其の六十二 「走馬灯を見たことがある」という人が現れたら、足元に目を向けてみよう
――『情動』――
……という、言葉をご存じだろうか。
『悲しい』と感じるから、泣くのではない。
泣くから、『悲しくなる』のだ。
『楽しい』と感じるから、笑うのではない。
笑うから、『楽しくなる』のだ。
――身体反応……、『情動』を脳が受け取り、『感情』を生みだす――
……という、考え方。
急に車が飛び出してきた時、
「あ、このまま歩くとぶつかりそうだな、立ち止まろう」
などと、いちいち考える人がいるのだろうか。
一目惚れした時、
「あ、この子は笑った時の頬のしわの寄り方が、どこか自分の母親と似ているから、見てて安心するんだな」
などと、脳内で能書きを垂れる若者が居るだろうか。
そう、思った『から』、そう、『する』のではない。
そう、『した』後に、「ああ、――だったのかな」と、なんとなく感じるのである。
――目の前で、屋上から飛び降りようとしている女の子を見つけたら――
あなたは、どうするだろうか。
※
身体が、勝手に動いていた。
足が前へ進んだ、
両手が、もがく様に宙を掴もうとしていた。
――ガシャアアンッ!
鈍い音と共に、
僕は屋上の『手すり』に、胸をしたたか打ちつける。
――痛みを、感じる暇が無かった。
胸を打ちつけると同時に、
両手で『手すり』を、ぐわっと掴む。
鉄棒で、前回りをするかのように、
両腕を使って、勢いよく『全身』を持ち上げた。
宙ぶらりんに身体を浮かせたまま、
『手すり』に体重を預けたまま、
僕は、手すりから手放した両手をいっぱいに伸ばし、
舞い落ちる寸前の、『彼女』の片腕を掴む。
『彼女』は、
驚いたように、嬉しそうなように、哀しそうなように、怒ったように、
――眼を、丸くしていた。
……さて、人はどうやら『重力』には逆らえないらしい。
『彼女』が『引力』によって『下へ』引っ張られるその力が、
僕の体重によって、彼女を『上へ』押し戻そうとする力を、
上回る。
――グリン、と、
振り子のように、シーソーのように、『ししおどし』のように、
手すりを起点とした僕の身体……、
『上半身』が『下へ』傾き、
『下半身』が『上へ』持ちあがる。
そのまま、滑り台を流れる幼子の如く、
僕の身体は、
『彼女』の片腕をしっかり掴んだまま、
『空』へ、放り出された。
フワリと、どこか『落ち着かない』感覚が、僕の脳みそをサッと冷やす。
……あ、『地面』って、僕の事を、支えてくれていたんだな。
拠り所を失った僕は、そんな当たり前のことに、今更になって気づいた。
――スローモーションになった景色を眺めながら、過去の記憶が走馬灯のように駆け巡る――
……なんて、フィクションの世界の話だ。
『観る』者のために、『作り手』が人工的に用意した、
都合の良い『演出』に過ぎない。
現実は、一瞬だ。
空中に放り出された僕は、
ただ一心に、『彼女』の片腕を掴んでいた。
そんなことをしても、結果は同じ、
二人仲良く、地面に叩きつけられる『だけ』。
文字通り、『わらにもすがる思い』で、
『何があっても、この手だけは離すまい』と、
ひたすらに、両手に力を込める――
――フッ、と
腰のあたりに、感触を覚える。
……空中を舞い落ち、マトモな思考が働いていない僕にもわかる。
僕の身体を、
『誰か』の手が掴んだ。
……いや、抱え込んだと言ってもいい、
空中で、僕の身体が少しだけぐぐっ、と持ち上げられる。
『一瞬』のさなか、絶賛落下中の『僕の眼』に、
映る風景――、
僕と、『不知火さん』の身体を、
両腕で抱え込んだ『如月 千草』が、
『地上に背を向け』、自らの身体を使って、僕と不知火さんを『落下からかばうような体勢』のまま、
――細い眼で、フッと、遠慮がちに微笑んだ。
――はっ……?
……如月さん、何をやって――
――思考が、強制終了される。
中断せざる得ないほどの、『外的要因』が僕を襲った。
果たして、僕たち三人の身体は、
校舎裏の駐車場にポツンと置かれていた、一台の白い『軽自動車の屋根』の上に、
『衝突』する。
――バァァァァァァァァァァァンッッ!
――『轟音』。
ぶつかった瞬間、ギュっと身を寄せ合っていた僕たち三人の身体が、バラバラに引きはがされた。
僕の身体は、ビクンと、まな板の上で身体を躍らせる生魚みたいに、少しだけ跳ね上がり、そのまま、地面に放り出された――
……と、思う。
正直な所、
『如月さんの背中』が『緩衝材』になっていたのにも関わらず、
僕の脳は、『高い所からの落下』というシンプルな衝撃に耐えられることが出来ず、
あっさりと、気を失って……、
しまっ……、
…、
――――
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