第八章 決着
第八章 第一幕
――第八章 決着
ルティカの部屋の前に仁王立ちで構えたジラザは、神妙な面持ちで数度深呼吸を繰り返した後、まるで壊れ物でも扱うかのように、そっと、目の前のドアをノックした。
「なぁ、ルティカ、調子はどうだ?」
努めて明るい声音を心がける。
耳を澄まし暫く待ってみるが、中から応答は一切無い。ジラザは眉尻を下げて、唸りながら後ろ頭をガリガリと掻き毟った。
この三日間、自室に引きこもってしまったルティカの扱いに、ジラザはほとほと困り果てていた。
グィンのレース中にガイゼルが行方をくらましたあの日から、既に一カ月程が経過していた。
当初は必死の捜索を続けていた鴻鵠協会も、時が経つにつれて諦めの色を濃くしていき、それに伴いメディアでも取り扱われる事が無くなっていった。
泣きそうな顔で、それでも、僅かに零れ落ちるガイゼルの情報を欠片も見逃さぬように、ルティカは食い入るように日々流れていくニュースの波を見つめていた。だがそんな彼女の表情も、日を経るにつれて乏しくなっていくばかりだった。
そしてつい三日程前に、とうとう部屋に閉じこもったまま、外に出て来なくなってしまったのだ。
「……おい、ルティカ、頼むぜ、そろそろ出て来てくれやしねぇか」
ルティカの部屋のドアを再びノックしながら、ジラザは返事が無いドアの向こうへと言葉をかけ続けた。
食事は差し出してはいるが、スープにしか手をつけていないようだ。これ以上長引くと、厄介な事になりかねない。
だが、無理も無い話なのかもしれない。
数年前に母親を病で亡くして以来、ずっと心を寄り添わせてきた父親が突然行方不明になったのだ。
気持ちは痛い程分かる。しかしジラザとしても、ルティカをこのまま放っておくわけにはいかなかった。
何せ、妹の忘れ形見だ。
だが、そんな妹とは違いジラザは、幼い女の子の扱いには当然の如く不得手である。
――ったく、どうすりゃいいんだよ……。
ドアの前に置かれたままになっている、手つかずのパンとサラダに気付き、彼は殊更深くため息を吐いた。
その時、厩舎のドアを叩く音が聞こえてきた。
玄関へ向かったジラザがドアを開けると、そこには、小さな鴻鵠の子供を腕の中に抱えた、アレツが立っていた。
「よぅ……、どうした?」
ジラザの声から、色濃い疲労が零れ落ちる。
「ルティカちゃんの様子、どうですか?」
アレツの心配そうな声に対し、ジラザは力無く首を振る。
「そうですか……」
「で、その鴻鵠は何だ? そんなもんどっから拾ってきた?」
「うちのオーナーが、ルティカちゃんの話を聞いたら、鴻鵠士の子供には、鴻鵠の子供が一番だろうって」
「アレツ……、おめぇも疲れてんだな。そんな戯言間に受けやがって……」
ため息混じりのジラザに、アレツは言葉を返す。
「だけどやっぱり、ルティカちゃんは、ガイゼルとテレアさんの娘ですから……」
まっすぐなアレツの眼差しを避ける様に、ジラザはそっと目を伏せた。
「好きにしろ……」
その言葉を聞き、アレツはジラザに一つ頭を下げると、ルティカの部屋の前へと向かった。
「ルティカちゃん、アレツです」
中からは、やはり何の反応も無い。
「今日は、ルティカちゃんに見せたいものがあるんだ。よかったら、開けてくれないか?」
ノックを繰り返しながら、アレツはドアの向こうのルティカへと声をかけ続ける。だが、扉の奥からは微かな物音すらも聞こえては来ない。
「ルティカちゃん、ちょっとでいいんだ! 君がとても悲しんでいるのは分かるよ。だけど、だけどガイゼルはもう……」
「アレツやめろ!」
ジラザの悲痛な声が、思わずアレツの言葉を押し止める。
「……それに関しては、もう、触れないでやってくれ」
掌で目を覆い隠しながら、ジラザは悲痛にかぶりを振る。
その時、アレツの腕の中の幼い鴻鵠が、突如として鳴き声を上げた。
ピュルルルルル。
ピュロロロロロ。
大人の鴻鵠よりもずっと細く、高く、消え入りそうな微かな声で、それでも鴻鵠はその小さな翼を広げて、高らかに鳴き続けた。
まるで、ドアの向こうの誰かを呼ぶように……。
そして、その声音に反応するように、ドアの向こうで物音がした。
鍵の回る音がカチャリと聞こえ、扉がゆっくりと開く。
「ルティカ!」
ジラザは思わず声を上げた。
頬はこけて、髪はボサボサで、いかにも不健康そうな顔を覗かせたルティカは、じっとアレツの腕の中の鴻鵠を見つめていた。
「こう……、こく?」
掠れた声が、ルティカの口から漏れる。
すると不思議な事に、アレツの腕の中にいた鴻鵠が不意に翼を広げ、ルティカの胸元へと飛び込んでいった。
成長すれば人間が見上げる程に巨大になる鴻鵠も、子供の時にはルティカの腕に収まる程の大きさでしかない。
ルティカは、自らの腕の中に飛び込んで来たその鴻鵠を優しく抱きしめた。
「……可愛い」
柔らかく笑いかけるルティカの瞳に、微かに生気がよみがえる。
「アレツさん……」
ルティカの呼びかけに、アレツは慌てて返事をする。
「何だい?」
「見せたいものって、この子の事?」
「うん、そうだよ」
「……ありがとう。ねぇ、この子、名前は?」
「いや、まだ、名前は無いんだ」
「そうなんだ……」
ルティカは腕の中の鴻鵠を見つめ、そのまま語りかける。
「ねぇ、お前。どこから来たの? 綺麗な羽してるね」
そう、笑いかける。
「この子は、リクスト大陸の、ラカントで生まれたんだ」
「ラカント?」
「そう。このルーテジドよりもずっとずっと北の大陸にある、とっても寒い国だよ。この子はね、野生の鴻鵠だったんだけど、両親が密猟者に襲われてしまって、卵のまま、保護協会を通じて、うちのオーナーに引き取られたんだよ」
アレツの言葉を聞きながら、ルティカは腕の中の鴻鵠の頭をそっと撫でて、優しく囁いた。
「そうなんだ……、お前も、私と一緒なんだね。お父さんとお母さん、居なくなっちゃったんだね……」
その言葉に、思わず涙を零したのはジラザだった。
「ねぇ、この子の名前、ルティカちゃんがつけてあげてよ」
「いいの?」
「うん、いいよ」
アレツの提案に、ルティカはぼんやりと呟いた。
「この子って、ラカントで生まれたんだよね?」
「うん、そうだよ」
「ラカントって、何語が使われてるの?」
「ラカントは確か……」
「ラクト語だ」
アレツとルティカの会話に、涙声のジラザが混ざる。一度豪快に洟をすすり上げ、ジラザは続ける。
「ラカントの公用語は、ラクト語だ」
「ラクト語かぁ……。ねぇ、ジラザおじさん。ラクト語で、星って、何て言うの?」
ルティカの言葉の真意は分からなかったが、それはジラザの涙を再び流させるには十分だった。ルティカが出て来てくれた嬉しさなのか、健気なルティカに対する切なさなのか、ジラザは涙でしとどに顔を濡らしたまま、言葉を搾り出す。
「星は、『バ』だ。寒い地方だから、音の数が少ねぇんだ……」
「『バ』か……、それじゃあ、流石に短いよね」
ジラザはポケットにしまっていたハンカチで涙を拭い、豪快に洟をかんだ後、じゃあ、これならどうだ、と付け加えた。
「『バ・ラクア』。輝ける星、って意味になる」
その言葉を、ルティカは何度も呟きながら、うん、素敵、と言葉を紡いだ。
「じゃあ、今日からお前はバラクアだよ。バラクア」
そう優しく語りかけるルティカの顔から、久しく浮かぶことの無かった笑顔が零れ落ちた。
コバルトブルーの羽をルティカに梳かれながら、小さなバラクアは気持ちよさそうに目を細めている。
「ジラザおじさん」
「……おぅ、何だ?」
「私ね、大きくなったら、この鴻鵠に乗りたい。私、父さんみたいな鴻鵠士になる」
ルティカの言葉に対し、ジラザはすぐに反応を見せる。
「アレツ、どうだ? こいつ、うちで面倒見てもいいか?」
「オーナーに掛け合ってみます。大丈夫、他でも無いルティカちゃんの為です。是が非でも認めさせてみせますよ」
「そうか、頼んだ」
それからジラザはルティカに向き直り、屈んで目線を合わせ、優しく笑いかけた。
「いいかルティカ、鴻鵠士になるってのは簡単じゃねぇんだ。だから、俺の、ジラザおじさんの言う事を、これからちゃんと聞いていけるか?」
まだどこか虚ろな目をしてはいたが、ルティカはしっかりと頷きを返した。その瞳の奥に、一つの覚悟が種火となって映っているのを、ジラザは感じ取る。
「よし、それじゃあ、まずは……」
ジラザは暫し考えた後に、
「風呂に入って、飯を食え」
そう、笑いかけた。
***
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