第3話 平坂かえで




『本当に好きな人とは、長くはいられないものだよ。』




別れの時にそう突き付けられたのは、もう何年前のことだろう。



あたしは寝台から体を起こし、大きく溜息を吐く。


2人目の私、否、あたしは高校を卒業する時に、当時の恋人と別れた。



あたしは、言ってみれば人気者だったと思う。


友達は多かったし、先生方とも上手くやれていた。

大好きだった彼と……拓己と付き合えたあの時が、多分もっとも輝いていた時間だろう。



今のあたしは、その頃の面影もない。


当然といえば、当然か。

明るく元気で、お手本のような女子高生と、暗く陰気な今のあたしは似ても似つかない。



今日も昼過ぎに起きたあたしは、アルバイトの時間が来るまで、こうしてディスプレイ越しの世界に浸る。


名前も無い人。

性別も無い人。


別居している家族は、その世界のことを現実とは言わない。



だが、あたしにとっては、これもまた現実の世界であり、居場所でもあった。



たくさんの人が行き交う掲示板。

それはまるでスクランブル交差点のようで、誰もが誰もを認識する。

しかし、そうして認識しながらも、滅多なことでは互いに干渉しない。



あたしはその真ん中に居座り、俯瞰する。



何を求めるでもなく、ただ眺め続ける。



時間という概念を忘れたままに、ひたすら。

ただ、自分が好きな世界で、自分の存在を確かめる。



拓己が存在しない実体のある世界は、あまりにも苦しい。


でも、あたしは皆が現実と呼ぶ世界も捨てきれない。



拓己がいるかもしれないから。

拓己が戻って来るかもしれないから。



あたしはどうも未練がましい女のようだ。



言葉に出して、はっきりと示すことはないけれど、別れるだなんて認めていない。


『すきな人とは長くいられない。』だなんて、そんなもので納得の行くはずもない。



……かっこ悪いな。



自嘲とも、自己嫌悪とも言い難い感情。

今日は、歩行者も少ないようだし、早々にブラウザを閉じた。


と、見計らっていたかのように、携帯電話に着信通知が入る。

見たことのない番号に少し戸惑うが、あたしのことだから、きっと登録するのを忘れているのだろう。


「…っも、もしもし」


電話越しにこうして喋るのは久しぶりだ。

少し突っかかりながらも、伺いを立てる。


着信の相手は、まるで覚悟を決めたように息を吐き、あたしの名前を呼ぶ。



「かえで?覚えてる?」



あたしの名前を呼び捨てで呼ぶ男性は、父を除いて1人しかいない。

懐かしくもあり、しかし以前とは違う声色に、時の流れの残酷さを思い知る。



「久しぶりだね、拓己。なんか、前とは雰囲気変わった?」


待ち侘びたといっても過言ではないこの瞬間に、あたしは喜びを隠せない。

一方、彼の方は少し疲れているのだろうか。

声には、以前のような張りはない。


拓己は挨拶もそこそこに、本題に入る。


「かえではさ、俺たちが別れた時、なんて言ったか覚えてるよな?」

「うん。『本当に好きな人とは、長くはいられないものだよ。』って。」



忘れる訳がない。

あたしにとって、その言葉は呪いにも近しいものだ。

受話器越しに彼の笑い声が聞こえる。


私は「なに?どうしたの?」と逆に問う。

「なんでもないよ。……相変わらずで、よかったなって思ったら、何故か笑えてきただけ。」


あたしは彼の笑顔と笑い声が、特にすきだ。

未だクスクスと漏らす拓己に、あたしまで笑顔になってしまう。


「ちょっと笑いすぎじゃない?……でも、よかった。元気そう。」

あたしの言葉に、拓己は「まあね」と相槌を打ち、続ける。



「卒業式から、今日でちょうど9年経つんだよな。しってた?」



……9年。そんなに時間が経っていたんだ……。


……もしかしたら、自分の年齢さえも忘れていたのかもしれない。


あたしはなんとも言えない感情のまま、「そんなに経つんだね」と同意した。


拓己はまた小さく笑うと、予想外なことを口にする。


「今からさ、デート……しない?」

「……え?」


まさしく、青天の霹靂。

反射的に声に出ていた。


『しまった』

内心、頭を抱えてしまう。

