第2話 藤宮あやめ

私の始まりの記憶はこうだ。


私は藤宮あやめという22歳の大学生だった。


幼い頃に両親を交通事故で失ったた彼女は、里親に引き取られた。



家庭環境はいいものではなかった。

しかし、特異な出自であるのは確かだが、それでいじめを受けたりしたことはない。




それに、自慢ではないが(そもそも私ではない私なので自慢とも言えないが)、友人には恵まれている。

物事をはっきりと言う人や、しっかりと考えて発言する人。

たくさんの人と親しむことが出来る人。


私自身、一度も髪の毛を染めたこともないくらい、真面目な人間だ。

叱られた記憶だってない。

それに、所謂『悪友』という間柄はもっておらず、いい関係をつくってきたと自負している。


だけど、そのような生き方をしてきたからこそ。

または、恵まれているからこそ、ある友人の一言に、私の人生は大きな変化をもたらされることとなった。




「あやめってさ、なんか、不屈って言うよりも、もう折れてるよね。」


昼食の最中、私を前に堂々とそう言い放ったのは、高校の頃からの友人で、親友と呼べる存在の1人、和希だ。


彼女は歯に衣着せぬ物言いで、私の批判をする。


今までに言われたことのない言葉に「どうしてそう感じるの?」と返す。


和希は自分のランチプレートに夢中で、わたしに一瞥もくれない。

多分、彼女自身にも説明のつかない、謂わば直感というものなのだろう。


彼女はそういう人だ。

変わっている、という表現が的確に当てはまっている人物だと思う。



なんの脈絡もないし、きっと深い意味はない。


別段私に伝えようという気持ちも、おそらくは、ない。


自らを納得させ、食事を終える。

私は一言「先行くね」とだけ告げ、席を外した。



今日は午後の講義は休講のため、家に帰ることにする。

先刻の彼女の発言は、意図はどうあれ、私の意識に刻まれていたようだ。


電車に揺られながら、私は1人、思考する。


『不屈』

それはある事柄に対して、諦めない姿勢を意味するものだろう。


『折れている』

この場合の折れているとは、つまり諦めているということだ。


では、何を?

一体何を諦めているのだろう。




……夢?それはありえない。

私は普通に憧れ、普通を追い求めている。



……では、恋人?

確かに恋人はいないが、諦めているわけではない。



……名声、誉れ、そういった類のもの?

