第7話 まるで幽霊を見ているみたいだった。

 7


 僕と佐伯さんは、電車に乗って揺られていた。

 隣同士に並んだ僕たちの肩は触れあっていて、そのことで僕はものすごく緊張をしていた。女の子と二人で出かけるなんてはじめてのことだし、それも電車に乗って遠くに行くなんて、なんだか大人のデートみたいだと思ってしまったからだ。


 だけど、僕たちはデートで電車に乗っているわけじゃない。

 佐伯さんの提案に従って、僕の頭の中の女の子を思い出すために――僕たちは僕が前に住んでいた街に、そして僕が半年間だけ通っていた中学校に向かっている。

 

 僕の頭の中の女の子をめぐる冒険の、最後の地へと。


「いい? 消去したはずの記憶を思い出すには、大きく分けて二つの方法があると言われているの。まず一つ目は――消去した記憶の話を聞くこと。より正確で、より詳細に聞くほど、記憶が蘇る可能性は高くなる」

 

 区の図書館で、僕が記憶を取り戻すための提案をしてくれた時、佐伯さんはまずそう言って話をはじめた。


「二つ目が――消去した記憶の追体験ついたいけんを行うこと」

「追体験?」

「ええ。これはつまり、消去された記憶と同じような行動をとることで、行動や経験と一緒に脳に刻まれた記憶が蘇るという現象なの。追体験によって蘇る記憶は、一般的にはエピソード記憶といわれるもので――その記憶には、時間や場所、そのときの感情が含まれる。つまり、ただ消された記憶の話を聞くよりも、より鮮明で、より感情に基づいた記憶が蘇ると言われているわ。その分、精神にかかる負担も大きいけれど」

 

 確かに、無理やりに記憶を呼び覚ますだけじゃなく、その時の感情まで呼び覚ますというのは、いろいろ負担が大きそうだった。


 記憶や感情の大きな波に飲み込まれて、どこか遠くに連れていかれてしまうような、二度と戻ってこられなくなってしまうような、そんな気さえした。


「私の提案というのは、この二つ目。エピソード記憶を蘇らせるというものよ。あなたの通っていた街を歩いてみたり、通っていた中学校に行ってみて、消去した記憶を無理やりに呼び覚ますの。もしかしたら、それであなたの頭の中の女の子のことを思い出すことができるかもしれない。どう? やってみる価値はあると思うけど、危険もあるわよ?」

 

 佐伯さんは最後の警告って感じで、危険という言葉を強調して尋ねた。


「やるよ。それが危険な方法だとしても、僕は僕の頭の中の女の子と再会したいし、そうしなくちゃいけないような気がしてるんだ」

 

 僕は、僕の頭の中の女の子の言葉に導かれるように、佐伯さんの提案に乗った。

 この冒険が終わった後、僕は今の僕のままではいられない――そんな予感がしていたけれど、そんな予感はどうでもよかった。

 

 それから僕たちは一週間ほど時間をかけて、入念に冒険の手はずを整えた。出発時間を決めて電車の時刻表を調べ、僕の暮らしていた街と通っていた中学校までのルートを決めて、地図と何度も睨めっこをした。

 

 その他、いくつかのルールも決めた。

 当日は『iリンク』を置いていくこと。クレジット決済から僕たちの行動がバレないように、現金を使用して行動すること。荷物は少なめにする。遠出をすると気が付かれないようにするため。出発日まで怪しまれないようにおとなしくしていること。などなど。

 

 そして、僕たちは冒険に出た。

 電車に乗って。


「はい、お茶」

 

 しばらく黙ったまま電車で揺られていると、佐伯さんが小さなリュックサックから水筒を取り出して、暖かいお茶を注いでくれた。


「ありがとう」

 

 僕は、そのお茶を少しだけ飲んだ。喉の奥を暖かい液体が通り抜けて、ふうと息をついた時、僕は自分が思っている以上に緊張していたことに気が付いた。体は石みたいに強張っていて、今は冬だというのにぐっしょりと汗をかいている。心臓の鼓動も、徒競走を全力で駆け抜けた後みたいに早かった。


「大丈夫? 顔色悪いけど」

「うん。多分大丈夫だと思うけど、少し緊張しているみたいだ」

「今なら引き返せるよ?」

「ありがとう。でも引き返さない。引き返せないんだ」

「わかった」

 

 そう言うと、佐伯さんは口を閉じた。

 僕は佐伯さんに心から感謝をしていた。こんな僕にこんなにも優しくしてくれる女の子は、生まれてはじめてな気がした。


「佐伯さんは、どうしてここまで僕に協力してくれるの?」

 