だが、拓己にとって、それは想定内だったようだ。





「まあ、当然の反応だよな。今日が難しいなら、明日でも、明後日でもいいんだけど、どう?」


考えるまでもない。

悩むこともなかった。

こうなることは予想外ではあったが、むしろあたしはこの時を待っていたのだから。



「いいよ。行こう。待ち合わせ場所は?」


二つ返事で了承するあたしを、拓己はどう思っているのだろうか。

それは決してわかりえないことだが、あたしは彼には気持ちを隠せない。


いくつかのやりとりを交わし、電話を終えた後、あたしはアルバイト先の店長に休みの連絡を入れる。


元々、大した業務ではない。

夫婦で切り盛りしている定食屋の手伝いみたいなものだ。


店長は快く受け入れてくれた。



あたしは急に決まったデートに浮かれていたと思う。



シャワーを浴びたあたしは、服選びに悩む。


洒落た格好とは無縁な9年間だったし、かといって、新調する時間もない。

悩むこと15分くらいだろうか。



……そういば、結局着れなかった服がいくつかある。丁度いい機会だし、これを着て行こう。



手に持ったのは、グレーのニットと、深い緑色のスカート。


体型はほとんど変わっていないため、サイズは問題なさそうだ。



それらを身につけたあたしは、軽く化粧をし、紺色のコートを片手に外に出る。



……私用で外出なんて、久しぶり。



新鮮な空気と、何年も変わらない地元の景色に感動を覚えながら、歩く。



自分でもわかるほどに楽しげに。

行き交う人の顔色も気にならない。



約束の場所は、家から10分もかからない場所にある、古い神社。

当時、学校の帰りに、よく話し込んでいた場所でもある。



国道から逸れ、小道を行く、

……もうすぐ、もうすぐ会えるんだ。


意識してしまうと、もう止めることは出来ない。

あたしは駆け出していた。

長い歳月を終わらせるために。

一刻も早く、拓己との時間を再開するために。

苦しい呼吸も、脈打つ心臓も無視して、走る。



鳥居が見えてきた。

その下には、誰もいないようだ。


でも、あたしは知っている。


あの鳥居の奥で、彼は境内の真ん中に佇んでいることを。



鳥居の数十メートル手前から、あたしは走るのをやめ、息を整える。


鳥居をくぐり、階段を上る。


一段ずつ、ゆっくりと。


本殿の屋根が見えてきた。

心臓が早鐘を打つ。


前を見ていられない。


足下に視線を落としてしまう。



最後の一段。

それを登りきると同時に、風が吹く。

向かい風だ。

と、懐かしい香りが、あたしの嗅覚に囁く。

『顔をあげてごらん。』と。



それに逆らうことはしない。

あたしはゆっくりと顔を上げ、視界の真ん中に、その人を捉えた。




「遅いよ。かえで。」




ああ、変わっていない。

少しくらい歳を取っても、その声を聞き間違えるはずがない。

あたしは彼を……拓己を見つめたまま、歩み寄る。


『遅いのはどっち?』と言ってやろう。



9年越しの再会だ。

文句の一つでも言ってやらなければ、気が済まない。

そう考えながら、歩み寄る。





ああ、なのにどうして。




どうしてあたしの頬は濡れているのだろう。

どうして声を出そうとしても、まともな言葉を紡げないのだろう。



ゆっくりと進めていた歩みは、彼にぶつかり、妨げられた。


拓己がどんな服を着ているのかも、どんな顔をしているのかも、あたしにはわからない。


抱きしめられた腕の感触と、服を隔ててもわかる鼓動だけが、彼の存在が現実であることを物語る。



風に揺られる木の葉たちの囁きが、優しく辺りを包み、桜の花びらが舞い落ちる様にゆっくりと流れる時間。


どれほどの時間が経ったのだろう。


ふと、拓己の腕の力が弱まり、彼はあたしを覗き込む。


彼も泣いていたのだろうか。

少しだけ震える声で、あたしに言葉をくれる。


「またせてごめんね。」


あたしが言う言葉は、もう決まっていた。故に、微笑みを浮かべながら問う。



「遅いのはどっち?」


彼もあたしも、今度こそ笑顔だった。

正しくは、泣き笑いであった。



風はいつのまにか過ぎ去り、あたしたちだけが、この境内に或る。


