」
ヴィンセントの言葉に、ノエは否定も肯定も返さなかった。
チェルシーは純真無垢だ。真っ白なのだ。それは全てを受け入れられる色であるのか、あるいは――全てを塗り潰す黒にも等しい漂白の白なのか。
ノエはもう一度息を吐き出し、それからチェルシーへ手を差し出した。
「チェルシー、行こう」
「ッ貴方のお城に?挙式を上げる場所?」
「
ノエが叩き付けた
そして、唐突に。すとんとスイッチが切れた。
彼女の顔に浮かんでいるのは、無だった。無表情をも通り越したかのような、冷え冷えとした雰囲気をその身に纏う。
「貴方は、貴方は、信じていたのに。私と幸せになってくれる人だって……」
「ごめんね。でも自分は、君の全てに応えることは出来ない。……チェルシー、無駄に君を傷つけたく無い。出来れば、抵抗しないで欲しい」
「要らない」
はっきりとした拒絶を、少女はノエへ突き付ける。次いで、彼女は長く息を吐き出して、ふわりと柔らかく微笑んだ。
「私、夢だったの。お姫様になるのが。運命の王子様と一緒になって、幸せに過ごすことが。
ただの赤ずきんちゃんから、シンデレラや白雪姫になりたかったの。
でも、それを邪魔する王子様の皮を被った魔女なら、もう貴方は要らないわ」
「チェル、」
「要らない物は、捨てなくちゃね?」
彼女が身に纏う赤い外套が揺れる。
金色の光が細い腕に纏わりつき、彼女の腕を覆い隠していく。それは指先から肩、身体全体へと伸びていった。
初めて見る現象に、ノエは眉を寄せて周囲を見やる。
ベディとフォルトゥナートのお陰で、あれだけいた人狼の頭数も残り僅かとなっていた。
ヴィンセントの傷の回復はもう少しかかる。彼は今、ミーアを懸命に揺すり起こしていた。そんなミーアは、よほど精神作用系の魔術耐性がないのか、一向に起きる気配はなかった。
今、ノエだけがチェルシーの魔術を受け止める必要があることを、しっかりと確認した。
「
胸の内に巣食う動揺を打ち消すべく、頭の中から抹消するべく、ノエは詠唱を紡いだ。
ノエの足元からは黒い糸が噴き出し、命令を待って蠢いている。
その間にもチェルシーの身体全体を金色の光が覆い、彼女は薄い光の膜を身に纏っている状態になっていた。
チェルシーは、詠う。
「
ほのかに微笑む少女は、天井に向かって吠えた。
びりびりと肌を震わせるそれは、まさに
「ンだよ……ッ!」
「これは……っ」
「ふぇ、っぁに!?」
チェルシーの姿が、金色の光の中に呑まれていく。
それと同時に、光が形を持ち始める。
腕は丸太のように太く、金色の体毛は鋭く硬い。先の尖った牙は口の中に収まり切れずに溢れ、だらだらと唾液が落ちる幻影すら見える。爪は硬い路面を抉り、しっかりと四つ足で立つ。
それは、金色の人狼だった。
その体格は、今までの人狼の中では最大級の大きさだ。金色の人狼は、獰猛な色を宿す金の双眸でノエを見据えていた。
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