パンク、破壊衝動
それから俺の心にかかる靄のようなものは一層濃くなった。きっと気まぐれなのだろうが、刹那的に生きている雅があんなに将来の話をすることは初めてだった。それ程、俺はもう後に引けないところまで来てしまっているのだろうか。そんな思いがしょっちゅう頭を巡って、足枷になって、何をするのにも億劫になった。
昔ならこんなフラストレーションは曲に変えていたのだろうが、今はその意欲さえ湧かないのが、悔しいし、何よりも不安だった。
今日のコンビニでのバイトは夕方までだったのだが、当欠者が出てしまったようなので、てっぺんぐらいまで残業しなければならなくなってしまった。まあ、働くほどお金は出るし、この職場には恩があるから特に予定が無ければこのような事情の際は基本受けるようにしていた。まあ、それは建前の話で、俺の心境は最悪だった。今日は早く家に帰りたかった。こんな日には部屋で好きな曲でも聴きながらゆっくりしたかったし、何よりも思いあぐねている作曲に挑戦するのも良かった。
今夜は華金だから、夜が深まるほど酔っ払いがちらほら来店するようになる。くそ、どいつもこいつも人の思いはいざ知らず浮かれやがって。公の場で大声を出すな。会計が終わったのならさっさと失せろ。そしてお前らにでかい態度を取られるいわれはない。
もちろん仕事だから態度には出さないが店員は鬱蒼とした腹持ちなのだ。酔っ払いには思いやりの気持ちはないだろうが。
今夜は終業まで流すスタンスで業務をこなしていた。心を無に近づけて。上がりの時刻が近づいてきた頃、ひとりの初老の男性が来店してきた。そいつは入店するなり商品には目もくれずレジに立つ。その瞬間、ああ、煙草か。と察した。
「おい、レジ。速く」
わかっている。喚くな。俺は少しばかりの反骨で品出しを中断して、自分のペースでレジへと足を運ぶ。目には目を。然るべき態度には然るべき態度を。どうせ同じ人間とは思われていないのだ。
「ポイントカードはお持ちですか」
老人からの返答は無い。言動通りの風貌だ。中肉中背だが肩幅はしっかりしていて、いかにも自信ありげに胸を張っていて頑固そうな顔立ちをしている。お前、言葉話せないのか。さっき急かしていただろう。ならばこちらも無言を貫き通すことを決めた。相手の態度によってこちらの態度も変える。接客に置いては厳禁だが俺のモットーだった。反骨精神を忘れないのは大事だ。
「二十三番」
を、下さいだろうが、クソカスが。やっぱり、先程から日本語がわからないらしい。二十三番の煙草はホープ、俺と同じ煙草を吸っているとは、無性に腹が立った。実際、このような頼み方をするお客さんは珍しくない。日常茶飯事だ。しかし、こいつはダメだ。俺が一番嫌いなタイプの人間だ。
「年齢確認をお願いします」
煙草をレジに通したあと、マニュアル通りにことを運ぶ。
しかし、老人は一向にレジの画面を押す気配が無い。
「すみませんが、年齢確認にご協力をお願いします」
早く押せよ。もはや社交辞令だろうが。
「俺が未成年に見えるか」
「申し訳ありませんが、お願いします」
絶対に譲らないからな。本当に器が小さいやつだ。無駄に歳だけ重ねやがって。
しばらく老人は無言でこちらに訝しそうな視線をよこしていた。俺も視線を合わせそらさない。
「まったく、つまらん奴だ」
そう言いながら老人はいかにも残念そうに画面をタッチした。
その瞬間俺の中で何かが吹っ切れた。これまで瀬戸際で守り続けていた体裁のようなものが。
俺はユニフォームのジッパーを下ろし、脱ぎ捨てた。
「表出ろ」
老人は驚くでもなくまた、訝しげな視線をこちらによこしたあと、意外にも素直に、出口へ先行する俺に付いてきた。
おそらく俺はこの後クビになるだろう。それでもかまわない。自分の矜持に反することで反抗できないことはダメだ。もちろんこれまでの接客で同じような事例はあった。何度か自分が折れたこともあったし、仕事だから分別はできている。だが、自分が最もつまらないと思う人種に、そう言われては黙ってはいられない。
