第二章 第五幕
その夜、セオクク厩舎のドアがノックされた。
「ハイハ~イ、誰ですカ?」
能天気な華瑠の声に対し、ドアの向こうから落ち着いた声が返って来る。
「夜分にすいません、アレツです。ジラザさんいらっしゃいますか?」
「アレツさん!」
華瑠を押しのけてルティカがドアを開けると、一人の青年と一頭の鴻鵠が立っていた。青年が手にしている袋の中からは、ジラザの好物であるウイスキーの瓶が顔を覗かせる。
「アレツさん、お久しぶりです!」
アレツと呼ばれた青年は、ルティカに穏やかな笑みを向ける。
「ルティカちゃん、久しぶり。ジラザさん、いるかな?」
「勿論です。どうぞどうぞ」
快活な声を出すルティカの横から、
「ルーちゃん……、華瑠、とっても、痛いヨ~」
と、くぐもった華瑠の恨み言が聞こえてきた。ルティカが声の方向に振り向くと、勢い良く突き飛ばされた華瑠が、入口の横に積んであった藁の中に頭を突っ込んでいた。
「ああ、ごめんね華瑠」
ルティカに引っ張り出された後も、華瑠は身体中に付いた藁を払いながら唸っている。
「う~、酷いヨー。ルーちゃん酷いヨー」
そこへジラザが、厩舎の奥から顔を出した。
「おう、アレツ。元気にしてたか」
「ジラザさん、お世話になっております」
「相変わらずおめぇは固ぇな。まぁあがれ。おう、華瑠、茶淹れろ」
「ああ、いいわよ華瑠、私が淹れるから、休んでて。アレツさん、お荷物持ちますね」
ルティカは高らかにそう宣言すると、さっさと華瑠を置いてアレツと共に行ってしまった。
一人残された華瑠の所に、ゆったりとした様子でバラクアが歩いて来る。
「華瑠、大丈夫か?」
「う~、バラクア~、みんな酷いのヨ~」
「まぁ、ルティカの酷さは今に始まった事じゃない、許してやってくれ」
「う~、分かってるヨ~。分かってるけどヨ~」
バラクアは涙目の華瑠を横目に、入口の外に佇んでいる鴻鵠に向かって声を掛けた。
「お久しぶりです、ミリビネさん」
「ああ、バラクア。久しいな。調子はどうだ?」
「相変わらず、厳しさと不甲斐なさを感じる毎日です。ところで、ミリビネさんは中へ入らないのですか?」
ミリビネと呼ばれた、黒と茶色の斑模様の羽根を蓄えた鴻鵠は、バラクアにその赤い瞳を向け、問いかけに素っ気なく答えた。
「いや、私はここでいい」
「そうですか、では」
「ああ」
バラクアもまた素っ気なく返し、その場を去って行った。
再び一人残された華瑠は、ミリビネを暫し呆然と見つめた後、
「ドア、閉めていいノ?」
とミリビネに尋ねた。
「えぇ、どうぞ」
これまた素っ気なく返って来た返事を聞き、華瑠は申し訳無さそうに、厩舎のドアを閉めた。
「来週だな、世界戦」
「はい、今年も勝ってみせます」
「へっ、心強いじゃねぇか」
アレツの手土産のウイスキーを片手に、ジラザは上機嫌に口髭を撫でて笑った。
ルティカはアレツの横に、いつに無くしおらしく、チョコンと座り、アレツがお茶を飲み干したのと同時に、アレツの湯飲みに手を伸ばした。
「アレツさん、お茶のお代わり淹れてきますね」
「ああ、ルティカちゃん、いいよ。すぐにお暇するから」
「えー、もうちょっといて下さいよ~」
ブーたれるルティカに、ジラザがちくりと言う。
「ルティカ、お前はもう寝ろ。ガキンチョがいつまでも起きてんじゃねぇ」
「あー、おっちゃんひど~い。いいじゃない、アレツさんが久々に来てくれてるんだし、少しお話したって」
「そうか、お話しか。じゃあルティカ、現世界チャンピオン様に、今日のレースの話を聞いて貰ったらいいじゃねぇか」
藪から出てきた蛇を見つけたような顔のルティカに、アレツはにこやかに答える。
「へぇ、ルティカちゃん、今日レースだったんだ? 今日って事は、エラリアル杯か、どうだったの?」
「いやぁ、ねぇ、うふふふ、おほほほ……、アレツさん、ウイスキー飲みますか?」
「いや、大丈夫だよ。そうか、まぁ、また次があるよ」
ルティカの様子で察したアレツの優しい言葉が、より一層ルティカの胸を抉った。ましてその優しい言葉の相手は、ルティカが密かに憧れている、去年のシャン=ナーゼルの世界戦で見事チャンピオンに輝いた、レインケル=アレツその人である。まるで鏡を前にしたガマガエルのように、ルティカの表情が固まる。
「ったくよぉ。こいつと来たらすぐ調子に乗りやがるもんだから、結局今年1年で一勝も出来ねぇどころか、未だに0ポイントのままなんだよ。うちの厩舎の沽券にも関わってくるってもんだぜ」
そこでジラザは、グラスの中のウイスキーをぐいっと飲み干し、僅かに据わった目のまま、ルティカへと顔を近づけてきた。
「おいルティカ。アレツの一年目は、そりゃあ凄いもんだったぞ? 当時はアレツもルーゼンがメインだったからな、ガイゼルとアレツ、二人でいつも優勝を争ってたもんだ。一年目同士がだぞ? 何年もC級で燻ぶってる他の選手は、立場がねぇってもんだな。そんくれぇ、こいつらは凄かったんだよ」
――あーあ、また始まっちゃった……。
ルティカはため息を飲み込みながら、酒に酔う度にジラザから零れるガイゼルとアレツのライバル武勇伝に耳を貸した。去年まではワクワクして聞いていた部分もあったが、今年は自分も鴻鵠士一年目となり、ジラザの言う通り1ポイントも取れていないへっぽこなので、いつもと同じ話の筈なのに、やたらと胸に刺さってくる。
「ジラザさん。すいませんが、私はそろそろ……」
長くなりそうなタイミングで、アレツが席を立ち上がった。ルティカは渡りに船と思い、アレツに合わせて立ち上がった。
「アレツさん、玄関まで送ります!」
「ありがとうルティカちゃん。それじゃあ、ジラザさん。また来ます」
「ああ、そうだな。世界戦前の大事な体だ、トレーニングもいいが、しっかり身体も休めろよ。今日も寄ってくんだろ?」
「ええ、勿論」
「今日は必勝祈願も兼ねてってか?」
「そんなんじゃないです。ここまで来たついでですよ」
アレツはそう言うと、いつもの様に、少し悲しげに笑った。
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