しかし、今日は9年越しのデートなのだ。

この懐かしい空間も決して嫌いなわけではないが--むしろ心安らぐすきな場所なのだが、あたしたちにはデートプランがある。



「行こうか、デート。」

そう言う拓己。

「うん、行こう。楽しませてね。」


あたしは彼の手を握り、彼はその大きな手であたしの手を包み込んで、境内を後にした。






二人の間で交わす会話は、流れた年月を感じさせず、滑らかで、慈愛に満ちていた様に思う。



今は何をしているのかだとか、何があっただとか、そんな他愛も無い話題。



話しながらも目と目が合って、また離れて、手を握る。



幾度となく繰り返すその行為。

拓己がどう思っているのかはわからないが、あたしは彼の存在を実感していた。


だからこそ、安堵することができた。



これは夢なんかではないのだ。


あたしはどこかフワフワとした気持ちで、拓己に付き従う。


地元ではなく、少し栄えたところに連れて行かれるようだ。

路線バスに乗り込み、座る。

もちろん、彼の隣があたしの指定席である。



公共交通機関なので、あまり話をするというわけではない。


しかし、拓己の手から伝わる温もりはあたしにとっては、言葉以上に心地よく胸に絡みつく。



車窓に次々と写る映像を眺めながら、あたしはただ手を握り、到着を待つ。

今のあたしにとって、時間という概念は、大した意味を持たない。


空の色が紅色に染まるように、あたしの心も色彩を帯びて行く。


……同じ待つって行為でも、こんなに違うんだなぁ。



ふと、あたしの中のあたしに気がつき、なんとなく笑ってしまった。


彼は不思議そうにあたしの瞳を見つめ、やがてその目を細めて手を離す。


「待ちくたびれたよね。ここで降りるよ。」



拓己の言葉に頷き、精算を済ませてバスを降りた。



日が落ち始めたこの季節は、冬の日を惜しんでいるのか、容赦なく冷え込む。


手だけでは心許無く、彼の腕にしがみついた。



当時は、冷やかされるのが嫌で、手を繋ぐしか出来なかったのに、今ではこうして、より近くに彼を感じられる。



あたしは気分の高揚を隠しきれず、何度も彼の肩に頭を擦り付けてしまった。


もちろん、彼もそれをとがめはしない。


どうやら下調べをしていたらしく、拓己はあたしをぶら下げたまま、迷うことなく目的地へと歩く。



そのお店は、バス停からそう遠くない所にあった。


看板には「喫茶ノ出雲」とある。


木製の扉は年季が入っているようで、随分昔から営業していることが見てとれた。


拓己は扉を開け、わざとらしい振る舞いで、あたしに入店を促す。



一歩踏み入れたそのお店は、想像していたよりもずっと小さく、お客さんも多くない。



ウエイターらしき人は男女1人ずつの2人。

片方の男性があたしたちを案内してくれるようだ。

出迎えの挨拶の後、先導してくれる。


用意された席は、窓際で、外の眺めがよく見えそうだ。



あたしは引かれた椅子に腰掛け、拓己は、当然ながら正面にすわる。


先刻まで隣り合っていた癖に、小さなテーブルを挟んで向かいにいる拓己を、照れ臭くて、直視できない。



いざ目を合わせようとすると、どうしても顔が綻んでしまう。


彼は前のめりになり、あたしに向かって「挙動不審になってるよ。」と言い、微笑む。



そうなるに決まっている、そもそも外食自体が久しぶりなのだ。

ただでさえそんな状況なのに、目の前には、ずっと想ってきた人がいる。

挙動不審にならない方がおかしい。



彼はそれを理解しているのだろうか。



笑っているような、怒っているような顔色のあたしに、笑顔を浮かべたまま「ごめん、ごめん」と謝る。



……正直、姿勢を戻してくれて助かった。

きっとあたしが恥ずかしがっているのがバレてしまう。



内心胸を撫で下ろし、未だあたしから視線は外さない拓己を他所に、メニューを開いた。



1ページ目から並ぶ数々の料理名の横には写真が掲載されており、迷う。


ランチやディナーと言う類のものは記されておらず、どれを頼んでも対応してもらえるようだ。



一方の拓己はというと、あたしが迷うのを他所に、早々に決めてしまった様だ。


……もしかしたら、ここに来たことあるのかな?



