其の六十 『決着』
交通事故。
殺人事件。
火災、水害、大地震――
――いわゆる『凄惨な状況』ってやつを、その場に居るわけでもない人間が実感できることなんて、到底、無い。ニュースキャスターの無機質な音声によって、僕たちに伝達される『それら』は、ただの『情報』でしかないために、『そういう出来事があったのだ』と、記憶の片隅にインプットされる『だけ』。
でも、『それら』が『事実』として、確かに存在しているのだからこそ、
『情報』と化して、メディアに流れる。
つまり、『それら』が自分達の身の回りに――、例えば『目の前』で起こる事だって、充分にあり得るんだ。
普段、お気楽に、ノホホンとお茶をすすっているその『瞬間』、
地球の反対側で、銃で撃ち殺されている人がいる、っていう、『リアル』。
『リアル』は、なりをひそめて、人影の中に『狡猾』に潜り込み、
突然ガバッ、と、正体を現す。
ポカンと口を開けて茫然としてる僕たちを見ながら、表情の無い顔で、笑う。
――少なくとも、僕にとって、
目の前で、
……何度か惚れかけた事のある『彼女』が、
……放課後デートを楽しんだ事のある『彼女』の、
『首』を、絞め上げている『シーン』、ってのは、
それなりに、ショッキングな光景だった。
「……ぐっ、……がっ……!」
不知火さんの、声、無き、声が、痛々しく漏れ出る。
アニメ声のように可愛らしい響きは、そこには無い。
悲痛で、生々しくて、なりふり構わずあがくため『だけ』の、乾いたトーンが、僕の耳にねじ込まれた。
ブラリと宙に浮いている彼女の両足が、『生きよう』と、無様に悶えている。
ゴウゴウと、圧倒的な存在感で燃え盛っていた幾多の『火の玉』が、さっきまでの勢いがウソみたいに、しゅるしゅる萎んでいった。
……不知火さんの心の声に呼応するかのように、
……生命を失いそうな『線香花火』みたいに、
――果たして、火の玉が『消失する』。
どこか夢見心地だった橙色の風景は消え失せ、白く淀んだ現実が、世界に『返還』された。
「不知火さん」
凍ったように冷たい如月さんの声が、
だだっ広い、『何も無い』空間に、ポツン、と響く。
「……もう一度言うわ、私は、『同じ過ちは二度と繰り返さない』。……どんな手を使ってでも、水無月君は、私が守る」
――ギリギリギリギリギリギリギリ……
『彼女』が、『彼女』の、首を絞める音が、
……聞こえるはずもないのに、僕の両耳を、『蝕む』。
『恐怖』とか、
『絶望』とか、
『怒り』とか、
そういった類の感情は、
たぶん、とっくに色あせた。
僕の感情は、シンプルに、
――この世界と、『断絶』されていた。
「……不知火さん、『選びなさい』」
凍ったように冷たい如月さんの声が、
だだっ広い、『何も無い』空間に、ポツン、と響く。
不知火さんが、足掻くように動かしていた足の悶えが、
――何かを諦めたように、次第に力を失っていく。
「このまま死ぬか。『閉眼の札』で封印されるか――」
チラッ、と
『彼女』が、こっちを見た気がした。
救いを求めるように、
『とめて』と、叫び声を上げるように、
弱々しく、たどたどしく、
『善悪』の判断が未だついていない、子供のような眼で――
気づいたら、身体が勝手に動いていた。
無意識の内に、僕は腰を上げ、
無意識の内に、僕は足を動かし、
無意識の内に、僕は両手をいっぱいに広げ、
――しなだれかかるように、『如月さん』の身体を後ろから抱きしめた。
ドンッ、と全身に衝撃が走る。
人肌の温もりと、髪の毛の柔らかい匂いが、僕の五感を、一瞬だけ奪った。
「……もう、いいよ、如月さん」
呟くように、漏らす様に、
僕はボソッと、懇願するように嘆く。
「……もう、……やめなよ――」
――ドサッ……。
如月さんは、僕に抱きつかれた衝撃に対して、
身じろぎもせず、振り返る事もせず、
ただ、パっと、『その手を離した』。
不知火さんの身体が、力なく、ごく自然に、『放られる』。
ペタンと、両膝から地面に落下した彼女が、物凄い勢いでせき込み始めた。
「……ゲホッ! ゲホッ! ゲホッ――」
如月さんが、何も無い空間に向かって伸ばしていたその右手を、
壊れたからくり人形みたいに、だらりと、降ろす。
――能面のような無表情のまま、どこでもない場所を見つめながら。
僕は、如月さんの背中をギュっと強く抱きしめ続けていた。
耐えられなかった。
それ以外の行為を、脳が明確に拒否していた。
――そうしないと、自分の心が壊れてしまいそうな気がした。
……いや、ちょっと違うか。
僕『も』そうだけど、
何より、『そう』していないと、
彼女が……、如月さんが、壊れてしまいそうで――
そう考えたら、怖くて怖くて、仕方がなかった。
――やがて、不知火さんの荒い呼吸音が収まってゆく。
だだっ広い学校の屋上で、
ただ立っているだけの如月さんと、
彼女を抱きしめている僕と、
地面にへたり込む不知火さんを……、
音の無い空が、
白けたように見下ろしていた。
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