第一章 第三幕

「うっし、んじゃまずはウォーミングアップからだな。とりあえずその辺を適当に飛んでろ。強風が吹いても冷静に対処しろよ。安定して飛び続ける事を意識しろ。後、あんまり遠くには行くなよ。そうだな、大体30分位は一定のスピードを保って飛べ」

「OK! そんくらい楽勝よ」

「ほほう、頼もしいじゃねぇか。じゃあ、早速訓練開始と行くか」

 ジラザの言葉を合図に、ルティカは専用のヘルメットを深く被った。そして颯爽とバラクアの首元の鞍へと跨り、自分の腰部分に付いている安全ベルトと鞍を、しっかりと固定する。

「うっし、バラクア、いいよ」

「よし、行くぞ!」

 威勢のいい声がルティカの耳に届くのとほぼ同時に、バラクアはその巨大な翼を大きく開いた。一度羽ばたく毎に、バラクアの周辺に生えている草が大きく波打って行く。それを幾度か繰り返していくと、ある瞬間にふわりと、巨大なバラクアの爪が地面を離れ、ルティカを乗せたまま空中へと浮かび上がった。

 地面が遠ざかっていくのを視認すると、ルティカはもう一度上空の青と雲と太陽を、ためつすがめつ眺めた。空が近づいて来るに連れて、自ずと胸が高鳴っていくのを感じる。

 バラクアの身体が空に浮かび上がった時の、重力の鎖から解放された瞬間起こる何とも言えぬ開放感。それは鴻鵠士になって本当に良かったと、ルティカが心から感じる瞬間の一つであった。

 バラクアは羽ばたきを繰り返し上昇を続け、ある程度の高度になった段階で、翼を広げて風に乗り、首元のルティカに問い掛けた。

「高度はこんなもんか? 大体レースのスタート位置ぐらいの高さまで来たぞ」

 ルティカが地上を見下ろすと、ジラザ達の姿はもうすっかり、豆粒程度の大きさになっていた。

「そうね、私的にはもうちょっと高いのが好きなんだけど、この辺りでいいんじゃないかしら」

「よし、一先ずどうする?」

「そうね、ウォーミングアップだし、とりあえずグルグル旋回しましょう。たまに緩急付ける位で、バラクアの好きに飛んでいいわ。何かあったら指示出すから」

「了解」

 バラクアは高度を維持したまま、優雅に上空の旋回を始めた。

 ルティカが周囲を見回すと、ルーテジドの草原が一望出来る。周囲に他の鳥や生き物は居ない。それもその筈、この高度まで飛ぶ事が出来るのは、飛翔の為の強靭な筋肉を兼ね備えた鴻鵠ぐらいの物である。小さい鳥が遊べるのは、大きな鷹が居ないからだとはよく言ったものだが、巨大な鴻鵠のみが飛翔する高度は、小鳥は存在する事が出来ない、空の強者のみが存在しえる空間だった。

「んん~、はぁあ」

 ルティカが上空の澄んだ空気で、肺の中を存分に満たした。

「はぁあ、めちゃめちゃ気持ちいいわね。絶好の飛行日和だわ。バラクア、こんだけ風が穏やかなんだったら、もうちょっとスピード出してもいいんじゃない?」

「バカ言うな。まずはウォーミングアップだとオーナーが言っていただろう。本格的な訓練の前に、わざわざ疲れる様な事をさせるな」

「相変わらず頭がかったいんだから。ちょっと位いいじゃないの、減るもんじゃ無し。その程度で訓練出来無くなるようなヤワな体力してないでしょ」

「お前、ついさっき、俺の好きに飛んでいいと言ったばかりだろ。俺はな、激しい訓練が行われる前の、この穏やかな飛行時間が好きなんだよ。一時の間レースの事を忘れる事が出来る、この束の間の遊泳の時間が好きなんだよ」

「縁側でお茶を啜る時間が至福なんじゃ~、みたいな事? 新人の癖に、ヨボヨボの爺さんみたいな事言ってんじゃないわよ」

「お前みたいなお子様には、心を落ち着ける為の、この優雅な時間の大切さが分からないみたいだな」

「はぁあ? 誰がお子様だって言うのよ!」

「言われるとムキになるのは図星の証だ。お前の方こそ、もうちょっと余裕を持ってどっしりと構えたみたらどうだ? ガキじゃあるまいし。そんなんだから、レース中も余裕が無くなって、勝てる試合も落とすんだよ」

 本格的な運動の前に羽と筋肉を暖める為の時間。そして、空と一つになる感覚を養う事で心を落ち着ける時間。だがそんな時間でも、鴻鵠士と鴻鵠の互いの呼吸が乱れれば、穏やかな時間も幾許の間も無く、険悪なムードに変わってしまう。

 レースの事を言われ、まるで頭に小石をぶつけられた様に頭にカチンと来たルティカは、体内の沸点が一気に上がった。

「ちょっとバラクア、聞き捨てならないわね! 私の所為でレースに勝てないって言うの! あったま来た、ちょっと地上に降りなさいよ、白黒はっきりつけてやるわよ」

 バラクアに啖呵を切った刹那、ルティカは不意に、真横から強い風が吹いて来るのを突発的に感じ取った。だが、身体を乗り出しバラクアへの口上に意識を集中していた為、判断が一瞬遅れてしまう。

「バラクア! 翼畳んで、斜め下に降下!」

「はぁ? いきなり何だ? 斜め下って、右か? 左か?」

「何でもいいから、さっさとやってよ!」

「意味が分からん! ちゃんと説明をしろ!」

「強い風が!」

 来てるんだってばー! と言い切る事が出来ないまま、ルティカとバラクアはグルグルと回転しながら吹き飛ばされていった。突然の横殴りの突風は、口喧嘩をしながらなどと言う究極の余裕をかましながら悠々と旋回していた二人に、容赦無く襲いかかって来た。

 バラクアはバランスを崩さぬ様に翼は畳んだものの、状況の判断が追いつかず上手く反応が出来ない。

 元来鴻鵠と言う存在は、咄嗟の思考には向いていない存在の為、鴻鵠士の指示が無ければ、その巨体で上手く立ち回る事が出来ない生き物なのだ。

 空中で大きくバランスを崩し高度を落としたバラクアは、地面に激突をしないように、必死に何度も羽ばたいたり、翼を思い切り広げてみたりして、減速を試みる。

「バラクア! 何やってんのよ! そんな滅茶苦茶な動きじゃ、墜落しちゃうわよ!」

「そう思ってんなら、お前こそ、文句ばっかり言ってないで、ちゃんと指示を寄越せ!」

 強風に振り回されながらも、二人の舌戦は止まらなかった。舌戦の間に落ち着いたのか、漸くルティカの指示がまともに機能し始めた為、強風に時折煽られながらも、何とか体制が整い始めた。

 バラクアは強い風に煽られながらも何度も強く羽ばたきを続け、何とか地面への落下は免れ、二人は命からがらではあるが、無事に地面への帰還を果たしたのであった。

「やれやれ、とんだウォーミングアップになったなぁ」

 バランスを崩した二人を地上から見ていたジラザは、地面に降り立った二人にニヤニヤと皮肉を吐いた。

「……おっちゃん、今日は穏やかで、絶好の飛行日和だって言ってたじゃない。上空で横殴りの突風が来るなんて、聞いてないわよ」

 ルティカの恨み言を聞き、ジラザは実に楽しそうに鼻で笑った。

「なぁに言ってやがる。俺はちゃんと『強風が吹いても冷静に対処しろよ』って忠告しただろう。それを忘れてお前は、今日は穏やかで気持ちのいい気候だからと油断して、周囲への配慮を怠ったんじゃ無いのか? そもそも、いつ来るか分からない風の動きを読んで、しっかりと鴻鵠を操るのがお前の仕事だろ。ウォーミングアップであろうと手を抜いて無かったって、心の底から言えんのか?」

 恨みがましくジラザを睨んでいたルティカだったが、正鵠をズドンと真正面から射抜かれ、二の句が告げなくなってしまった。ぐぐぐ、と唸りながら、自分の不甲斐無さに収まりを付ける事が出来ず、その舌先はバラクアへと向かった。

「ちょっとバラクア、何で一発目に私の言うとおりに動かないのよ! 翼畳んで降下って言ったじゃないのよ!」

 誰がどう見ても八つ当たりである。

 よって、バラクアも黙っちゃ居ない。

「それはこっちの台詞だ! どうしていきなりそんな無茶苦茶な指示が飛んで来るんだ!」

「風が来るからに決まってるでしょ!」

「お前の指示は急過ぎるし、説明が少なすぎるんだ!」

「その位察しなさいよ! そんな事も分からないで、よくレース鴻鵠なんてやってるわね!」

「何だと! もう一度言ってみろ! お前こそ、的確な指示の一つも出せずに、急な突風に慌てふためきやがって、それで鴻鵠士だなんて、恥ずかしくてしょうがないぜ!」

「なぁんですって! もう今日という今日は許さないんだから! あんたに鴻鵠士の必要性を嫌って程分からせてやるわよ! その身体にねえ!」

 二人の喧嘩はいつもの事だが、今日はいつにも増してヒートアップしそうな予感を感じたジラザは、先程よりも大きな声をあげ、二人を叱りつけた。

「お前らいい加減にしろ! お前らがそんなん調子じゃ訓練にならんだろうが! ちょっと頭冷やせ! ウォーミングアップをしろとは言ったが、頭沸騰するまで熱を上げろとは言ってねぇぞ!」