ここのお店はメニューが豊富すぎる。

そんなに簡単に決められるとは、到底思えない。

多分、初めて来たわけではないのだろう。


いくつかに絞ることは出来たものの、一人では決めきれないのもあり、あたしは彼に「おすすめ、教えてよ。」とねだる。


「え?おすすめ……?おすすめか……。」

唐突な要求にほんの少しだけ考える拓己。


言葉が足りなかったかもしれない。あたしは一言付け足す。

「あたしが好きそうなのでもいいよ。」




「……んー、そうだなぁ。かえでなら、多分オムライスが気にいると思う。」

何秒かの黙考の後に、彼から出された答え。


少し子どもじみているが、なるほど、確かに今のあたしは子供の様に無邪気だといえる。



あたしが「そうだね。いいかも。オムライスにする。」と同意すると、拓己は呼び鈴を鳴らして注文をしてくれた。




待ち時間は、さほど長くはなかった。

ほんの少しの昔話をしていたうちに、二人分の食事が出揃った。




あたしも拓己も、話すのは楽しかったと思うし、あたしの緊張もほぐれたと思う。



そういう心の変化もあってか、二人とも目の前に並んだ品に夢中になってしまう。


「おいしいね。」などと交わしながら、存分に楽しむ。




口に運び、のみこみ、笑い合う。




その時間はとても幸せなもので、あたしはきっと、何年たってもこのことを忘れられないだろう。






やがて食器は空になり、テーブルの上には、後から頼んだコーヒーと紅茶が残るだけとなった。


幸せな時間も、やがて終わりなのだろう。


あたしは淋しいような、虚しいような気持ちに浸る。


拓己も、心做しか残念そうな表情だ。



手元の紅茶は、まだ暖かい。

それで唇を湿らせ、あたしが口を開く。



「今日は、本当に楽しかった。誘ってくれてありがとう。……また誘ってくれる?」



彼は、はにかみ「もちろん」と言ってくれた。


あたしは拓己とのこれからを約束できたことで安堵する。



しかし、彼の表情は未だに明るいとは言い難い。

自惚れる訳ではないが、あたしと、もう少しでも一緒にいたいと思ってくれているのだろうか。


あたしは彼の手に触れ「あたしはどこにも行かないから、大丈夫。」と贈る。


「そうか、そうだよな。うん……そうだよな。」


不安を拭い去るように、且つ、覚悟を決めるかの様に呟く拓己。


あたしは、彼の手を撫で続ける。

彼もまた、何度も頷く。



内容まではわからなくても、拓己が何かを言いたいのは、理解できた。



それを察知して尚、あたしは待つ。

この9年間に比べれば、目の前にいる人の言葉を待つことなど、容易い。




一時的なものかもしれないが、穏やかな空気の店内に、残されたお客はあたし達だけになったようだ。



そして、それを見計らっていたかのように、拓己は言葉を紡ぎ出す。



「9年間でさ、色々変わっていったよな。」

あたしは何も言わず、頷く。


「社会人になって、働き始めて、いってみれば洗礼みたいなのも受けてさ。」


「辛かったり、苦しかったり、でも仕事の楽しさをみつけたり。」


拓己の手は、彼自身の感情を表わしているかのごとく、震える。


「俺、今でもあの言葉は覚えてるよ。本当に好きな人とは長くはいられない。」


……あぁ、辛いなぁ。


「長くいればいるほど、傷つけてしまうから。いてはいけない。」


……拓己は、きっと良くないことを言うんだろうなぁ。


「でも、その人を忘れることは出来なくて、色々なことをした。その人を見つけ出したくて、色々な場所を彷徨ったよ。」


……あぁ。


「何をすれば目の前に現れてくれるのか。どこに行けばまた巡り会えるのか。」


……あぁ。


「電話一本で済むのに、俺はそれを出来なかったんだよな。拒絶されるのが怖くて。」


……同じだ。


「見知らぬ人に干渉して、それで色んな揉め事も起こしながらさ。」


……ただ一つを除き。


「沢山の人と、自分を傷つけ続けて、一つの答えみたいなのが、見つかったよ。」


……そっか。


