雅視点~What a wonderful world?~

 お店に迷惑がかからないように、トイレからなかなか帰ってこないあいつをどうにか救助して、タクシーに詰め込んだ。まったくもう、いくら私を信頼しているからといって、あんた意外と重いんだからね。女の私一人に任せることじゃないよ。

 ま、いいけど。

 全てをタクシーの運ちゃんに任せて、こいつの家に強制送還してもらおうかとも一時は考えたけど、ありのままに酔っぱらって、自分をさらけ出して、今は隣のシートで子供みたいにスヤスヤと眠るこいつを見ていると、何故だかどこか愛おしくて、今夜は風の吹き回しでうちに泊めてあげることにした。私自身、まだ飲み足りないというか、今夜は独りで夜を明けたくない気分だった。

 タクシーの揺れで、また吐かないか心配だけど。

 私が住んでいるマンションに着き、こいつの肩を担ぎながら、どうにかして部屋まで連行した。自我が無い人を一人運ぶのはこんなにも大変なのかと感じた。深夜で人気が無くて良かったよほんと。めっちゃ迷惑かけられているけど、不思議とストレスじゃないし、吐いているこいつの身体を汚いとは思わなかった。それは、こいつと私の信頼関係がそうさせているのだろう。

 仕方ないからこいつを私のベッドに寝かせてから、一息つく。ぱっと自室を見渡すと、人を招くにしてはちょっと散らかっていた。ベッドや床に脱ぎっぱなしとなっている服や、机の上にある食べかけの食品など、あいつが起きない内に慌てて片付けを始めた。

 おっと、これもあいつに見られる訳にはいかないかな。

 私は机の隅にあるピルケースも、あいつの目が及ばないであろうクローゼットの中に一時退避させた。風邪薬とか生理用品ならなんてことないんだけど、中身は抗うつ剤の類だから。

 一通り片付けを済ませ、私はキッチンからワイングラスを取ってきて中に赤ワインをそそいだ。そして、ベッドで寝息を立てているこいつの傍らに腰掛ける。なんだか、こいつの顔を見ていると安心するんだよなぁ。彼が起きるまで何もすることがないから、ぼーっと、彼の寝顔を見つめては、グラスを傾け、こいつとの記憶を思い出していた。

 こいつとは高校の頃から今も変わらず、仲が良い友達だ。私はそう思うようにしている。

 よく、「男女間の友情は成立しない」と言われるけど、どうだろうか。私は上手くやれていると思う。確かに、こいつが文化祭の後、告白してきたときは何故だか胸に鈍い痛みが走った。大切な用事の際に電車が遅延しているみたいな、変えようのない理不尽な現実を突きつけられた感覚がした。私もてっきり喜んで、ふたつ返事であいつとなら付き合うんだろうと思っていた。当時は。

 今になってみるとわかる。だって学生の頃の恋愛だなんて、十中八九恋に恋しているだろう。どうせしばらくして時間や距離の問題で別れるのなら、心にダメージを負わなければならないのなら、初めから付き合いたくない。ライトな関係の方がずっと楽だしダメージを負わない。こいつと続けてきたような、或いは、今まで一夜を共にしてきて顔も覚えていない縁を切った男女たちのような。

 なによりも今もずっと続いている、音楽を語り合ったり、他愛のないことで酌を交わす関係が壊れることが怖かった。私にとっては数少ない拠り所のような大切な関係だ。本人には絶対言えないけど。

 そんな煮え切らない歪な関係を続けてきて、改めて考えてみると、私にとって、こいつって何なのだろう。

 好きか嫌いかで言われれば好きだし、尊敬もしている。ただ同時に煩わしい存在でもあった。

 さっきピルケースを移動させたときに開けっ放しになっていたクローゼット、その隅に押しやられている直方体のナイロンケースを呆然と見やる。私は幼少からピアノを習っていた。ブラックミュージックが好きな両親の影響で音楽は好きだし、コンクールで何度か金賞も取ったことがあったし、ピアノをしている自分に誇りさえあった。だけど、それは誰しもが一度は抱き、社会に溶け込む頃には喪失してしまうものだとあっけなく自覚した。特に音楽においては顕著だ。一部の限られた人間が、才能と運を持ち合わせていないと成功できない。

