第六章 覚悟の価値

第六章 第一幕

 ――第六章 覚悟の価値


 無機質な病室を嫌ったテレアは、セオクク厩舎の奥のベッドに横たわり、苦しそうに唸っていた。

 無理を言って病院から来てもらった医者も、彼女の容体に眉を顰める。

「テレア、しっかりしろ! 気をしっかり持て!」

 枕元で、ジラザは妹にそんな言葉を掛け続けた。憔悴したその姿は、大柄な体がいつもよりも小さく見えるほどだ。

 だが、妹を想うそんな悲痛な叫び声に対し、ベッドの上のテレアが反応を見せる事は無い。

 母親の顔がよく見えるように、幼いルティカは、枕元の隣に置かれていた少し背の高い椅子に座っていた。腕の中で抱きしめられている鴻鵠のぬいぐるみは、彼女の不安を無言で受け止めるように、ぎゅうぎゅうに押し潰されている。

「ジラザさん。ガイゼルが、今レースが終わって、こっちに向かってるそうです」

「そうか……」

 連絡を受けたアレツが、ジラザにそう呟く。その姿を横目に見やりながら、ルティカは腕の中の鴻鵠を、より一層強く抱きしめた。

「なぁルティカ、母さんに何か、元気になるような事を言ってやってくれや」

 ジラザの力無い言葉にルティカは頷きを返す。テレアのすぐ横に鴻鵠のぬいぐるみを置き、代わりに母の手を強く握りしめた。

「お母さん、お母さん」

 今まで堪えていた涙が、ルティカの頬をポロポロと伝っていく。だがそれでも、テレアは荒い呼吸を繰り返しながら、時折呻き声をあげるだけである。ルティカの声にすら反応を見せない。

 アレツがルティカの逆側に回り込み、テレアのもう一方の手を握った。

「テレアさん、分かりますか? アレツです。もうすぐ、もうすぐガイゼルが来ます。だから、頑張って下さい」

 アレツの言葉に、ほんの一瞬だけ、テレアは反応を見せた。苦しげにアレツの方を向き、弱々しくではあるが、かすかに一つ頷きを返したのだ。

 幼心にも、理解が出来た。

 今、母親の気を繋ぎ止める事が出来るのは、娘の自分では無い。愛を誓った夫である父、ガイゼルだけだと……。

「お母さん、頑張って! お父さん、もうすぐ来るからね!」

 気付けばルティカも、必死でそう叫んでいた。

 その事実に僅かに傷つきもしたが、この緊迫した状況において、母の意識を留めておく方法が一つでもあった事を、僥倖だと感じた方が強かった。

「お父さん、もうすぐ来るから! お母さん、死んじゃダメだよ! ダメだからね!」

 ルティカが必死で叫び声をあげる。すると、ルティカが握り締めていたテレアの手が、ピクリと、微かに動いた。力は弱いが、その手は確かに、ルティカの手を握り返そうとしている。母の意志に応えるように、ルティカもその手を強く、強く握り返す。

 母が何処へも行ってしまわないように。

「テレア、頑張れ! 気張れ!」

 ジラザの涙声が常に部屋中を揺らす。

 祈るような形のまま、アレツは、テレアの手を握りしめている。まるで懇願するかのように、両手に額を擦りつけて。

 医者の付き添いで来ていた看護師が、テレアの額の汗をそっと拭う。

 苦しく、痛々しく呻くテレア。それでもルティカは、母親から目を逸らす事はしなかった。自分が一瞬でも目を離してしまえば、母親がそのまま、空の彼方へと飛んで行ってしまうような気がしたからだ。

 その時、医者が沈痛な表情で、ジラザに耳打ちをした。瞬間的にジラザが、医者の胸倉を乱暴に掴み取り、悲しみの咆哮で病室を震わせる。

「おい先生! そりゃあ、あんまりだろうが! こいつは何にも悪いことなんかしてねぇ! だから、助けてやってくれよ! なぁ! 頼むぜ先生!!」

 思わずアレツが駆け寄り、ジラザを医者から引き剥がす。

 ジラザが医者から何を言われたのか、それはルティカにも大よその見当はついた。それは恐らくジラザにとって、そしてルティカにとっても、信じたくは無い事実なのだろう……。

 その時に、入口のドアが勢い良く開け放たれる音が、全員の耳に届いた。

 それは、今この状況で、全員が待ち焦がれていた音だった。

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