俺たちは店外に出ると人気のない駐車場の裏手、ゴミ捨て場の付近まで来て向かい合った。老人はうっすらと笑みを浮かべている。いけ好かない。
この憤りのままに殴りかかってやろうかと思っていた。だが、それを行動に起こすほどの火が、心に燃えていないことに気がついた。おかしい、何故こんなにも冷めているのだろう。以前、Peace outのメンバーが脱退することを打ち明けてきたときは胸に沸き上がった熱源に、従順に躊躇なく拳が出ていた。
「どうした、おじけづいたんか」
しばらく自分の心境に理解が追い付かず呆然としていたようだった。もう後には引けない。いっそのこと、このままこいつを置き去りにして帰りたかったが、言いたいことは言っておくことにした。どうせクビになるのなら損だ。
「俺はお前みたいなつまらない奴には絶対にならない。それに、システムが気に入らないならコンビニで煙草を買うな。二度と来るなよ、老害が」
俺がそう言い放つと、老人は俺の言葉を嚙みしめるように、そうかそうかと小声で反芻したあと、
「そうですか、じゃあ二度と来ません。すみませんね」
と憎たらしく吐き捨てて去った。
途中からこうなるのではないかと予感していた、やはり残ったのは虚しさだけだった。
俺は店に戻って少しの間業務から離れていたことを同じシフトの後輩に謝った。後輩は大丈夫だったんですか、と心配そうにしていたが大丈夫だよとなだめておいた。それから上がりの時刻まではどういう気の吹き回しか愛想良く接客した。
俺が廃棄になった弁当の中からどれを晩飯にしようか吟味しているときだった。今夜は非番だった店長が慌ただしく事務所に入り込んできた。
「さっき、本社にクレームの電話があったんだ。うちの店員に喧嘩を売られたって。君、なのかい」
店長は信じたくないと言いたそうな口調だ。俺が、そうです、すみません。と告げるなり、なんで、と両手で顔を覆い、俺自身よりもこの事態に取り乱している。
「おそらく君のことだろうから、覚悟の上の行動だったんだろうが、もう君をここでは働かせてあげられない」
もちろん覚悟の上だった。だけど実際に直接告げられると、くるものがあった。なにせここでは長い。小学生が一人卒業できるぐらいの間ここでは働いていただろう。俺は力なく、はい、と返事を返す。
「これまでもクレームはあった。しかしそれは現場で収めることができる事態だった。今回ばかりはね」
すまない、と店長も力なくつぶやいた。店長が謝ることなど一つもないのに、こちらが申し訳なくなる。店長は頭を抱えながらパソコンの前、自らの席へゆっくりとした動作で腰をかけた。
「だからね、なんでこんなことをしたのか不思議でならないんだ。君ともあろう者が」
正直俺の接客は良くないだろう。だが俺もこの道が長いこともあるしそこまで馬鹿ではないから、クレームを受けるような限界を見極めていたし、もしクレームを受けてしまったとしても後の対応はお手の物だった。今回の事態は色んな要因が重なってしまい起こったことだ。俺の中の譲れない考えを今、店長へ口にしても軽々しくなるだけで、それは野暮だ。
「教えてくれないんだね」
店長は俯いた。
「僕はね、できるだけ君のような若者は応援してあげたいんだ。こうなってしまって本当に残念だ」
店長が涙を浮かべこちらに眼差しを向ける。あなたは優しすぎる。やめてくれ、俺みたいなクズにそんな優しさはもったいない。だから今になって自分が突発的に起こした行為に少し後悔した。あの老害に対しては微塵も申し訳ないとは思わないが、お世話になったこの店や店長に対して仇で返すのが申し訳ない。
退社の手続きに際して書類などは店長がやっておいてくれるらしかった。俺は本当にもう、ここから去るだけだ。
「店長、最後に手向けの品、頂いていきますね」
そう言って俺は廃棄の、のり弁を掲げた。
「ああ」
「本当にお世話になりました」
深々とお辞儀をし、弁当をリュックにしまって帰ろうとした。