 僕は、思わずそう尋ねてしまった。

 すると佐伯さんは少し驚いたような顔をした後、首を傾げた。


「あなた、私のことに興味あったんだ? あなたの頭の中の女の子にしか興味ないのかと思ってた」

 

 佐伯さんは、意地の悪い顔でそう言った。その表情は、どこか嬉しそうだった。


「そんなわけないよ。僕は、佐伯さんに興味があるよ。佐伯さんがどんな女の子か知りたいと思っている。僕の頭の中の女の子のことを知りたいのとの同じくらい」

「そうなの? じゃあ、少しだけ話してあげてもいいけど」

 

 そう言うと、佐伯さんは流れる車窓を眺めながら話をはじめた。


「私はね、『記憶消去』の技術をとても素晴らしいものだと思っているの。この技術にとても感謝をしているし、『記憶消去』によって救われている人たちが大勢いると思っている。自分に起きた嫌なことに立ち向かうべきだ、不幸と向き合うべきだなんて人がいるけれど、それは立ち向かい、向き合うことができる強い人たちの理屈よ。世の中には――そうじゃない弱い人たちがたくさんいる」

 

 佐伯さんの言葉はとても真に迫っていて、そしてとても切なく聞こえた。聞いている僕の胸が締め付けられてしまいそうなくらいに。


 僕は、佐伯さんも『記憶消去』したことがあるのかなと思った。

 そのことに救われたのかなと。


「私の姉がね、男性に乱暴されたの」

「え? 乱暴?」

 

 僕は、思ってもいなかった話に驚いた。


「正確には、レイプね。数名の男性に無理やり。姉はそのことにすごく傷ついて、塞ぎ込んで、部屋から出てこなくなってしまった。私と違って、すごく明るい人だったのよ? いつも冗談を言っていて、私を楽しませようとしてくれた。私の理想だった。それが、見る影もなくなって、小さな物音一つに怯えるような、そんな人になってしまった。目には光がなくて、まるで幽霊を見ているみたいだった。ううん、あれは姉の幽霊だったのよ。本当の姉は、心無い人たちによって失われてしまった」

 

 佐伯さんは声を震わせながらそう言った。その顔はとても悔しそうで、それと同じくらいの量の憎しみのようなものが宿っていた。


「家族で話し合って、『記憶消去』で乱暴をされた記憶を消そうって話になったの。でも、姉はその記憶を消したくないって、何とか自分の力で乗り越えたいって言ったわ。その時は、まだ失われてしまう前の、元気だったころの姉の残滓のようなものが残っていたのね。でも、無理だった。姉には、それを乗り越えるだけの強さは残っていなかった。日に日に衰弱して、弱っていく姉を見かねた両親が、姉の同意なく半ば無理やり『記憶消去』を受けさせたの。そうしたら、どうなったと思う?」

 

 佐伯さんは、尋ねておきながら僕の答えを待つことなく話を続けた。少しだけ興奮しているように見えた。自分の感情を抑えられないみたいに。


「以前のお姉ちゃんに元通り。本当に何事もなかったみたいにケロリとしていて、家族のほうが拍子抜けしちゃったわ。でも、私はすごく嬉しかった。昔のお姉ちゃんが戻ってきてくれて。それは、正確には昔のお姉ちゃんじゃないのかもしれない。何か大切なものが損なわれてしまったお姉ちゃんなのかもしれない。時折、お姉ちゃんが遠くのほうを見つめて、何かを失ってしまったみたいな悲しい顔をしているのを見ると、そう強く感じるの。でも、それでも、私は元気なお姉ちゃんが良い。たとえ大切な何かを損なってしまったとしても、今の姉ちゃんのほうが良い」

 

 そこまで言うと、佐伯さんは落ち着きを取り戻して僕を見た。


「これが、私の話。私があなたに協力するのも、それが『記憶消去』に関わっているから。私はこの医療技術についてもっと知りたいと思っているし、この治療を受けた人がどのようにその後の生活を送っているのかを知りたいと思っているの」

「つまり、僕は観察対象ってこと?」

「はじめはそうだった」

 

 佐伯さんは白状するように言う。


「あなたの頭の中の女の子のことなんてどうでも良かったし、あなたがその女の子のことを思い出そうが、再会しようが、それは私の興味の外の話だった。でも、今は違う」

「違う?」

「ええ。今は、あなたが頭の中の女の子のことを思い出して、その女の子と再会できればいいと心から思っている。あなたなら、消えてしまった記憶を思い出して、それと向き合い、乗り越えられるんじゃないかって。私の姉ができなかったことを、あなたならできるんじゃないかって、そう思っているし、そう信じたい」

 

 佐伯さんは僕を真っ直ぐに見つめて、そう言ってくれた。

 まるで何かを託すように。

 

 僕は、佐伯さんから大切なものを受け取ったような、そんな気がしていた。

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