私はそれは望んでいない。


折れているということは、望んでいることを実現できないとしていることだ。


私にはどれも当てはまらない。



さまざまな形の自問自答を繰り返せど、答えらしきものは見つからず、何度かの可能性の後、くだらないことに気がつく。





……この電車と、少し似ているかも。



時刻通りに運行するところは、私の考え込む性格のように真面目であり、規則的に同じ道程を行く様子は、現状の堂々巡りを表しているようだ。



……この電車みたいに、どこかに止まれたらいいのに。



心の中でそう自嘲し、私は電車を降りる。



……あぁ、似ているけどこれだけは違うかな。

私が電車だったとしても、私の中に答えが降りてくることはないもの。


小さくため息を漏らし、改札から出て空を見上げる。

私の心中は穏やかなものではないのに、頭上からバカにされている様な気持ちになる。



家に帰るには勿体ない様な気持ちもあるけれど、帰ってからも、することがあるのだ。



私は歩きながら、この後の予定を立てる。


……部屋は散らかっているだろうから、まずは簡単に片付けよう。

洗濯物も回した方がいい。この時間なら、お隣さんから怒られることもない筈。



料理もしておけば、2人とも喜んでくれるかもしれない。

あの人たちにとっては、夕方が早朝だ。

朝からいい思いをするか、嫌な思いをするかで、その日のモチベーションは大きく変わるに違いない。


いくつ目かの信号を渡り、家の--アパートのドアを開ける。



相変わらず、きたない。


脱ぎ捨てられた衣服達が、たばことアルコール、香水と少しの体臭を以って歓迎してくれる。


私としては、嬉しくない。

生活臭と、仕事のにおいが混ざった様で、嫌悪感を覚えてしまうのだ。



当初の予定通り、溜まった洗濯物をかき集め、洗濯機へ投げ込む。


幸い、2人は料理は殆どしない。

おかげで、生ゴミだとか食べ残しだとか、そういうものはない。


……これなら少しは楽、かな。



私は計画が滞りなく進みそうなことに安堵し、洗濯機のスイッチを入れる。


水が混ざり、服が回転をはじめるのを見届けてから、上蓋を閉めた。



掃除の必要がなくなったので、私は少しだけ時間を持て余す。


衣類を片付けた部屋は、なんとも殺風景で、どこか悲哀に満ちているようだ。


……辛気臭い


私はこの気持ちを解消するために、コーヒーを淹れる。


インスタントだが、大事なのは質ではなく、心の持ちようだ。


適当に座りコーヒーを啜る。

味は--にがい。


と、息をついている最中、襖の向こう側から物音がする。

裸足の足が畳を踏む独特の音がするところから察するに、どちらかを起こしてしまったようだ。



「おはよう……。」

戸を開け、絡まりがちな茶髪を心底面倒くさそうに梳かしながらそう告げる女性は、育ての母である。

私も「おはよう」と返し、もう一つカップを差し出した。


養母はひとこと「ありがと」と労い、先程までの私の行動をなぞる。


「今日は、ブラックなんだね。」

私は生粋のブラック派だが、この人は気分によって変わる。

彼女はどこか疲れた顔を綻ばせながら、言う。

「あんたと同じものを飲みたい気分なのよ。」


内心、動揺した。

考え事をしていたのがバレたのかもしれない。

この人たちに、あまり心配をかけたくない。

赤の他人である私を、ここまで育ててくれただけで有難いのに、これ以上は強欲というものだ。


「何か悩み?」

核心を突かれた。

人生経験の重みを感じる。

私は「なんでもない」そう切り返そうとしていた。


しかし養母は「まって、当ててみる。」と私を制す。



「その雰囲気だと……。そうね、大方、友達に何か言われたんでしょう?」

驚きに目を見張るとはこういうことだろう。

養母は私の驚く表情を見て、得意げな顔だ。

続け様に「そしてそれはあたし達2人が関係する。」と重ねた。


「半分、正解。」

「半分?」

少し不満気に聞き返す彼女に、笑いながら答える。

「おかあさんたちは関係してないから、それは安心してよ。」


養母はそれを聞くと、カップの中のコーヒーに視線を落とした。

その表情を見ているだけで、私は胸を灼かれるような悲しみに暮れる。


そんな私に気がついてか否か、養母の視線が私に変わる。

「あたしさ、ロクな仕事してないじゃない?ハゲ散らかしたオッサンとか、背中が自由帳みたいな兄さんとか。そんなのばっか相手にしてるからさ……負い目、感じてるのよ。」


……そんなことはない。

私は出かけた言葉を呑み込む。

これは、この人なりの励まし方なのだ。


家庭『環境』はたしかによくないけれど、家族まで良くないわけではない。


養母は「まあ、私は親って柄じゃないけど、あんたに出来る限りのことをしてあげたいってだけよ。」


……もう、充分なんだけどな。


親の期待が重いと思ったことがある人はきっと多いはずだ。

私はこの人たちに大きな借りがある。

しかし、また同時に善意を無碍にすることも出来ない。


絞り出すように「ありがとう」と言えた私の頭を撫で、養母は台所に立つ。


「今日は、あたしがつくってあげる。」


こちらを振り向かずに言う彼女の背中は、どこか懐かしく、儚い。


……お母さんも、こんな感じだったのかな。


幼さ故に、顔も朧げにしか思い出せない実の両親。

だけど、なんとなく……本当になんとなくだが、こんな風景を見たことがある気がする。




あるいは錯覚か。

あるいは妄想か。

思い出を美化してしまうのは、人間の悪癖だと思う。



きっと、私自身、母親という存在に執着してしまっているのだ。


理想、とは敢えて言いまい。



それは羨望。

羨み、こうなりたいと望む感情。