「だっておっちゃん!」

「ですが師匠!」

「うるせぇっつってんだろ!」

 ジラザの一喝に、仕方なく二人は黙り込んだ。

「ったくしょうがねぇなぁ。おいお前ら、今日の最初の訓練は別行動でやるぞ! バラクアは上空で高速飛行を100本だ。華瑠、これはお前に任せたからな」

「ハイシショー! お任せネ!」

「ルティカは俺と一緒に、この厩舎周りをランニング10周だ。行くぞ」

「10周! あのぉ、おっちゃん、私も一応か弱い女の子なんで、せめて5周くらいになりませんか?」

「つべこべ言ってると、20周になるが、いいんだな?」

「わっははぁい、おっちゃーん、私走るの大好きぃ! 10周走るの楽しみだなぁ」

 ルティカが引きつった笑顔を浮かべたまま、ランニングの為の準備運動をし始める。

 そんな中、華瑠はこっそりとジラザに耳打ちをした。

「ねぇねぇ、シショー、質問あるヨ、聞いてもイイ?」

「お? 何だ?」

「さっきの事ヨ、凄く上の方でサ、風が、いきなり強く吹くのって解ってたノ?」

「ああ、まぁ、そうだな。今日は雲は高ぇが、妙に生温い匂いが上の風からした。だから、気圧が上と下では大きく違っている様な、何となくいやーな予感がしたんだよ。だけどよ、一雨来るような雰囲気は、雲の量が少ねぇから無かった。それでも風は上の方で強くビュビューンと吹くんじゃねぇかなぁとは思ってたんだよ。まぁ、ルティカだけだったらまだしも、バラクアがいればどうにか切り抜けられるとも思ってたから、特に心配してなかったけどな。ったくルティカの野郎、どっちが鴻鵠士か分かりゃしねぇ」

 軽いため息を零すジラザを、華瑠は尊敬の眼差しで見上げる

「成程、さすがシショー。勉強になりますネ」

 華瑠が先程のジラザの言葉をメモに起こしていると、今度はジラザが華瑠の肩をがっつりと組んで、耳元で神妙に話しかけた。がっしりとしたジラザの腕に抱かれると、巨大な動物にホールドされたかのように逃げられないどころか動く事もままならない。

 普通ならそのパワーに緊張する場面かもしれないが、ジラザのこの話し方は彼にとって、声を抑える時の癖の様なものだったので、ジラザの弟子になって以降幾度と無く経験した華瑠は、猛獣の接近にもすっかり慣れていた。

「なぁ華瑠。さっきの様子を見てても、バラクアの奴もどうやら調子が悪ぃ。これは別にルティカの所為だけでもねぇだろぅ。お前はまだ見習いだが、あいつらにしてみれば立派な調教士だ。バラクアもレースで勝てなくてイラついてたりすんだろ。メンタル面、しっかりフォローしてやんだぞ。ばれねぇように、こっそりな」

 コソコソ話が終わると、ジラザは華瑠を解放した後、その肩を大きな手で二度叩いた。

「んじゃ、頼んだぜ」

「ハイヨ! 華瑠頑張るネ!」

 華瑠の言葉にニカッと笑い、ジラザはルティカの元へと歩いていった。

「おぉしルティカ、準備はいいか? 駄目でももう行くからな。走る構えしろ」

「えぇ! おっちゃん、ちょっと待ってよ! タイムタイム!」

「うっし、そんじゃ、よーい、ドーン!!」

 景気のいい声を放って走り出したジラザの後ろを、ルティカが『うんざり』と『こなくそ』と言う感情が入り混じった顔で追いかけていく。

 華瑠は小さくなっていくジラザとルティカの後ろ姿を目で追いかけながら、そっと呟いた。

「バラクアのフォロー、頑張らなくっちゃ。シショーみたいになるヨ!」

 そしてバラクアの元へと言って、精一杯の明るい声を出した。バラクアを励ます為には、まずは自分がジラザの様に、元気にパワフルに対応するのが一番だと言う考えに、華瑠は至った。

「さぁバラクア! 高速飛行百本行くヨ! タイム遅かったら、やり直しネ!」

「おう、望むところだ!」

 バラクアから返ってくる快活な答えが、華瑠の耳元に流れる。駆け出しの自分が上手くやれるかは分からない。だけど今は、ただこれだけの事が、華瑠にとっては幸せだった。

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