第4話 どうしてか、赤い花を。
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「『記憶消去』で消したはずの記憶が蘇るという例だけれど、実際にそう言った症状や症例は多くあるわ。といっても私も聞きかじり程度の知識で、あるらしいくらいの話しか知らないけれど」
それから、僕たちは場所を区の図書館に移して話し合いはじめた。
学校の図書館でもいいのでは――と佐伯さんに告げたところ、校内で僕と二人きりでいていらぬ噂話をされるのは困ると、率直に言われてしまった。
佐伯さんも年頃の女の子なので、そこらへんは気になるらしい。確かに、僕も転校して早々に女の子と二人でいるところを目撃されて噂になるのは、あまりいい気はしない。
そもそも、僕は目立ちたいタイプの男の子じゃない。
それは、佐伯さんも同様だった。
「多くあるって、どれくらいあるんだろう?」
「そもそも、あなたはこの『記憶消去』が何の目的で開発されて、ここまで普及してきたか知っているの?」
「ぜんぜん」
僕は、首を横に振るしかなかった。
『記憶消去』の技術や普及について、僕はこれまで深く考えたことがなかった。ただ、嫌な記憶を消せる便利な技術くらいにしか考えていなかったからだ。
それは僕が生まれ頃には当たり前に普及していた技術で、制服のポケットに入っている携帯通信端末『iリンク』や、本棚に並んだ本と同じくらい、身近なものとして存在していた。
「『記憶消去』は、もともとは日常生活を送るのも困難な人たち、ひどいトラウマを持つ人たちのために開発された実験的な医療技術だったの。例えば、ひどい虐待やDVを受けていたとか、親しい人が殺されてしまったとか、レイプされたとか――」
佐伯さんはレイプという言葉を発した後、少しだけ頬を赤らめた。僕も、なんだか恥ずかしくなった。
「でも、もっともこの技術を必要としたのは――戦争から帰ってきた兵士の人たち」
「兵士?」
「ええ、昔から戦場に出た兵士たちは、ひどいトラウマに悩まされてきたらしいの。特に帰還兵と呼ばれる人たちは」
帰還した兵士たちが日常生活になかなか戻れず、精神を病んでしまうという映画を見たことがあった。映画の中のその兵士は、物語の最後に自殺をしてしまう。
「極度のストレスを伴う経験は、アドレナリンの過剰な分泌によって記憶に強く結びつく。だから、戦場で常に緊張状態を保たなきゃいけない兵士は、帰還した後に戦場での記憶を思い出してしまう。忘れることができず、悪夢にうなされたり、強い自己否定感や罪悪感、自傷行為なんかを行ってしまう。『記憶消去』の技術は、そういった心的外傷を負った兵士から戦場の記憶を消去し、兵士を穏やかに元の生活に、日常に戻すのに大きく貢献したといわれているの。その後、この医療行為が一般的にも普及して、設備さえあれば小さなクリニックでも行えるようになったことで、現在の状況がある」
いったん話しを終えた佐伯さんは、自分の知識をひけらかした様子をまるで見せずに、僕がしっかり理解できただろうかって不安そうな表情を浮かべた。
僕は、彼女がすごく真面目で、他人のことを思いやれる女の子なんだなって思って、彼女に好感を抱いた。
素敵な女の子だなって思った。
「ありがとう。『記憶消去』について、だいたいのことは理解できたよ。なるほど、兵士のトラウマを除去するために使われていた技術がここまで普及したのか。そう考えれば、僕たちの他愛のない嫌な記憶を消してしまうくらい、わけのないことなんだろうな」
「そんなことない」
僕が何気なく言うと、佐伯さんは語気を強めて僕の言葉を否定した。
「私たちが消す記憶だって、私たちの心を壊してしまう恐ろしい記憶よ。たしかに、戦場に出てひどい光景をたくさん見る兵士の人たちからすれば、たわいもない記憶なのかもしれないけれど、それでも、そんな記憶に悩まされて、心を閉ざしてしまう人だってたくさんいる。『記憶消去』のおかげで普通の生活をおくれている人が、たくさんいる」
「ごめん。そんなつもりで言ったんじゃないんだ」
僕は慌てて謝ると、佐伯さんは言い過ぎたのかと思ったのか、ばつの悪そうな、申し訳のなさそうな顔をして下を向いてしまった。まるで、先生に叱られた子供みたいに。
「私のほうこそ、急にごめんなさい」
少しだけ、気まずい空気が流れた。
「それで、消したはずの記憶が蘇るって話だけど?」
「そうね、早く本題に入りましょう」
佐伯さんは早口で続ける。
「さっき話した兵士の話だけど、戦場から帰ってきた兵士の記憶は消去するのが困難な場合が多くあるらしくて、複数回の『消去』を施してようやく消えるらしいの。それで、完全に消去してしまうまでは、記憶が突然に蘇ったり、フラッシュバックが起こるって聞いたわ。それに、無意識のうちに消した記憶に基づく行動をとっていたり。こういった例は兵士に限らず、日常の嫌な記憶でも起こりえる。つまり、強いストレスと強いアドレナリンによって脳に記憶されたことは、完全に『消去』するのが難しく、普通の人でも『記憶消去』に複数回の処置や治療が必要になる。強いしみ汚れを落とすのに、強力な洗剤だけでは足りず、何度もなんども
「強いしみ汚れかあ」
「ああ、あなたの頭の中の女の子がしみ汚れだって言うわけじゃないわよ。一つの例えとして」
「うん。わかってる。でも、これでようやく一つ確信できたよ。僕の頭の中の女の子は、完全に『消去』しきれなかった僕の記憶だ。そしてその女の子は、僕の頭の中に強く焼き付いている。洗剤なんかじゃ落とせなくらいにね。僕は、僕の頭の中の女の子を完全に消してしまいたくないし――彼女を失うわけにもいかない」
僕は、強い決意をもってそう口にした。
僕の決意を聞いた佐伯さんは、不安そうに僕を見る。
「だけど、わかっているの? その女の子の記憶があなたの頭の中に強く焼き付いているってことは、その女の子の記憶は――強いストレスと強いアドレナリンをもってあなたに記憶されたのよ? それってつまり、その女の子がもしかしたら、もう――」
佐伯さんは、そこで言葉を閉ざしてしまった。
それ以上は、口にするべきじゃないと判断したんだと思う。
佐伯さんの言葉の続きは、考えるまでもなく分かった。
僕の頭の中の女の子が、もうすでにこの世界にいないかもしれないと言いたいんだ。
つまり、僕のこの頭の中の女の子をめぐる冒険は――その終着点は、本当に墓を暴くことに、彼女の墓参りになってしまう可能性だってあるということ。
それは、わかっている
「佐伯さん、それでも僕は――僕の頭の中の女の子を思い出したいんだ。このまま彼女を忘れたままにしておきたくない。僕たちがどんな関係で、どんなやり取りをしていて、どんな結末があって、僕が彼女を忘れなくちゃいけなかったのか、僕はそれを知りたいんだ」
もしも、この冒険の終着点が本当にお墓参りなら――
僕は、そのお墓に花を添えてあげたかった。
どうしてか、赤い花を。
僕は、そんなふうに思った。
「わかったわ。これ以上は余計な忠告はしないし、引き留めたりもしない。私もできる限りのことはする。あなたが、あなたの頭の中の女の子と再会できるようにね」
「ありがとう」
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