 彼はそれをわかっていない。今も。

 どこからそんな根拠の無い自信が湧いてくるか不思議だし、同時に彼が夢を語る度、私の胸をざわつかせた。確かに彼が以前組んでいたバンドが一定の地位を築いていたことはわかっているし、夢を語るに足る覚悟と実力はあったのだろう。ただ、あいつは運が悪かったんだ、きっと。ほんと、なんで人生って上手くいかないんだろうな。

 あいつには私がピアノを弾けること、一定の実力があることは明かせなかった。言ってしまうと、きっと、なんで諦めたのか、とか、じゃあ、いっしょに音楽をしようとか言われるに決まっている。そうなるとわたしはいつもあいつに接している私であり続けれる自信が無い。私もきっとむきになって口論になったり価値観の違いが生まれたりして、今の関係は続けていけないだろう。その証拠に今でもあいつと音楽や将来の話をしていると偶に、あいつの考えを否定して、自分の価値観を保たなければと無意識に言葉を発してしまっているときがある。そんな自分が卑しくて嫌いだ。

 私とあいつは性質が、歩んできた道が近すぎたのだろう。こういう懸念を孕んでいる時点で、付き合うなんてやっぱり無理なのかもしれない。むずかしいな。私はグラスの中身を飲み干すと、あーあ、と溜息を出した。

 散々こいつにつまらい人間になったとか言っておいて、私もつまらない人間になったなあ。

 こいつと違って夢や恋愛から逃げて、安定した方、堅実な道を選んできた。たしかに収入には困らない、良いマンションに住んで、欲しい服やレコードを買えて、私も幸せだ、これでいいんだと感じていたし、はたから見ても幸せに見えるのかもしれない。

 そう錯覚していただけだった。

 同じような日々の繰り返し。挫折した夢。

 気づけば私には何もなかった。大切なもの、守りたいもの、支えになる存在。

 世間体が良いおかげで男女問わず寄ってくる人は絶えない。その度、一夜を共にしたりお酒を飲んでその人の身の内を聞くのは楽しいし、さみしさや虚しさを忘れさせてくれる。

 だけどそれは刹那的な関係で一時しのぎでしかない。わかっていた。

 最近は通勤中、ふと何もしたくなくなって、嫌になって帰宅してしまい、病院に行ったら鬱と診断されるわで散々だ。

 でも、リスカしたり自殺したりはしない。私もそこまで腐るつもりはないし、きっとこいつが一早く気づいて、そういう女は嫌いだろうから、見限られてしまう。

 こいつや職場、世間には気丈に振舞っているけど、それももう限界が近いのかもしれない。私も、私だけの心をあたためてくれる人を、どこかで望んでいるのかもしれない。

 寒い。

 突如そう感じた。空調は片付けをしていた際に付けている。おかしいな。

 また彼の寝顔を見つめる。早く起きないかな。

 こいつは、今も私のこと想い続けているのだろうか。多分、そうだけど。

 彼の想いに答えたら、私の空洞は埋まるのだろうか。

 彼に見せたことのない、私の側面を見ても、彼は私に失望しないだろうか。

 なんだか未開の地に足を踏み入れようとしている恐怖と高揚感が同居している。

 偶にはこちらからアプローチしてみてもいいかもしれない。また、いつもみたいに意地を張ってしまって空回りするかもしれないけど。今夜はいつもと違う気がする。

 そうだ、味噌汁でも作ってあげるか。私ってできる女だな。

 思い立ったらベッドから腰を上げ、ずっと地べたを這いずって平行線だった気分が晴れてきた。

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