其の六十三 『笑う門には福来る』――、とりあえず笑っておけば、少なくとも腹筋は鍛えられる


 パチっと、両眼が見開かれた。


 ――『私』の、眼に映る風景――



 灰色の、ゴツゴツとしたコンクリートの地面が水平線のように広がる。

 『私』は理解した。


 ……あ、私は今、『地面』にうつ伏せになって横たわっているのだわ……。



 ――起きなきゃ――



 思考する前に、身体が勝手にムクりと起き上がる。

 ……少しだけ、よろけた。 十メートル近くの高さから、落下の衝撃をモロに受けたのだ。『緑眼』の力で身体が強化されているとはいえ、 流石に無傷とは言えない。

 ……とはいえ、目立った外傷はほどんど見受けられず、存外平気で居られる自分に、自分で驚いていた。


 ――『色眼』の能力は、その『想い』の強さに比例する――


 

 自分は、よっぽど強く『彼らを守りたい』と願ったのだろうか。



 ……。


 ……あっ――。



 ――水無月君は、無事……?


 ハッ、と我に返り、私はキョロキョロと周囲を見渡した。

 

 

 ――ある一点を見つめて、ピタっと、私の眼が動きを止める。


 両手両足をだらんと放りだしながら、

 ゴミ捨て場に置いてある『壊れた人形』みたいな姿の水無月君を発見し、


 ――『私』、……『緑眼族』の落ちこぼれ、『如月 千草』の顔が、

 サッと、『青』ざめた。




 「――水無月君ッ……!」



 普段はあまり大きな声を出さない私の口から、

 人生でも、数える程度しか発したことの無い『大声』が漏れ出た。


 身体が、勝手に動く。

 私は彼に駆け寄り、うつ伏せになっているその身体をゴロン、と動かし、

 目を瞑ったまま、グラリと力なく項垂れた彼の首を、左手で支える。



 「水無月君ッ……!」



 ちょっと控え目に漏れ出た、二度目の大声。

 私は無我夢中で彼の頬をピシャリピシャリと叩いた。


 

 「う、う~~ん……」


 

 彼の口から、寝ぼけ眼で呻いている時のような『のん気』な声が漏れ出る。


 ――ホッ、と私の胸の中に暖かいものがこみ上げる。

 身体が体温を取り戻し、全身に血が巡っていくのを感じた。


 ……良かった……、久しぶりに『使った』けど……、『うまくいった』みたいね……。




 人間の意思を超えた『天命』を強く感じ、

 『何があっても人を守りたい』と強く願った『緑眼』にのみ与えられる、不出の『隠技』……、



 ――『おすそ分け』――



 『緑眼』の身体に触れた者たちに、

 『その力を分け与える』事ができる、

 『奉仕』と『慈愛』の、『譲渡』――

 



 ――ザッ……


 心の底から安堵している私の耳に、

 地面を踏みしめる音が飛び込む。


 音がした方向に顔を向けると、少し離れた場所で、薄茶色のロングヘアで顔を覆い隠している『不知火さん』が、擦り傷だらけの腕をかばうように両腕を組みながら、ヨロヨロと立ち上がっていた。


 ……あっ、良かった、彼女も無事だったのね。


 

 ――『感想』の直後、さっきまで水無月君の事しか考えてなかった自分の浅はかさに気づき、少しだけ、罪悪感が広がるのを感じる。



 不知火さんが覚束ない所作で、ゆらゆらと身体を揺らしながら長い前髪を掻き分ける。彼女の、色の無い表情と、疲れ切った目が、私の眼に映る。

 不知火さんは放心したようにボウッと佇んでいたが、少しだけ間を置いた後、チラリと、私に向かって目線を投げかけた。



 「――なんで、私の事、助けたの……?」



 ――そして、そんな事を言う。



 色の無い表情で、

 疲れ切った目で、

 幽霊のように、ゆらゆらと身体を揺らしながら――。



 「……さっきまで、『殺そうとしていた』私の事を、なんで助けたのよ……」



 ――一切の着飾りが無い、地面を這いつくばるようなトーン――


 私が答える前に、彼女は質問に『補足を加える形で』、言葉を重ねた。

 問われた私は、少しだけ逡巡しながら頭に思考を巡らせる。


 

