其の六十二 「走馬灯を見たことがある」という人が現れたら、足元に目を向けてみよう


 ――『情動』――


 ……という、言葉をご存じだろうか。


 『悲しい』と感じるから、泣くのではない。

 泣くから、『悲しくなる』のだ。

 『楽しい』と感じるから、笑うのではない。

 笑うから、『楽しくなる』のだ。



 ――身体反応……、『情動』を脳が受け取り、『感情』を生みだす――

 ……という、考え方。



 急に車が飛び出してきた時、

 「あ、このまま歩くとぶつかりそうだな、立ち止まろう」

 などと、いちいち考える人がいるのだろうか。



 一目惚れした時、

 「あ、この子は笑った時の頬のしわの寄り方が、どこか自分の母親と似ているから、見てて安心するんだな」

 などと、脳内で能書きを垂れる若者が居るだろうか。


 

 そう、思った『から』、そう、『する』のではない。

 そう、『した』後に、「ああ、――だったのかな」と、なんとなく感じるのである。




 ――目の前で、屋上から飛び降りようとしている女の子を見つけたら――




 あなたは、どうするだろうか。







 身体が、勝手に動いていた。


 足が前へ進んだ、

 両手が、もがく様に宙を掴もうとしていた。



 ――ガシャアアンッ!



 鈍い音と共に、

 僕は屋上の『手すり』に、胸をしたたか打ちつける。

 ――痛みを、感じる暇が無かった。


 胸を打ちつけると同時に、

 両手で『手すり』を、ぐわっと掴む。

 

 鉄棒で、前回りをするかのように、

 両腕を使って、勢いよく『全身』を持ち上げた。


 宙ぶらりんに身体を浮かせたまま、

 『手すり』に体重を預けたまま、

 

 僕は、手すりから手放した両手をいっぱいに伸ばし、

 舞い落ちる寸前の、『彼女』の片腕を掴む。



 『彼女』は、

 驚いたように、嬉しそうなように、哀しそうなように、怒ったように、


 ――眼を、丸くしていた。




 ……さて、人はどうやら『重力』には逆らえないらしい。

 

 『彼女』が『引力』によって『下へ』引っ張られるその力が、

 僕の体重によって、彼女を『上へ』押し戻そうとする力を、

 上回る。


 

 ――グリン、と、

 振り子のように、シーソーのように、『ししおどし』のように、


 手すりを起点とした僕の身体……、

 『上半身』が『下へ』傾き、

 『下半身』が『上へ』持ちあがる。


 そのまま、滑り台を流れる幼子の如く、


 僕の身体は、

 『彼女』の片腕をしっかり掴んだまま、

 『空』へ、放り出された。




 フワリと、どこか『落ち着かない』感覚が、僕の脳みそをサッと冷やす。



 ……あ、『地面』って、僕の事を、支えてくれていたんだな。



 拠り所を失った僕は、そんな当たり前のことに、今更になって気づいた。



 ――スローモーションになった景色を眺めながら、過去の記憶が走馬灯のように駆け巡る――



 ……なんて、フィクションの世界の話だ。

 『観る』者のために、『作り手』が人工的に用意した、

 都合の良い『演出』に過ぎない。


 現実は、一瞬だ。



 空中に放り出された僕は、

 ただ一心に、『彼女』の片腕を掴んでいた。


 そんなことをしても、結果は同じ、

 二人仲良く、地面に叩きつけられる『だけ』。


 文字通り、『わらにもすがる思い』で、

 『何があっても、この手だけは離すまい』と、

 ひたすらに、両手に力を込める――




 ――フッ、と

 腰のあたりに、感触を覚える。


 ……空中を舞い落ち、マトモな思考が働いていない僕にもわかる。



 僕の身体を、

 『誰か』の手が掴んだ。


 ……いや、抱え込んだと言ってもいい、

 空中で、僕の身体が少しだけぐぐっ、と持ち上げられる。



 『一瞬』のさなか、絶賛落下中の『僕の眼』に、

 映る風景――、



 僕と、『不知火さん』の身体を、

 両腕で抱え込んだ『如月 千草』が、

 『地上に背を向け』、自らの身体を使って、僕と不知火さんを『落下からかばうような体勢』のまま、


 ――細い眼で、フッと、遠慮がちに微笑んだ。




 ――はっ……?



 ……如月さん、何をやって――




 ――思考が、強制終了される。

 中断せざる得ないほどの、『外的要因』が僕を襲った。


 果たして、僕たち三人の身体は、

 校舎裏の駐車場にポツンと置かれていた、一台の白い『軽自動車の屋根』の上に、

 『衝突』する。



 ――バァァァァァァァァァァァンッッ!


 

 ――『轟音』。

 

 ぶつかった瞬間、ギュっと身を寄せ合っていた僕たち三人の身体が、バラバラに引きはがされた。

 僕の身体は、ビクンと、まな板の上で身体を躍らせる生魚みたいに、少しだけ跳ね上がり、そのまま、地面に放り出された――


 ……と、思う。



 正直な所、

 『如月さんの背中』が『緩衝材』になっていたのにも関わらず、

 僕の脳は、『高い所からの落下』というシンプルな衝撃に耐えられることが出来ず、



 あっさりと、気を失って……、



 しまっ……、



 …、




 ――――


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