第六章 第八幕

 レース直前。

 ルティカ達は、競技場の真下、地下に位置する選手のスタンバイ場へと移動した。周りには既に他の選手達も集まっており、皆一様にレースが始まるのを、今か今かと待ち構えていた。年度終わりの最後の試合と言う事もあってか、ギラギラとした熱気をその瞳に宿しているライバルばかりである。

「バラクアなら、もっと怒ると思ってた……」

 ルティカはバラクアの羽根を梳きながら、先程のベートとのやり取りを全て説明した後に、ぼそりとそう呟いた。

「俺は寧ろ、お前の覚悟の程が知れて嬉しいくらいだ。負けたら引退。それならば、絶対に負けなければいいだけだ。自らを追い込む意味もあるだろうが、そもそも腹が据わっていなければ出て来ない台詞だろうしな」

「バラクア……」

 相棒の心強い言葉に、ルティカは救われる気がした。

 内心、僅かに後悔もしていたのだ。

 勢いだけで口走ってしまった訳ではない。バラクアに見抜かれた通り、昨夜の内に既に覚悟を決めていた。だが、いざ口に出してみると、後戻りが出来なくなった恐怖に、胸が締め付けられそうだった。そして、もし自分が鴻鵠士を辞める事になってしまったなら、バラクアは何て思うだろうとずっと気がかりだったのだ。結果的には事後報告になってしまったが、バラクアはしっかりと、ルティカの意思を理解してくれていた。

「ありがとう」

 ルティカは両手を広げ、バラクアの翼に顔を埋めながら呟いた。

「礼は、勝利をもぎ取った後にして貰おうか」

 そう、覚悟は決まった。退路も断った。

 後は、勝つだけである。

 その時、二人に向かって一頭の鴻鵠が近づいて来た。

 ベートの相棒、レベである。

 レベの隣にベートの姿は見当たらない。どうやら一人で挨拶に来たらしい。

「ルティカさん」

 声を掛けられ、ルティカは思わずレベの方へと振り返る。

「ルティカさん、坊っちゃまからお話はお伺いしました。このレベ、誠心誠意、本日のレースでは全力を出させて頂きますので、どうぞご安心下さい」

 優しい声音がネイバーを通じて、ルティカの鼓膜を揺らした。

「ありがとうレベさん。でも、絶対に負けませんから。勝つのは私達です」

「どうぞ、お手柔らかにお願いしますね」

「それにしても、レベさんが一人で来るなんて、ベートの奴はどうしたのかしら?」

「坊っちゃまもお誘いしたのですが、一人で行って来いと申されまして……」

「そう……、まぁいいわ! ベートに伝えて貰えるかしら? 今日のレースは、絶っっっっっっ対に私達が勝つからって! 首を洗って待ってなさいって!」

「お伝えしておきます。それとお約束の方も、この翼に誓って、必ず守らせて頂きます」

「うん、レベさんがそう言ってくれるなら心強いわ」

「私としましても、坊っちゃまの顔を殴り倒される訳にはいきませんので」

「ああ、そりゃあそうよね」

「では、幸運を」

 そう言うと、レベは翼を翻し、ベートの元へと戻って行った。

 去っていくレベの後姿を見つめながら、ルティカはレース用のヘルメット型ネイバーを被り、渋い顔で呟いた。

「ふぅ、余裕ね、レベさん。飲まれないようにしないと……」

「ああ、そうだな」

 その時、間も無くレース開始を告げるアナウンスが響き渡った。

 その声を聞くや否や、鴻鵠士達は一斉に各々の鴻鵠へと跨る。

 少しして、轟音と共に地下の天蓋が少しずつ、宛ら満月を二つに分かつように開いて行く。開いた天蓋の隙間から、青い空と銀色のリングが垣間見え、それと同時に、会場に押し寄せレースを待ちわびていた観客達の歓声が、雨あられと選手達に降り注いだ。

「バラクア!」

「おう!」

 バラクアは翼を目一杯広げ、まずはゆっくりと羽ばたいた。羽ばたきを一つする度に、高度が少しずつ上がっていく。レース場に出ると、眼下にはいつもよりも一際多い観客達が、こちらに向かって何かを口々に叫んでいた。それは、贔屓にしている鴻鵠や鴻鵠士の名だったり、熱い応援の言葉だったりした。

 エネルギーの満ち溢れた会場は、正に興奮の坩堝と化していた。

 バラクアは更に高度を上げ、レース直前恒例の、鴻鵠達が連なり観客達の上をゆっくりと旋回していく列の流れに加わった。

 そしてルティカは、自分達を熱を込めて見上げる人々をちらりと見やり、バラクアへそっと囁いた。

「ねぇ、バラクア」

「どうした?」

「私は、バラクアの事、信じてるからね」

 ルティカは目線を空へと移すと、まるで遠い日を思い出すかのように目を細めた。

「バラクアは何だかんだ言っても、いつもいつも、私の事を助けてくれるじゃない。あの夜、夜間飛行中に、私がバラクアから飛び降りたあの夜のこと、覚えてる?」

「あんな強烈な事、忘れられるはず無いだろ?」

「あの時にね、私は、バラクアなら絶対に助けてくれるって、信じ切る事が出来たの……。だから、私はあの時、飛べたんだと思う」

 いけない秘め事を告白するかのように、ルティカは微笑み混じりにそんな事を呟く。

『皆様、大変長らくお待たせしました! 只今より、C級鴻鵠達が織り成します、今年度最後の夢舞台。C級フレイク杯がスタート致します! それでは、選手の皆様、ゲートインをお願いします!』

 会場中にアナウンスが響き渡る。選手達は次々に滑空し、それぞれのスタートゲートへと収まる。

 他の鴻鵠に倣うように、バラクアも本日与えられた、3番のゲートへと翼を向けた。バラクアの目線の端に、レベとベートの姿がちらりと過ぎった。彼らはエラリアル杯と同じく、7番を背負っている。

 スタートゲートを潜り、バラクアが固定位置に翼を収めた所で、ルティカはさらに言葉を付け加えた。

「何度でも言うわ。私は、バラクアを信じてる。信じてる。信じてる! だからね、バラクアも、私の事を信じてほしい」

 可愛らしく微笑むような、柔らかいルティカの決意を耳に溶かしながら、バラクアはそれに、短く返事をした。

「ふんっ、当たり前だ」

『それではいよいよスタートです! 会場の皆様、どうぞ御唱和下さい!』

 アナウンスの声が大音声で響き渡る中、ルティカのネイバーには、バラクアの言葉がクリアに届いた。

「ルティカ。俺も、お前を信じてる」

 その言葉を合図に、ルティカの全身を、熱い血が駆け巡って行くような爽快感が突き抜けた。

『3!』

 ――今なら、誰にも負ける気がしない。

『2!』

 ――今の私達は、最強だ!

『1!』

「うっしゃあっ! 行くよバラクアァァァ!!!」

『レディー! フライト!』

 アナウンスの合図と共に、勢い良くゲートが開いた。

 C級フレイク杯、スタート。

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