「誰にも邪魔されず、好き合いながら、永遠に共にいられる方法。」


……だからあなたは、見つけられたんだね。




『一緒に、死のう。』



彼は、それを伝えたかったのだ。

彼が彼なりの方法で見つけ出した解決策。


本当に好きな人と、長くいる方法を。




あたしが出来なかったことを、やろうとすら思わなかったことをも実践して、見つけ出したのだ。



自暴自棄とも思える行動の根底には、あたしへの想いが隠されていたのだと、気づいたのだろう。



拓己が見出した活路。

好いた人を、最期まで好きなままでいられる手段。


続けることで、薄れてしまうなら。



いっそ、その最盛期で終わらせて仕舞えばいい。



納得の理由だ。

幸福の中で逝くことができたら、それは幸福に違いない。


9年。9年だ。

9年もの時間を、あたしとの幸福のために使ってくれたんだ。



沢山の人を利用して、良心をボロボロにしながらも。


あたしのことを想い続けてくれていたんだ。



ならば、あたしは何も迷うことはない。


彼の手をしっかりと握り、瞳を見据えて答えよう。



「一緒に、幸せになろうね。」



今日はよく泣く日だ。

何の涙かはわからないけれど、あたしはまた泣いている。


彼もまた、静かに泣いている。



あたし達は、失った時間を取り戻すに留まらず、この先の人生全てを濃縮させて、死ぬ。



なら、残った時間は、幸福になるために使うべきだ。


あたしは零れた涙を拭い、立ち上がる。



「行こう。デート、まだ続くんだから。」


拓己はあたしに賛同し、立ち上がった。



飲み物も飲みきっていないけど、仕方がない。


食事代を払い終え、レシートも受け取らずに、外へ出る。



……バスを待つ時間も惜しい。

あたしの提案で、タクシーを拾った。



1秒でも早く、互いの汚点が見えてこない内に。

あたし達は、急がなくてはならない。


一生分の幸せだけを抽出するために。







世間から見れば、親族が亡くなったとでも思われたのだろうか。



捕まえたタクシードライバーの男性は、抜け道を駆使しながら、拓己の家まで送り届けてくれた。



あたしも拓己も、手をつなぎ、無言のまま、玄関の戸を抜ける。



靴を脱ぎ、廊下と部屋を隔てたドアを開け、部屋に入る。


ベッドと、いくつかの食器類しかない、殺風景な部屋だ。


だが、それで構わない。


彼と向き直り、視線が交錯した刹那、あたしはベッドに押し倒される。

あるいは、あたしが抱き寄せていたのかもしれない。



マットレスに体が沈み、間髪入れずに唇を塞がれてしまう。

それによって、あたしの逃げ場は失われる。


否、もとより逃げ場など探していなかった。

彼に窒息させられるなら、それで構わないとすら感じる。



故にあたしは、拓己を受け入れる以外の選択を持たない。

持つ必要もない。


あたしの口内で、必死にあたしを貪る彼の舌を、『大丈夫だよ。ここにいるよ。』と言わんばかりに、優しく絡めとる。


彼はそれに気がつき、しかし侵攻を止めることはない。


甘く、暖かな唾液があたしの味覚を通して、本能を犯す。


五感が麻痺しているのか、それとも研ぎ澄まされていくのか、あるいはただの錯覚か。



彼の髪の香りがあたしを愛で、彼の唇の感触が、あたしを刺激する。


粘膜を介して伝わる唾液の味は、甘く全身に広がり、暗い視界の中で、彼の苦しそうで、しかし、どこか艶を帯びた吐息だけが、あたしの耳を撫でていく。


人として持ち得る感覚全てが、拓己で染め上げられた。





彼もまた、同じように感じてくれているのだろうか。

あたしで、彼を染め上げられているのだろうか。


あたしは思わず拓己を抱き締める。


彼がどこにも行かないように、彼がもっとあたしを感じられるように。


拓己は、そんな意思を汲み取ったかのように、あたしの首元に舌を這わせる。



昔、何かの記事で読んだことがあった。


首元へのキスは、執着の証。



思い出した途端、あたしは意識とは無関係に歓喜する。


