【4ツ眼】~緑眼ノ誓願~

其の百 真っ暗な闇を相手にキャッチボールをしてみよう、反響が耳の中に鳴り響き、あなたは『孤独』という言葉の意味を知る


 コートの袖から覗かせている素肌が、委縮するようにキュッと縮こまる。冷え切った空気が、街を静かに凍らせている、『土曜日』の朝――


 私……、『如月 千草』が、伸ばした人差し指で無機質な丸いボタンをそっと押しやると、「ピンポーン」と一定の音階を奏でる電子音が静かに轟いた。「はいは~い」というのん気な声に向かって自分の名前を告げると、すぐにガチャリと、鉄製のドアが開かれる音が耳に飛び込む。


 「……よぉ、千草ちゃん……、今日も、来てくれたんだな」


 私はペコリとナナメ四十五度にお辞儀をしたあと、真っすぐな目線を『相手』に向かってぶつけ、低いトーンの声を窺う様に漏らす。


 「おはようございます。……あの、水無月君は……?」


 私の目の前……、押し開けたドアに体重を預け、片足立ちのまま力なく笑う『平太さん』が、罰の悪そうにポリポリと頬をかいている。


 「……相変わらず、かな……、そこじゃ、寒いだろ、まぁ、あがんな――」


 言うなり、くるっと後ろを向いて、ドタドタとフローリングの床を踏み鳴らしながら中へ引っ込む平太さんを確認した後、私は誰に向けてでもなく、もう一度ペコリとナナメ四十五度にお辞儀をした。玄関に入り、開け放たれていた鉄製のドアを閉めて、そそくさと靴を脱ぐ。

 短い廊下の先、平太さんがある一室のドアをジロリと鋭い眼光で睨んでいる。私がしばらく平太さんの顔を眺めていると、平太さんは私に見られていることに気づいたのか、ハッと再びバツの悪そうな顔を見せ、ポリポリと頬をかきながらぶっきらぼうな所作で手の先をドアへと向けた。……「どうぞ」のジェスチャーなのだろう。

 私は平太さんが睨んでいたドアの目の前に立ち、コンコンッ、と遠慮がちに二回ノックをする。シンッとした静寂が耳の中で反響し、私はフゥッと短く息を吐いた。


 「……水無月君……、如月です……、入る、わね……」


 鍵のかかっていない木造の引き扉を引っ張ると、キィッと軋んだ音がこぼれる。部屋から漏れ出たぬるい空気が顔を撫でた気がして、私は思わず眼を細めた。


 ――細めた眼の先、


 

 私が来たことなんて、『まるで気づいていない』みたいに、ベッドに横たわっている水無月君が、ボーッと、虚空の天井を一心に見つめている――



 私はそっと部屋の中に入ったあと、水無月君が横たわっているベッドのすぐそばにちょこんと腰をかけ、彼の横顔をジーッと見つめた。――キィッと再び木が擦れる音が耳に流れ、平太さんが静かにドアを閉めたのだと気づいた。


 「……水無月君、おはよう……、今日は、寒いけど、いい天気よ――」


 淡々と言葉を紡ぐ私に対して、水無月君からの返事は『ない』。

 昨日……、金曜日の夜から、今日に至るまで――



 私は、空っぽになってしまった水無月君に対して、

 返って来ないキャッチボールを、永遠と繰り返していた。





 ――金曜日の夜、学校のグラウンドで、抜け殻のように動かなくなってしまった水無月君を背負った私は、暗い夜道をとぼとぼ歩きながら彼の家へ向かった。たどり着くと、保護者を名乗る平太さんが私を迎え入れた。平太さんは最初、とても驚いた顔をしていたのだけど、水無月君がこうなってしまった理由をなぜか私に確認することをせず、私に代わって水無月君を背負って彼の部屋に運んだ。


 眼は開かれているんだけど、『何も見えていない』し、『何も見ていない』。

 そんな、空っぽの水無月君に向かって、私は水を注ぎ続けた。

 注いでも注いでも、空っぽのはずのコップは、一向に満たされる気配が無い。私は、彼に向かって、思いついた言葉をひたすら投げかけた。

 

 誰かがスッと、私の肩に手を置いた。振り向くと、優しいんだけど、何かを憐れむような――、ちょっとだけ悲しい顔の平太さんが、かぶりを振っていた。


 ふと時計に目をやると、既に日をまたいでいた。刻の経過が私に『疲労』を気づかせ、全身にズシリと、重りのような気だるさがのしかかる。カラカラに乾いた喉で、「また、明日きます」と絞るような声を落とした私に向かって、「お茶でも一杯、飲んでいきなよ」と、平太さんがぶっきらぼうな表情で、力なく笑った。


 家に帰り、ベッドに倒れ込んだ私は、そのまま泥のように眠る。

 そして、次の日の朝が訪れ――



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