「もし新しいバンドを組んで、CDができたりしたら、うちに来て教えてくれよ」
もちろん俺もそのつもりだし、その要件でしか、もうこの店には顔を出せないとも考えていたから、はい、と返事をしたが、何故だろう、意気消沈しているからかそれは実現しないような気がした。
何事も、幕切れはあっけないものだ。
家に帰り着き電気を点ける。1Kの狭苦しい部屋。テーブルに所狭しと並ぶ酒のボトル。灰皿に山のように積もった吸い殻。最近女も連れ込んでいない。部屋を片付ける意欲も、性欲ですら最近湧かない。これが世に言う鬱なのだろうか。笑えない。
帰宅するなり突如、たまらない喪失感が襲ってきた。
昔バンドをしていた頃は、間違いなくPeace outが俺の一番の居場所だっただろう。解散してからというものは、あの職場が第二の居場所と言っても過言ではなかった。それらも今となっては全てなくなってしまった。自分のせいで。
最近何も上手くいかない。喪失感はじょじょにフラストレーションへ変わってゆく。将来への不安、今日のクレーマーのような理不尽さへの怒り。怒り、怒り。
リュックをぞんざいにそこらへ放り投げ、シャウトしながら頭を掻きむしる。と、同時くらいに悲鳴のような開放弦の短い音が部屋に響いた。
音がした方に目を向けると、テレキャスターがスタンドから倒れ、リュックと一緒に横たわっていた。
嗚呼ごめんよ。かつての相棒を抱き起す。
その瞬間、俺に或る衝動が沸き起こった。
俺はギターのネックを逆手に持ち、振り上げる。
お前が、お前がこんなにも俺を苦しめているんだ。
昔と全く変わらない姿で、過去の栄光を、光を放つのはやめろ。やめてくれ。
往年の、憧れのパンクロッカーのように、振りかぶった相棒を、傍に置いてあるマーシャルのアンプへ振り下ろす、ことは俺にはできなかった。
女性をエスコートするような、丁寧な所作でスタンドへテレキャスターを寝かせた。
やり場のない憤りだけが残り悶える。
ベッドへ倒れこみマットレスを何度も殴った。何度も。
その行為が虚しくなってきた頃に、また、喪失感が訪れた。
寒い。
そう感じた。帰ってきてから暖房をつけていなかったがそうじゃなかった。気温とかではなく、体温が、著しく低下しているように思えた。この季節は人肌が恋しくなるというが、その感情に近かった。
スマホを手に取り、LINEやTwitterの友達一覧、フォロワーのリストを探る。
真っ先に思い浮かんだのはセフレを呼ぶことだった。こんなときは負の感情と一緒に、一発抜くのが良いと思った。しかし時刻は日付が変わったばかり。この時間帯から呼び出せるセフレとなるとただでさえ限られてくるのに、最近、いらない関係だと感じることが多く、縁を切りすぎたのを今になって悔やむ。いなくはないが、なんだろう、どうでもいい女を呼んで、抱いても、この喪失感を拭えないような気がした。ましてやもっとひどくなるかもしれない。今求めているのはそんな温度のない交わりではなかった。
次に思い浮かんだのは友達でも呼んで、飲んで忘れることだ。だが、この時間帯では足のことを考えると不可能だ。
今になって実感する。自分が思う、つまらないと思うものを淘汰してきた。自らの意思で棄ててきた。
そうしたらいつの間にか自分の居場所が無くなっていた。
本当に信頼が置ける、心が落ちるける場所。Peace outに然り、職場に然り。
今、求めているのは、ドラマに出てくるような、家族団欒な夕食の食卓。長男坊が真っ黒な野球のユニフォームのまま手も洗わず唐揚げに噛ぶりつくような、それをみた母親がまず手を洗ってきなさい、って怒るような、その傍らでは武骨な父親が新聞を読みながら幸せそうにその様子を見守っているような。
そんな、ぬくもりだった。
今の自分にはとてもじゃないが形成し得ない幸せの形に近いものを求めていた。
それは、俺が今まで夢を追うために淘汰してきたものだった。
今でも音楽でこの逆境をひっくり返せると思う。しかし、今夜だけは自信に対して気持ちが追い付いてこなかった。