その様子に、彼は味を占めたのかもしれない。



鎖骨の上から、喉の半ば辺りまで、何度も何度も貪られる。


その度に、あたしは文字通り、悦びに震えることしか出来ない。



堪えようとしても、そんな意思は容易く崩れ、音となって吐き出される。

彼に触れられるたびに音を奏でるその様は、楽器だ。


あたしは彼の意のままに操られているのだ。



触れる場所が変われば、音も変わる。



彼の指が、舌が、あたしを鳴らす。

あたし自身もまた、拓己が望む通りに、しかし自然と音を奏で出す。



演奏、と言ってしまうのは不謹慎だろうか。


合作、と言うのも趣がない。



どう表現するのが正しいのか、あたしには到底考えつかない。


ただただ与えられる感覚に、悦楽を見出す。


そして、あたしは旋律を紡ぐ。



拓己と共に、より近く。

あるいは、より深く。


互いに互いを呑み込む様に。

繋がる。




瞬間、ほんの少しの痛みを伴い、あたしの躰は浮遊した。



否。本当に浮いているわけではない。



ただ、そう錯覚してしまうような感覚。それがあたしの奥の奥まで反響する。




恐怖感と、高揚感。

それも、底なしの。



果てなく続くその感覚の拷問に、あたしはもがき、泣き叫ぶ。

拓己にしがみつき、あるいは背中に爪を立てて。


喉が灼けることなど構わずに。

彼の思いを延々と受け止める。



何度も、何度も。

遠のく意識を必死で繋ぎ止めたまま、あたしは彼に抱かれ続けた。









一体どれだけの時間が経ったのだろう。

何年も経ったのか、一瞬だったのか、自分たちの感覚は一切頼りにならない。




窓から差し込む太陽の光が、朝の訪れを報せる。

一晩か、それ以上か。


あたしにとって、そして拓己にとっても、日付なんて、もうどうでもいい事だ。



彼はあたしを腕に抱き、あたしは彼の胸に顔を埋める。


余計な言葉は、意味を成さない。



だから、あたしから伝える言葉は一つ。



「ありがとう。幸せに、なれたよ。」




もう、涙を流すことはない。

あたしはちゃんと幸せだから。

その幸せの最期に、愛した人に終止符を打って貰えるのなら、泣く必要など、ない。



拓己は全てを理解したのだろう。

立ち上がり、台所に向かったかと思えば、包丁を持って戻ってくる。



そうして、あたしに馬乗りになる。


「……かえで。」

「なぁに?」

優しく名を呼ぶ彼に、あたしは応える。


「キス……しようか。」

「……うん。」


改めて言われてしまうと、恥ずかしい。

しかし、不思議と嫌な感じはしないものだ。



あたしの首に触れる、冷たい刃の鋭さも、拓己の体のぬくもりも。


どれもこれもが、幸せの証。



……まるで、結婚式みたい。



その時を間際に、そう思う。

心の準備など関係なく、彼の--拓己の唇が、迫る。



あたしは拓己を抱き寄せる。

決して離れないように。

あたしを幸せにすることを約束させるように。



ほんの数瞬、本当に僅かな時間を置いて、唇が触れ合う。


喉元の刃も、キスに応じるが如く、あたしを切り裂く。



少しだけ、息苦しい。しかし無理もない。

口づけは、いつだってほんの少しだけ苦しいものだ。



もう、彼を抱きしめている感覚はない。

ただ、おそらくは彼に妨げられた呼吸が、彼の存在を教えてくれる。



あたしはきっと、拓己と交わったまま、逝けたのだ。



彼が見えなくても、感じられなくても、 問題はない。



拓己は約束を守ってくれるから。



永劫の幸福を約束したから。



あたしは黄泉比良坂で彼を待つ。



ほんの少しだけ、一人になるけれど、拓己は必ず来てくれる。


だから、待っていられる。





生と死の狭間。



そこに咲く紅い華の真ん中で、あたしは彼を待ち続けよう。



約束した二人の幸せを。

共に黄泉へと歩むその誓いを。



この胸に抱いた、そのままで。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る