第2回 愛は一つとは限らない(前編)

「一体どういう事なんでしょうか、高倉さん」


 そう聞くのは警官の内の一人、爽やかで穏やかそうな外見をした、”森岡隆司もりおかたかし”だった。彼は死因不明の死体を手袋をした状態で触りながら、こんな事を呟いたのである。


「知らん。それが分かれば苦労はせんさ」


 そう森岡の隣で答えたのは、茶色のトレンチコートに綺麗な白髪と、深みのある声。まるで刑事ドラマにでも出てくる様な年老いた警部、”高倉英昭たかくらひであき”だった。高倉は死体を触る森岡と、その死体自体を見下しながらそう答えたのだった。二人を見下すその目つきは非常に鋭く、まるで人を殺すような目つきであった。


「駄目ですね、高倉さん……いくら調べても、死因が分かりません」


「原因不明の死亡事件……それ以外にも、自殺。『死人に口なし』とは、この事か」


 高倉はふと、死体の唇に目を遣る。すると、眉間にしわを寄せ、手袋をして死体に近寄った。そして、死体の唇をじっくりと観察し、その後立ち上がる。


「どうしたんですか、高倉さん?」


「口付けの跡があった」


 その言葉に、森岡は「意味が分からない」といった様に首を傾げる。その様子を見た高倉は呆れた様に答える。


「今までの死体、全てに口付けの跡があったんだよ。口付け……いわば、キスをした跡だ。ほら、よく唇を観察してみろ。口紅が付いてないか? ここから考えられるのは、恋人とのトラブルだ」


「ですが、指紋などを調べても、”何も出ない”そうじゃないですか」


「あぁ、そうだ。だが、大体の目星が付くだろ? 事件の詳細が分からないなら、予め、事件の起こりそうな場所に居ればいいんだ」


「と、言うと?」


「破局寸前のカップルを探して尾行をする」


「っえ⁉ 高倉さん、本気ですか⁉」


「あぁ。『二度あることは三度ある』って言うだろ? これに関してはもう数十も起きている事だ。尾行をすれば、確実に何かが起こる」


――何としてでも、この事件の真相を探るんだ。


 そう言った高倉の瞳には、強い決意が現れていた。





 僕は和也。僕には、目を逸らしたい過去があった。それは、僕の恋愛経験そのものだ。僕は今こうして大学生になるまでに、二回の恋愛を体験している。だがいずれも、恵まれたものでは無かった。


 一度目は中学時代。初恋の人だった。風に靡く茶色の髪が素敵で、とても明るくて優しい子だった。僕は勇気を出して告白をして勝ち取った。だが、それが間違いだった。僕は勝ち取ったのではなく、遊ばれたのだった。気付いた時にはもう遅かった。周りの子たちに馬鹿にされ、僕を軽蔑する様な噂を流され、散々だった。学校で唯一の味方と思っていた先生も、見て見ぬ振りをして、僕を見捨てた。


 だけど、そんな僕をいつでも救ってくれたのは母さんだった。母さんはいつもの温かい瞳と笑顔で、僕の話をしっかりと受け止め、僕を認めてくれた。学校では皆が軽蔑する僕を、だた一人、認めてくれた。認めてくれていた。


 高校に進学後、母さんは死んだ。急の病だった。家に帰った時には既に母さんは倒れていて、そのまま帰らぬ人となった。僕は母さんに、何も言えなかった。何も、お礼をする事が出来なかった。あの時、たった一人僕を認めてくれた事に対して、僕は何も出来なかった。


 僕はそんな後ろめたさから、母さんの火葬を見ることが出来ず、飛び出した。父さんは、僕を止めなかった。父さんはいつだってそうだ。他の家庭みたいに暴力を振るう訳では無いけれど、僕に対して無関心だった。接し方が分からないのではない。ただただ、無関心だった。だから、僕が頼れるのは母さんだけだったのに!


 そう逃げ出した僕の前に、中学校に上がる時に分かれてしまった幼馴染の女子が立っていた。彼女は逃げ出した僕に、母さんと同じ、温かい手を差し伸べてくれた。僕はそんな手に救われた。これが、二度目の恋愛だった。


 彼女は弱い僕を、深い愛情で癒してくれた。彼女となら何でもできる。何でも話せる。そう思った。本当にそう思ったんだ。だけど――。


 ――僕は彼女を心から信用することが出来なかった。


 それは、過去のトラウマからだった。頭ではちゃんと分かってるんだ。「彼女は裏切らない」「彼女なら信じていいんだ」って。でも、信じる度に思い出すんだ。中学時代、初めての恋愛で、酷く裏切られたことを。皆に利用されて、罵られて、軽蔑されて……。どうしても脳裏を過ってしまうんだ。


 ついに僕は、彼女のその温かい瞳を見ることが出来なくなった。そうして、愛想を尽かした彼女は、僕を突き放した。いや、突き放したのは僕だった。


 彼女は去り際に小さく呟いていた。


――全部をあげたのに。


 今でも覚えている。その声は非常にかすれていて、寂しげだった。そして次に彼女の姿を見たのは、テレビの向こうだった。彼女は原因不明の死を遂げていた。でも、僕には分かる。彼女はきっと自殺したんだ、と。僕はそのニュースでようやく目を覚ました。そして、僕のやるべきこと、罪の償いも分かった。


 僕は、人を愛さなければならない。心の底から、人を愛さなければならない。それは自殺した彼女への償いであり、僕が過去のトラウマに挑むのだという覚悟だった。誰よりも深い愛を、与え、与えられなければならないのだ、と。


 そして今、大学生となった僕には、彼女が出来た。偶然にも、僕が初めて恋をした人とそっくりだった。けれど、名前は違う。名前は紅羽。告白は紅羽からしてきた。紅羽は周りに明るく接する僕の姿を見て、好きになったらしい。この人となら楽しく過ごせる。明るい未来が待ってる、と思って。僕が明るく接していたのは勿論、過去の教訓からだ。愛の神様は、僕に最後のチャンスをくれたんだ。


 僕は、紅羽を心から愛した。彼女も、僕を心から愛してくれた。全てが明るかった。何よりも、心が解放された様だった。僕は彼女に、僕の過去を全て打ち明けた。彼女なら、受け止めてくれると信じたから。そして、彼女は信じた通り、僕の全てを受け止め、受け入れてくれた。


 僕はようやく、たった一つの愛を手に入れたんだ。


 守るべき愛を手に入れたんだ。


 でも。


 紅羽は僕に別れを告げた。


 それは本当に突然の事だった。


 ある日の放課後。それまでずっと楽しく会話をしていたのに。ずっと楽しく生活を送っていたのに。その告白は、突然訪れた。


「ねぇ、和也。あなたの愛はね、重すぎるの。重すぎて、私には伝わらないし、受け止めきれないの。だから、お願い。もう――」


――私と別れて。


 夕日に照らされながらそう告げる紅羽は、どこか不気味で恐ろしく、そして何故か悲しげだった。


 僕は訳が分からなかった。何故今になって突然。もうすぐで大学を卒業だって、二人で喜んでいたじゃないか。温かい家庭を作ろうって、二人で約束したじゃないか。なのに何で、今になってそう言うんだよ。訳が分からないよ。


 …………。


 ……そうか、そういうことか。初めから彼女は、紅羽は僕を、心から愛してなんかいなかったんだ。全て、僕の独りよがりだったんだ。


――全部をあげたのに。


 あの時の声が、僕の頭を過る。彼女も、こんな思いだったのだろうか。たった一つの愛を守るために全てを捧げたのに、それは何も伝わることなく『無』に還る。自分だけがずっと、心を擦り減らしていたのか。そんな思いだったのだろうか。


 これは、彼女の呪いだ。恨みだ。


 もう疲れたよ。楽になってしまおう。


 僕は大学の屋上へ出た。そして、屋上を覆うフェンスを乗り越え、下を眺める。落ちる先は完全なコンクリートの地面。確実に死ねる。


 覚悟は出来た。もう、死んでしまおう。


 そう思って目を閉じ、飛び降りようとした――その瞬間だった。


――愛を失う時、”愛の式場”が開かれる。

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