第2回 愛は一つとは限らない(後編)
「高倉さん、その資料は何ですか?」
沢山の写真が貼られた資料を淡々と見つめる高倉に対して、森岡はそう問いかけた。対して、高倉の回答は素っ気ないものだった。
「ターゲットを探してるんだ」
この単語だけで理解できれば苦労はしない。だが、森岡は理解に苦しんだ。そんな森岡の苦しそうな表情を見て高倉は大きな溜息を吐き、資料を森岡に差し出した。そこには、様々なカップルを盗撮した写真が載っていた。
「高倉さん! これって……!」
「あぁ、盗撮写真だ。普通であれば捕まってるだろうな。だが、考えて見ろ。この世の中、本当に個人情報が全て守られていると思っているのか? 情報社会の中、自身の情報を守れている奴なんてゼロに等しいだろ。ちょっと探れば写真なんていくらでもあるし、その人物の情報も探れる」
「高倉さん……」
「……ふっ。安心しろ。俺が個人的に探偵に依頼して集めてもらったものだ」
高倉は意地悪そうに微笑み、森岡の肩をポンと叩いた。そして森岡の後ろから顔を覗かせて、資料のある部分に指を指した。
「和也と紅羽。この二人がターゲットだ」
――愛を失う時、‟愛の式場”が開かれる。
大学の屋上から飛び降りようとしていた僕の脳内に、突然そんな言葉が響き渡る。僕は飛び降りかけたその身体をフェンスの方へと戻し、辺りを見渡した。しかし、どれほど見渡しても辺りには誰も居ない。そう‟誰も居ない”のだ。
さっきまでは下の方にも沢山の人がいて賑わっていたのに、今は誰も居ない。とても静かだ。草木の音もせず、風も吹いていない。雲の流れも止まったままだ。そう、まるでこの世界の時が全て止まってしまった様に……。
――新郎、前へ。
再び声が聞こえると同時に、目の前が光り出す。僕はあまりの眩しさで目を手で覆う。そして光が収まると、僕は覆っていた手を除けて前を見る。するとそこには、縁が花のアーチで覆われた大きな両開きの木製の扉が‟あった”。そう、何も無いはずの空中にただ浮いていた。
――新郎、前へ。
その声に導かれるがまま、僕は扉の方へと近づいていく。空中を歩き、ゆっくりと扉に近づいて行く。そしてゆっくりと扉に手を掛けて開くと、中から再び強い光が溢れ出して来た。僕は反射的に目を閉じる。
次に目を開けた先に広がっていた景色は、一面が花で装飾された結婚式の式場だった。けれど、木製のベンチには誰も座っていない。ふと僕が自分の姿を見ると、何故か白いタキシードを着ていた。何が起きているのか分からず不思議だ。だけど、悪い気はしない。
「新郎……か」
――新郎、前へ。
再びその声は響く。合唱で言う所のテノール程の声は、この式場でよく響き渡る。式場の奥には、穏やかな顔をした男性が布の様な服を着て、羽を背中から広げ、身体中を花で装飾され大きく手を広げた、そんな巨大な石造が佇んでいた。巨大な石造の足元には、ピンク色のカソックを着た若い神父と、後ろ姿しか見えないウェディングドレスを着た女性が立っていた。
これは、夢なのだろうか。本当の僕はもうあの屋上から飛び降りて死んでいて、これはその最後の夢。もしかしたら、天国なのかもしれない。いずれにしても、今は新郎らしく、新婦の前に立たないと。
僕は新婦の横に立った。そんな僕らを確認すると、神父はタロットカードの‟lovers”が表紙の聖書(?)を開き、口を開く。
「それでは、新郎新婦が揃いましたので、誓いの言葉といきましょう。新郎、貴方は彼女、紅羽を深く愛していますか?」
「……!」
普通であれば、迷うことなく「はい」と答えるのだろう。でも、僕にはそれが出来なかった。だって、だって……。
「新郎?」
「……ま……せん。分かりません……。僕が、紅羽を愛しているのか、分かりません」
僕はふと、隣の新婦を見る。ベールに隠されたその素顔は、紅羽本人だった。
「分からないとは、どういうことですか」
神父の鋭い質問により、僕は現実に引き戻される。とは言っても、ここは現実じゃないだろうけど。
「分からないんです。本当に彼女を愛していたのか。そもそも、『愛』が何なのか」
どうせ夢なら、夢の中だけでも、全てを打ち明けてしまえば。
「僕は生まれながら、愛に恵まれませんでした。かと言って、両親に全く愛されていなかった訳ではありません。母からは、沢山の愛情を貰っていました。でも、それだけ。僕が初めて愛した人からは裏切られて、愛を信じられなくなって、それでもまた手に入れた愛も、僕は自ら捨てて」
そう、僕にはチャンスが元々あった。幼馴染のあの子。でも、僕は身勝手な感情からそのチャンスを自ら捨てた。愛されていたのに、それに気付いていたのに、僕は自ら捨てたんだ。だから――。