どうしようもなくベッドにうずくまる。近くに置いてあるコンポで敬愛するP.T.Pの楽曲を再生した。音楽なら、この胸の靄をかき消してくれる。そう思った。だけどどうしてだろう。いくら聴けども、煩わしい雑音にしか感じられなかった。仕方ない。音楽を聴く際には、そのときのコンディションも密接に関わってくる。それはわかっていた。
手持ち無沙汰で意味が無いとわかっていてもLINEの友達リストをスクロールする。こうやって改めて見返すと、本当に必要な縁はとても少ないことに気がついた。
無意味にスクロールを続けていると或る名前が目に入り、指が止まった。
こいつにこんなときに頼りたくはないけど、こいつなら、この喪失感を埋めてくるだろう。
もう流石に眠ってしまっているかもしれない。すがるようにそいつへ通話のボタンをタッチした。こいつはいつもあちらからは俺に対してアクションを仕掛けてはこない。
しばらくのコールの後、もう諦めようと思った瞬間、期待に応えるように通話が繋がった。
「よう、雅。華金だしさ、飲もうよ」
雅は、本当に繋がっているか不安になるくらいの間を置いて、まどろんだ声で答えた。
「んー、もう日付変わってるし、ばか。いいよ」
いつもふたりで飲む、天神にある馴染みの居酒屋の前。先に着いていた俺は煙草をふかしていた。味がしない。
しばらく、深夜の寒さに耐えるように待っていたら、少し遠くかに雅の姿が見えた。彼女も寒そうに身を屈め、両手をポケットに突っ込んだままゆっくりとこちらに近づいてくる。目の前に対峙するとマスクとマフラーで厳重に顔を防護していた。その様は、切れ長の綺麗な猫目が強調されているようだ。こいつは天神の一等地に住んでいるから足の心配はない。
「すまんな、こんな夜遅くに呼び出して」
「ほんとだよ。めちゃくちゃ寒いんだけど」
とりあえず、早く中に入ろう、と雅は言い先に店の中へ入っていった。
華金だったが時間が時間だから客入りはまばらだ。席に座るなり雅はマスクとマフラーを外し、スカジャンを脱いでハンガーへ掛けた。露わになった雅の顔を見ると、安心した。そして柄にもなく、綺麗だな、と改めて思った。
「で。どうしたの。まさか就職したの」
「違うよ」
テーブルに頬杖を突き訊いてくる。今夜のことの顛末を彼女へ伝えるのは、今になって億劫になってきた。もう、ただ飲みたい気分だったとか言ってしまおうかと思ったが正直に告げることにした。
「さっき、コンビニのバイト、クビになったんだよね」
嘲笑を交えながら伝えた。
「え、そこって一番長いとこだったよね。マジか」
店員がオーダーを訊きに来た。
「まずは何にします?」
「ま、とりあえず飲もうよ。生、二つで」
雅は喜々とした態で注文する。彼女も俺も、酒を飲むこと自体が好きだった。
「お疲れ様―」
雅の音頭で乾杯をした。こういう心境のときのビールはやはり最高に美味かった。それからは、今日の愚痴や、日本の接客に対する風潮自体への不満、そして最近のお気に入りのバンド、アーティストの話、他愛のない話と、美味い飯を肴に酒を飲んだ。完全とはいかないが、心が浄化していくようだった。
求めていたものを、やはり雅は与えてくれた。
彼女は俺にとって現在どういう存在なのだろう。親友? その言葉が一番近かった。だけどそれは俺がそう定義づけようとしているだけだ。
きっと、俺は、まだ彼女のことをあきらめきれていないのだろう。
最近はしっぽり飲むことが多くなっていたが、今夜はいつもに増して飲むペースが加速した。それに雅も付いてきていた。だけど、精神的な疲労からか、先に酔いが回ってしまった。店のトイレで吐いたのはいつ以来だろう。胃の中のものを全て吐き出して体調を戻そうとしたが上手くいかなかった。歳を取ったな、と感じた。それからのことはあまり覚えていない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます