第六章 第七幕

 高鳴る心臓を一度右手で抑え、ルティカはそのドアを二度ノックする。少しして、開いたドアの向こうからベートが顔を覗かせた。

 ルティカの顔を見るなり、一瞬怯むような顔をしたベートだったが、すぐにいつもの不遜な表情に戻る。

「何だよ、この間の事を謝りにでも来たのか?」

 挑発的な言葉に、途端に燃え上がりそうになった心に必死で水をかけた。そして、深く息を吸って、ゆっくりと吐き、ルティカは真っ直ぐにベートの目に向けて、ずっとぶつけてやりたかった言葉を放った。

「今日はね、あんたをぶっ潰しに来たの」

 ベートの顔が瞬時に強張り、怪訝そうに眉根が寄った。だがルティカは、直ぐに言葉を繋げる。

「勘違いしないでね。ぶっ潰すって言っても、別にぶん殴りに来たとかじゃないわよ。私はね、今日のレースで、あんたに勝つって言ってんの。でも、どうせあんたは、私なんかに負ける訳無いって、思ってるんでしょ?」

 ベートは暫しの逡巡の後、僅かに唇を歪めて、冷たく言い放った。

「当たり前だ、負ける訳が無いだろ」

 ルティカは両の拳をギュッと握りしめ、強い感情が溢れるあまり、零れ落ちてしまいそうな涙を必死で堪え、巣から落ちてしまった雛を戻すような繊細さで、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「じゃあ、約束して……。私らが、あんたを倒して、今日のレースで優勝したら、この間の事を訂正して……。エレリド=ガイゼルは、アレツさんと同じように、偉大な鴻鵠士だって事を認めなさい……」

 最後は、消え入りそうな程に掠れてしまったが、それでも最後まで言えた自分を誉めてあげたかった。

「……まぁ、どうせ負けないから、別に何でもいいけど」

 ルティカの強い想いに気圧されたのか、ベートはそう絞り出したが、その瞳には、すぐに鈍い光が宿った。

「でも、もし僕に勝てなかったらどうするつもりだ? 一方的な賭け程下らないものは無い」

 ベートはそう言って、下卑た笑いを浮かべた。それに対しルティカは、まるでそよ風が吹いた様に爽やかに、そして、笑顔を見せた。

「その時は、私は鴻鵠士を辞めるわ」

 その言葉と覚悟に、思わずベートの目が見開いた。

 ルティカは、笑顔のまま続ける。

「その時は、きっぱりすっぱりこの世界から足を洗って、お花屋さんとかケーキ屋さんとかの、危なく無くて、女の子らしい仕事をするわ。私が弱い鴻鵠士だってことで、大好きな父さんが侮辱され続けるよりはよっぽどいいもの。だけどね、ベート……。まず無いとは思うけども、万が一にあんたが、レベさんに絆されたりとか、私に情けをかけようとか軟弱な事を思って、今日のレースで手加減しようなんて言うふざけたこと考えたら……」

 握りしめたままの右手の拳を持ち上げながら、ルティカは笑顔を解いて、真剣な表情で叫んだ。

「あんたのその高慢ちきな鼻っ柱を、真っ正面から殴り倒してやるんだから!」

 地下の通路に、ルティカの決意が響き渡った。

「それじゃあ、約束だからね」

 ルティカは最後にそう付け加えると、呆然とするベートを置き去りにし、全速力でその場を後にした。そのまま逃げ帰るように自分の楽屋へと戻ると、急いで中へと飛びこみ、勢いよくドアを閉めた。

「ルーちゃん、どうしたノ?」

 いきなり飛び込んできたルティカに、華瑠は驚きの声を返す。

 だが華瑠の言葉に反応出来ずに、ルティカはドアを閉めるなりその場にへたり込んでしまった。

 心臓はバクバクと高鳴り、息は荒く、手足は震えて、頭は上手く働かない。

 そんなルティカの様子を見て、華瑠は心配そうに水を一杯差し出してきた。彼女はそれに口をつけると、一気呵成に飲み干た。そして大きく息を吐いてから、心配そうに自分を見つめる二人に向けて、バツの悪い笑顔を見せた。

「華瑠……。バラクア……。私さ、宣戦布告して来ちゃった」

 まるで悪戯が見つかった子供のように、照れと後悔と高揚感に包まれながら、そのまま床に寝転んで、堪え切れずに笑い続けた。一頻り笑った後に、徐に身体を起こして、自虐的な笑みを浮かべ、小さく呟いた。

「ハァ……。うっし、言ってやったぞ、コンチクショウ……」

 瞳の奥には、決意の炎が揺らぎながら灯っていた。

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