「だから僕は、紅羽に対して必死になっていたんだと思います。ようやく手に入れた愛を手放すまいと、やけになっていたんだと思います。でも、やけになったものが本当の愛なのか。それは本当に彼女を深く愛せているのか。それは……分からないんです。彼女には重くて伝わらないと言われましたが、本当は、伝わらないんじゃなくて、もともと無かったんじゃないかって……」
それ以上は、出てこなかった。絞り出した言葉は、ここまでが限界だった。それを悟ったように、神父は口を開く。
「なるほど。貴方の愛が本物であると証明されました」
「えっ?」
証明も何も、分からないって言ったじゃないか。一体何を……。
「貴方は、『愛』が何か分からないと仰いましたね。それこそが、この世界の答えなのです。世界は愛に溢れている。誰かが誰かを思いやったりする事で、愛が生まれる。もしくは、同じクラスになったから、という理由で生まれる事もあるでしょう。そうやって、世界は愛に溢れていった。そうやって、尊いものであったはずのものが、価値を失っていった。誰もが持っているからこそ、持っていない者は貪欲に求める。そして歪む。だから、『愛』が何なのかも分からずに、自分が持っているものを『愛』であると断言する」
「何を、言って……」
「この世界は愛に溢れている。だから、愛を失っている。愛を失う時、愛の式場が開かれ――」
その後、神父が何を発したのかは分からない。けれど、神父は我に返ったように僕に視線を合わせ、問いかける。
「では、貴方はそのたった一つの愛を守るために、その愛を犠牲にすると誓いますか?」
「それは、どういう事ですか?」
「言葉通り、紅羽の為に、貴方はその愛を捧げる事が出来るかという事です。紅羽は、貴方の愛が重く伝わらないと言った。それはつまり、貴方が紅羽を傷つけている事と同義。だから、貴方はそんな紅羽を救うために、その愛を犠牲に出来ますか? それとも、今後も紅羽を愛し続け、彼女を苦しめますか?」
「それは……」
「昔、こんな方がいらっしゃいました。幼馴染の男の子が大好きでやっと付き合えたのに、彼は本当の自分を見せてくれない。だから別れたけど、まだ愛している。そんな方が」
「そ、それって……!」
僕の頭の中に嫌なイメージが浮かんだ。たった一つの愛を守るために、その愛を犠牲に――。
「彼女は最終的に、彼を私という呪縛から救ってあげたい、彼に明るい人生を送って欲しいという事で、その身を犠牲にしました。心当たりがあるのではないですか? 現に、貴方はそのおかげで、今があるのではないですか?」
幼馴染のあの子が死んだのは、僕のせいで……。そんな……。
僕は落胆して、その場に倒れ込んだ。けれど、神父は変わらず僕を見下し、言葉を続ける。
「もし、この世界に溢れる愛も、一つの『愛』として認めるならば、『愛』とは一つとは限らないのかもしれません。表と裏。裏腹。愛も似たものなのかもしれません。彼女が貴方と別れたというのは、一般的には破局を意味します。しかし、本当の愛は、そこには無かったのかもしれません。もっと、別の場所に……。だから、愛に溢れた世界では愛に気付けない。だから、愛に溢れた世界は愛を失っている」
分からない。この人が何を言っているのか全く分からない。それでもなお、この人は僕に問いかけてくる。
「さて、貴方は紅羽という愛を守るために、その愛を犠牲にすると誓いますか?」
紅羽を守るために、僕が死ぬ。あの屋上から飛び降りて死ぬ。でも、そうすれば――。
「貴方がその愛を犠牲にすれば、彼女は貴方という足枷を外して歩いて行ける。貴方がそうであったように、彼女も前を向いて歩む事が出来る」
その時、式場の後ろの扉が開いた。扉の向こう側は光で何も見えなかったが、声が聞こえた。紅羽が楽しそうに人生を送っている声が。僕と一緒に話して笑っていた時の様な声が。紅羽の未来も頭の中に流れ込んできた。僕以外の人と結婚して、温かい家庭を築いている未来が。
「貴方も心の奥底では分かっているはずです。自分が居なければ、紅羽は幸せであると。そして何よりも、貴方自身が『愛』という呪縛から解放されると」
そうだ。僕が死ねば、全てがハッピーエンドに向かう。
「愛の式場は誰にも見つからない。この会話も、私と貴方だけの秘密となるのです。さぁ――」
僕は立ち上がって神父の吸い込まれそうな緑色の瞳を見つめる。
「貴方はそのたった一つの愛を守るために、その愛を犠牲にすると誓いますか?」
僕は固い決意を持って答えを返す。
「……はい」
「では、誓いのキスを」
