第六章 第二幕

 焦れるような足音が、どんどん部屋へと近づいて来る。

 静かに、だが素早く部屋の扉が開く。哀しみを全身に湛えた父の姿が、ルティカの瞳に飛び込んできた。

「テレア……」

 愛する妻の名を呟き、ガイゼルはそのまま、先程までアレツが居た場所まで駆け寄り、妻の手を強く握った。

「テレア、俺だ。遅くなってすまん」

 気丈な父は、病床の母に対して、努めて優しい声をかけた。その声の奥底には、耐えきれない程の悲壮な感情が溢れ返っているのだろう。だがそれらを必死に押し殺し、愛しい妻へ、いつもの何気ない挨拶のように話しかけたのだ。

 するとテレアは、ルティカの目にも分かる程にはっきりと、ガイゼルに握られた手を握り返した。そしてゆっくりと、愛する夫の方へと顔を向ける。

 ルティカは母親の顔が見たくて、急いでベッドの下を潜り、父親の膝の上に乗り込んだ。

 母は薄目を開け、穏やかに父を見つめていた。玉の様な汗が、彼女の額を伝い、枕へと沈んでいく。

 テレアは、弱々しくその口元を開き、微かに声を漏らした。

「……あなた」

 ガイゼルとルティカは、一斉にテレアの口元へ耳を傾ける。

「ああ、テレア、なんだい?」

「……おかえり、なさい」

「ただいま」

 今まで何百回と繰り返し見て来た、普段と変わらない当り前の会話。それが、死の淵においやられたこの間際に、母の唇から零れ落ちた時、ルティカは二人の間に、娘の自分ですら入り込めない深い深い絆を感じた。

「……今日は」

 なら、次の言葉は決まっている。

「……勝ったんですか?」

 レースがあった日は必ず、母はその日のレースの様子を父に聞くのだ。

 ガイゼルの瞳から、堪え切れずに零れ落ちた涙が、ルティカの手に落ちる。父親の顔を見上げるルティカであったが、その瞳は涙で濡れているものの、その顔はいつもと変わらない、妻に語りかける時の笑顔に満ちていた。

「ああ、勝ったよ……」

 そう呟くガイゼルの声を聞き、テレアは幸せそうな顔をして、にこりと微笑んだ。

「……そう、やった、わね」

 その呼吸が、徐々に浅くなっていく。

 幸せそうに笑うテレアの瞳がゆるやかに閉じていき、開いていた口元もゆっくりと結ばれていってしまう。

「お母さん! お母さん!」

 穏やかに闇へと沈んで行く母親に、ルティカは必死で声をかけ続けた。

 だが、ルティカの願いも空しく、医者は母親の首元に指を当て、自身の首を力無く横に振った。

 ジラザは周囲を憚らず号泣し、アレツは耐えられなかったのだろうか、いつの間にか部屋から消えていた。

 ガイゼルは、自身が握っていたテレアの手を、膝元のルティカに握らせてくれた。

「覚えておくんだ……」

 父の声が、頭上から降って来る。

「母さんの、温かさを……」

 声と共に、数滴の雨が降って来る。

 ルティカは自分の手の中にある、痩せ細った母親の手から感じる、未だ微かに残った温もりを、必死に心に刻みつけた。

 厩舎の外から、テレアの死を悼んでか、アルバスの悲しげな声音が一つ響いた。

 死者を送る灯火のようなその声音は、遠く遠く、秋空の遥か向こうにまでも響き、そしていつしか、虚空に吸い込まれる様に消えていった。


 ***

 

 フレイク杯の前夜。

 厩舎の奥、柔らかな藁が敷き詰められた一室が、バラクアの寝床である。

「ねぇ、バラクア」

 バラクアが眠りにつこうと足を収めた時、不意に入口から声がした。声の方へ振り向くと、そこにはパジャマ姿のルティカが立っていた。

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