其の百九 「俺を殴ってくれ」と言ってくる人が現れても、逃げてはいけない。その人は底なし沼にはまって助けを求めているか、テレビドラマ見過ぎているかの、どちらかだ


 橙色の光が空間を優しく照らし、僕の視界を包む。


 僕の眼前、くしゃっと顔を潰して笑う『母さん』と、

 誇らしげな顔で僕を見つめる『父さん』が見える。


 二人の笑顔にほだされるように、僕も思わず、笑う。

 笑って、笑って――、笑ったまま、ピタっと、その顔が、固まった。


 くしゃっと顔を潰して笑っていた母さんの『眼』が、みるみる内に真っ青に染まり、不自然なまでに口角が吊り上がり、その顔から、はち切れんばかりに血管が膨れ上がる。

 誇らしげな顔して僕を見つめていた父さんの『眼』が、みるみる内に真っ青に染まり、その眼から血の涙がドロリとあふれ出し、父さんの首は、カクンと、壊れた人形みたいに傾いた。


 日常から非日常へ、急に突き落とされた僕の脳は、心が壊れてしまわないようにと、思考の強制終了を命じた。


 何も見ないように、何も聞こえないように――

 僕は思わずその場から逃げ出し、走った。


 走って、走って、叫んだ。



 誰か、ダレカ、


 助けて、タスケテ――



 僕の周りに、黒アリの行進みたいに、うぞうぞ歩いている人たちがいる。


 まるで、『僕なんかいない』みたいに、『僕の声なんて聞こえない』みたいに、能面のような無表情で、ただただ、歩いている。


 僕は、近くにいる人に思わず飛びつき、その身体をドンドン叩いて、叫んだ。


 助けて、助けて、タスケテヨ――――



 僕は、蚊でも追い払われるかのように、ドンッと突き飛ばされ、その人は、僕のことを一瞥いちべつもすることなく、そのまま、行進をつづけた。情けなく、バタリと地面に倒れ込んだ僕のことを、水たまりでも避けて通るように、黒アリたちが横切る。



 なんで、なんで、ナンデ


 どうして、どうして、ドウシテ――



 ――どうして、僕の声は、誰にも届かないんだろう――



 地面に横たわりながら、赤黒い空をボーッと眺めていた僕のことを、ひょいっと誰かが、見下ろした。

 真っ青な青眼で、他人事のような眼で、色のない表情を浮かべている――、『青眼の僕』だった。


 僕はムクっと起き上がると、顔を歪ませながら、眼にいっぱいの涙を溜め込みながら、『青眼の僕』の両肩を思いっきり掴んで、ダムが決壊するみたいに、叫んだ。


 

 ――大好きだった、母さんも父さんも守れなかったボクが……、

 ――一つの村を滅ぼし、たくさんの命を奪ってしまったボクが……、

 ――世界を救うなんて、そんなこと、できるワケないじゃないか!

 ――『青眼の力で世界を救ってやる』……? 無責任なこと、言いやがって……。

 ――ボクは、誰も守るコトなんかできない……。

 ――ボクに出来ることなんて、ひっそりと、誰の眼からも映らないよう、ただ『存在』するか……、

 ――絶望を爆発させ、『逃げる』ように『世界を壊してしまう』か……、

 ――その、どちらか、だけ――――



 ガクガクと肩を揺らされている『青眼の僕』が、

 フッと寂しそうに、少しだけ笑ったかと思うと、

 コト切れてしまったかのように、その顔から色が失われ――


 ――ボロリと、その首が、もげた。



 コロコロと、僕の足元で、『青眼の僕』の首が転がる。

 ざわざわと、生ぬるい風が、僕の頬をなでる。

 ヌメリと、粘っこい糸が、僕の全身に巻き付けられる。


 

 ――もう、いいか。



 僕の両手が、操り人形みたいに、ククッと、一人でに持ち上がる。



 ――もう、終わりにしよう。



 スッと開かれた掌の先端が、僕の両眼に向かれる。



 ――世界が僕の存在を拒むのであれば……



 僕は、自身の両眼を潰してしまおうと、

 ギュッと、掌の先に力を込める。



 ――いっそ、僕自身が、世界から居なくなってしまえば――



 粘りっこい糸が、ククッと、僕の両手を動かし、

 僕の眼に向かって、思いっきり、その指を突き立て――






 僕の手が、誰かの手によって、掴まれた。



 くるっと、後ろを振り返ると、如月さんが居た。


 如月さんは、他の黒アリたちと同様、能面のような無表情で、ピクリとも顔を動かさぬまま、掴んでいた手を離し、おもむろに、右腕を振りかぶると――



 ――僕に向かって、思いっきり、平手打ちを放った。



 …


 …


 …


 …


 ――えっ……?







 ――『暗転』――



 テレビモニターの光を、リモコンのボタン一つで、スッと消してしまうように、僕の視界に広がっていた赤黒い景色が、ぷっつりと、深淵の闇に閉ざされる――



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