食べ物を切る、少し不規則な音は鼓膜を。

お米が炊けるあの独特な香りと、肉や野菜に火を通す優しい香りが鼻腔を。

なにより、目の前で一心に料理をする姿に、網膜を。


触覚と味覚を覗いた私の感覚が、今こうして広がる世界を羨み、そして妬む。


私が感じることの出来なかった、この時間が、どうしても妬ましい。

私はずっと我慢していたのに、私はずっと耐えていたのに。


当たり前は求めてはいけないと、無意識に封じ込めてきた感情が、溢れ出す。


「ねえ、おかあさん」

「ん、なあに?」


言いたくなかった、一つの言葉。


「私にはどうしてお母さんがいないの?」


それを、解き放つ。








長い長い空白の時間。

互いに互いの瞳を見つめ合う。


ショックを受け止めきれず、悲しそうな眼。

傷つけた自分自身に失望し、諦観の色を浮かべるもう一つの眼。


そこには、言葉にならない言葉がうまれているのだろうか。


私が思っていることは、うまく伝わっていくのだろうか。


2人の間に流れる時間は、一瞬とも、永遠ともとれるほど曖昧で、静かに過ぎ去る。


その静寂を切り裂いたのは、私でも、彼女でもなかった。



「おまえがウチに来たのは、19年前だったよ。」


声の方向を見遣る。

私より遥かに大きく、しかし私よりも遥かに痩せた男。

私を引き取ろうと言い出してくれた張本人。

即ち、養父だ。




「19年前、おまえの産みの親の死因、知ってるか?」




何を当たり前のことを聞くのだろう。

当然だ。「事故死」だ。

少しトゲが立ってしまったかもしれないが、そう応える。



「ああ、そうだよ。事故死だ。正確には、事故による失血でのショック死。なんだけどな。」

「それが、どうしたの?」


今更、なにをわかりきったことを言うのだろうか。

彼は養母に頷きかけ、私の方を向き直る。そして、告げる。



「その事故の相手が……俺なんだよ。」




思考が、追いつかなかった。

時が止まったような感覚ではなく、私だけが取り残されて、置き去りにされるような、得体の知れない恐怖。



なにを言っているのか、わからないわけではない。

ただ、追いつかない。


……お父さんとお母さんを殺した人が、この人。

……そして私を育ててくれたのも、この人。




「どうして、何も教えてくれなかったの……?」



混乱する頭を整理しながら、縋るように問いかける。



彼らも、知っている。

これは幼児の駄々っ子と変わらない。


言ったところで納得し得ないし、なにも変わらないのは、わかりきっていることだ。


けれど、彼の言葉を私は受け止めきれなかった。


だから、そう問いかけることしか出来なかった。



答えだって、わかっている。

2人は優しい人間だから、わかっている。


それはきっと……。






「『お前を傷つけたくなかったから。』だ。」






……嗚呼、やっぱりそうだ。それ以外にありえないんだ。



いつの間にか、養母が肩を抱いていてくれた。


内側へ、内側へと集中していたからだろう。

体が震えていることに気がつく。

……否、泣いていた。


『私』は無意識に涙を零している。

受け止めきれない事実に、心が耐えられなくなったのだと思う。


義理があるからと、求めていた普遍的な生活。謂わば、夢。



それが、根本から崩れていく。

私は、私の義理を果たしていこうと思っていたつもりだった。

恩返しをしなくてはいけないと、そう思っていた。



でも、それは間違いである。と。


今にして思えば、確かにおかしな節はあった。

いくら真面目な私でも、19年で1度も叱られることがないなんて、あり得るはずもない。


なぜ叱られなかったか。なぜ、同情もされなかったのか。


だんだんと理解が追い付く。



『罪滅ぼし』



私に同情し、私を育て上げることで、私のお母さんとお父さんへの手向けとした。


つまり私は、結果的にこの人たちに報いることになっても、この人たちは、私じゃなくてもいいのだ。



私でなくとも、両親が許してくれると錯覚できれば、なんだってよかったのだ。


なら、私ががんばってきたことは、水泡に帰す。


亡くなった人は戻らないから、今いる人のために生きようと思っていたのに。



私は、いない人のために、生かされてきたのだ。



「そっか……」


……なら、私はやっぱり根本から折れて居たんだね。



どれだけ好意的に捉えようとしても、かなわない。

悲観的だと言われても、これが、私の感じたこと。




私は、養母に母親を見出してしまった。養母を母として見ようと思ってしまった。


その時点で、もう取り返しがつかない。



そして、私が想定していた答え。

……いや、私が望んでいた答えはそこにはなかった。


養母は母ではなく、養父もまた父にはなりえない。



……聞かなければよかった。



声に出ていたかどうかは、わからない。


でも、もうどうでもいいことだ。


私は玄関に向かう。

心配はかけてはいけないから「少し頭を冷やしてくる。」と告げる。



養父と養母は、私を止めはしない。



いつのまにか、青空は泣き腫らした目を連想させるような赤色に染まり変わっている。


なんてことはない、ただの散歩。

私は歩きはじめる。

胸の痛みなど、ものともせず。


……全てを知った今だから、まずは、おかあさんに会いに行こう。



どこまでもどこまでも大きく、視界いっぱいに広がる空と、その決意を、私は決して忘れないだろう。




『私』はこうして、1度目の死を迎えた。

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