僕は紅羽のベールを上げ、そっとキスをした。すると式場の足場が消え、僕は深い深い闇の中へと落ちていった。
気付くと、僕は大学の屋上にいた。何が起きたのか、これまで何をしていたのかは思い出せないけど、ここから飛び降りなければいけない気がする。飛び降りれば、全てがハッピーエンドに進む気がする。
そう思って、僕は空中へと足を進めた。
その時だった。
屋上の扉が何者かによって勢いよく開けられた。
僕は思わず歩み出そうとしていた足を引っ込めて、後ろを振り向いた。するとそこには、息を切らした紅羽が立っていた。
「和也……!」
紅羽は僕の元へと駆け寄って、フェンス越しから手を伸ばし、僕の身体を抱きしめた。
「やっぱり言わなくちゃって思って、戻って来たの。そしたら、あなたが屋上から飛び降りようとしてるのが見えて、それで……!」
「紅羽……?」
「私はね、本当はあなたと別れたく無かった……!」
「っえ?」
「私ね、海外に留学することになったの。私は反対したんだけど、両親が駄目だって決めつけてて……。それで、彼氏とは別れなさいって……」
「……」
「でもね! 私、本当はあなたとずっと一緒に居たい! あなたの想いは確かに重い時がある。でもね、ちゃんと伝わってたよ! あなたが私を愛してくれてたこと。ちゃんと伝わってたよ!」
「紅羽……!」
「だから、だからね……!」
――ごめんなさい。
僕はすぐにフェンスを乗り越えて、直に彼女を抱きしめた。強く、強く、もう手放さないように。
その時、頭の中にある言葉が思い出された。
――愛とは一つとは限らないのかもしれません。表と裏。裏腹。愛も似たものなのかもしれません。
どこでの言葉だったかは覚えてない。でも、今ならこの言葉の真意が分かる気がする。愛は、目に見えるものだけが全てじゃない。目に見えない所にこそ、本当の答えはあるのかもしれない。
――貴方の愛が本物であると証明されました。
――数日前。
「和也と紅羽。この二人がターゲットだ」
高倉は資料を指さしてそう言った。森岡はその資料に貼られた写真を見て首を傾げた。
「ただの大学生のカップルでは? 写真で見たところ、円満そうに見えますが?」
「それが、そうでもない。このカップルの女子の方に問題がある。女子、紅羽は両親とどうやら不仲らしい。中でも決定的なのは、紅羽の留学だ。紅羽は留学を望んでいないが、両親は行かせたがっているみたいだ。それで、紅羽に『彼氏と別れろ』と告げたらしい」
「それは酷い話ですねぇ~。でも、それで破局するかどうかは分からないじゃないですか。円満そうですし……」
「あぁ、だからこそ尾行するのさ」
――後日、大学屋上にて。
「酷く振られてましたね、和也君」
「あぁ、そうだな。おかげさまで、自殺まで精神状態を追い込まれているらしい」
二人はフェンスを乗り越え下を覗く和也を、ただじっと影から観察していた。本来警察ならば止めるべきだが、二人にはそれをしない理由がそれぞれあった。
「っあ、足を出しましたよ!」
森岡がそう言った瞬間、時が止まった。ただ、高倉を残して。
「お、おい、森岡! 森岡、どうしたんだ!」
高倉以外の時は全て止まり、自殺しようとしていた和也の歩みも止まっていた。
その時、この異様な空間にある声だけが響き渡る。
『駄目じゃないですか、警部。自殺しようとしている人を放っておくなんて』
テノール程の低さの声を持つ姿無き者は、ただ高倉に話しかけてくる。
「貴様……! どこにいる、早く姿を見せろ!」
『慌てないでください。我々はいつだって、どの時間だって、貴方を見守ってきましたよ』
「何だって? 貴様、何者だ!」
『もう、何者でもありません。愛が失われる時、‟愛の式場”が開かれる。全ては、あの方の尊い世界の為に――』
「貴様、何を言ってる! 『あの方』とは誰の事だ!」
『また会いましょう、高倉警部。お菓子の欠片は撒いてあります。後は辿るだけですよ。ですが、身の回りには注意してくださいね。能ある鷹は爪を隠しますから』
その瞬間、声は消えて時が動き出した。すると同時に和也は紅羽に救ってもらっていた。
「あぁ、収穫無しでしたね、高倉さん……高倉さん?」
高倉の耳に、森岡の言葉など入って来なかった。ただ、頭の中で先程の一瞬の出来事を整理するのでいっぱいだった。
一方その頃、とあるネットでは……。
001:俺、医者 2020/△/○◇(土)03:57:34 ID:~~~~
俺ちょっと前まで医者だったんだけど面白いこと発見したんだよね
――愛の式場って言うんだけど。
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