 …なんで――



 明確な回答が、頭の中に浮かんでこなかった。

 彼女の問いは、数学やクイズのように正式な『解』がある類の質問ではない。


 こういう時、私はいつも『こう』する。


 シンプルに、

 自分が感じた事実を、

 そのまま相手に伝える『だけ』。



 「……なんで、でしょうね。……私にも、わからないわ」



 ――果たして、わからないのだから、『わからない』と言うしかない。

 私の答えを聞いても、彼女の色の無い表情は『動かない』。


 ……満足の行く答えじゃなかったのだろう、鈍感な自分にもわかる。


 私は、時を戻す様に『さっきまでの自分』を思い返して、頭の中に浮かんだ記憶の欠片を、ポツリポツリと呟いた。



 「……あなたが、屋上から飛び降りて……、いや、『その前』から、水無月君が、『空』に向かって駆け出していたの。それを見て、私、『あ、水無月君助けなきゃ』って……。勝手に、身体が動いていたわ……、空中で、水無月君の身体を掴んだ時、あなたの顔がチラッと視界に映った。そして――」



 一瞬だけ間をおいて、彼女の顔を見る。

 彼女は、色の無い表情を浮かべたまま、『食い入るように』私の眼を見つめている。



 「――なんだか、『助けて』って言いそうな顔をしていたわ……、あなた……」



 不知火さんが、色の無い表情を浮かべたまま、

 下唇をギュっと噛み、少しだけ、こうべを垂れるように、俯いた。



 「……目の前で、救いを求めている人を見つけたら、フツウ、人は、『助けよう』と思うんじゃないかしら?」



 ……フゥッ。


 考えながら喋るという行為は、存外エネルギーを消費するものだ。

 私はひとしきり喋り終えると、短く小さく、息を吐いた。



 「……フフッ」



 不知火さんが、色の無い表情で、俯き加減で、こうべを垂れるように地面を見つめながら……


 短く小さく、笑みをこぼした。



 「――プっ……、アハ、アハハ……、あはははははははは……!」



 ――果たして、『爆笑』。

 彼女の『黄色い』笑い声が、無機質な空間で踊り狂う。



 ……不知火さん、何がそんなに面白いのかしら。


 私は、首を斜め四十五度にひねりながら、お腹を抱えて笑い続けている彼女をじぃーーっと見つめていた。



 ……そういえば、『鳥居先生』もなんだかよく笑っていたわ。『赤眼族』は笑い上戸の人が多いのかしら。きっとみんな、毎週『爆笑・ドレッドヘア・バトル』を楽しみにしているに違いないわ……。



 変に納得した私は、首を真正面にひねりなおして、彼女が笑い終わるのを行儀よく待つことにした。




 ――数分のち、ゼェゼェと呼吸を整えながら不知火さんが涙をぬぐっている。その顔は紅潮しており、なにか憑き物が落ちたような清々しささえ感じた。



 「……もう、『赤眼』を助けるなんて、『緑眼』失格だよ、如月さん……」



 イタズラした子供を優しく叱る母親のように、恋人の遅刻を楽しそうに咎める乙女のように、おっとりしたトーンで旋律される彼女の声が、私の心を撫でる。

 不知火さんは、「フゥ―ッ」と大きく息を吐き、ぐっ、と大きく伸びをしながら――



 「……なんか、もうどうでもよくなってきちゃった……」



 ――こぼすように、そんな事を言う。



 不知火さんが、パンパンっ、と、制服についた汚れを払い、擦り傷だらけになった腕を慈しむようにさする。



 「……安心して、如月さん」



 ――ニコッ、と、屈託の無い笑顔――



 「……水無月君の……、『あなた達』の前には、もう、現れないから……」



 言うなり彼女は、くるっと踵を返し、私に背を向け、よろよろと覚束ない足取りでその場から離れていく。何歩か歩みを進めた所で、ピタッ、とその足が止まり、こちらを一度だけ振り返り――



 「……ありがとう……、『サヨナラ』」



 ――寂しそうな笑顔を見せて、くるりと髪をたなびかせながら、再び前を向く。



 それ以後、彼女がこちらを振り向くことはなく、

 ザッ、ザッ、と、地面を踏みしめる力の無い足音だけが、

 無機質な空間に、ただ、響いた。

 



 夕焼けが、橙色に世界を照らす。

 私は、自分の胸の中で、眠ったように気を失っている水無月君の顔を眺めながら、


 ――遠慮がちに、彼の頭を少しだけ撫でてみた。



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