つまらない日常と、過去の栄光

 コンビニのバイトを終え、退勤しようとすると店長がまた、いつもの話題をふっかけてきた。

「お疲れ様。なあ、やっぱり社員になる気は無いのかい」

 その問に俺は、ごめんなさい、俺には夢があるんで。とだけ返した。そうしてそそくさとリュックを背負って帰ろうとしたが、

「まあ、ちょっと待ってくれ」

 今日はなんだかしつこい。店長はパソコンがある自分の席に座り、この狭い事務所にもうひとつしかない椅子を引いてみせ俺へ座るように示した。気乗りはしなかったが無理やり帰る訳にもいかず、しぶしぶリュックを下ろして腰を掛ける。

「君も知っての通り宮原さんがもうそろそろ転勤してしまうからさ、社員に空きが出るんだ。君は、接客にはいささか問題があるが、勤務態度は良い。社内でのコミュニケーションもとれている。そして何よりパートの中では一番の古株だ」

 確かに俺はこのコンビニでバイトをしてから長い。音楽の専門を出てバンド活動をしながらフリーターになる前、高校生の頃からここでは働いていた。話の着地点も、それに対する返事ももう決まっているから、早く終わらないものかと眉を細めながら続きを聞く。

「ほら、それに新しいバンドもまだ組めていないんだろう? どうだ、君もそろそろ落ち着いたら」

 胸がざわついた。落ち着く? なんだ、そのつまらない説得は。ふざけるな。それに、まだ俺は終わってない。終わる気もない。

 俺が急に席から立ち上がると、店長は驚いたように目を見開いた。

「すみません。店長。とにかく僕は社員になる気はないんで。あ、これ新作っすね。頂きますね。お疲れ様です」

 目に入った煙草の新作サンプルを頂戴して足早にその場を去る。背後からは店長の深い溜息が聞こえた。

 店長にはお世話になった。ライブの予定が急に入ったり、打ち上げで飲みすぎたりしたときもシフトを調整してくれる。それに親身にバンド活動のことを聞いてくれた。本来ならあんなことを言われた段階でもう次に出勤することはないだろう。

 安定? そんなものは欲しくない。雑多と同じになったところで意味は無い。自分にしかできないアーティスティックなことで存在の証明を、世の中に足跡を残さなければ人生に価値は無いだろう。

 早速、頂いた新作のサンプルに火を点けながら、枯れ果てた銀杏並木の街道を、親不孝通りへと向かい歩く。

 新作の煙草は微妙だった。そしてなによりもタールが弱かった。吸った気にはなれないが無料より良いものは無い。



 福岡一の都市天神中央区から北に少し行った所にある親不孝通りには、クラブ、ゲイバー、キャバクラ、居酒屋などが乱立し、中洲に次ぐ繁華街だ。何より、ライブハウスとスタジオが集中している。俺にとってはホームのような街だった。

 ライブなどの演目が無い日にもバー経営をしている箱に顔を出し、バンドメンバーのあてを探すのが習慣だった。今夜も顔馴染みのスタッフと話ができるバーカン(バーカウンター)の真ん中に陣取る「最近いかす奴はいないのかい」と訊くが、渋いようだった。俺の求めるレベルの人材は既に他のバンドで手一杯だし、フリーな奴は大学や専門の片手間、遊びのようなものだ。

 俺は溜息と共に紫煙を吐く。そしてイェーガーボムをあおる。「今日は吸うペースが速いね」とバースタッフ。「これ弱いからさ、本数で紛らわすしかないんよ」そう答えると、ははっ、と気さくな笑顔を見せる。下唇のピアスに目が行く。両耳も随分拡張しているようだし、魅力的というか目を惹く容姿をした娘だった。

「あ、Peace outピースアウトのボーカルの人ですよね」

 喜々とした良く通る声。突如、背後から話しかけられ驚いたが、聞き慣れた質問だったから冷静に対処する。

「ありがとう。昔ファンだった子かな」

 声の主は、ボブヘアーと色白な肌に映える真っ赤なグロスをしていて、化粧は上手いが若い。おそらく女子高生だろう。入口でぴょんぴょん跳ねている。

「そうなんですよー。覚えてないですか。うち、最前によくいたんですけど」

 すぐに俺の隣の席へ座り、くりくりとした大きな瞳でこちらを覗き込んでくる。残念ながらわからなかった。君みたいな見た目の子、ステージからたくさん見えすぎて正直うんざりしていた。あの頃は。

「ごめんね、わからないや。もうあれから結構経ったしね」

 俺の返答を聞くと大層残念そうに「そっかー」とうつむくと「あ、ハイボールください」とオーダーした。バーカンのスタッフは「はいよー」とすぐさま調合しカウンターにグラスを差し出す。何故かにやついた顔で俺を横目で見ていたから、この元ファンの素性を看破しているのだろう。

 その元ファンは何回かグラスを傾けると、若干訊きにくそうに俺へ問いかけた。

「あの、なんでバンド、解散しちゃったんですか」

 この子が初めて話しかけてきた質問に次ぐ、よく訊かれる質問だ。

「うち、Peace out好きだったのに、地元じゃ絶対一番格好良かった」

 これまで何度も聞いてきたが、何度訊かれても堪える。

「みんなで同じ方向を向いて行くって、思ったより難しいんだよ」

 俺はロックグラスに入った氷を揺らしそれを眺める。確かに俺がギターボーカルをしていたバンドは、地元福岡のイージーコア界隈の若手では一番だった。名実共に。メジャーへの声もかかっていた。

「まあ、要は音楽の方向性の違いってやつだよ」

 冗談のつもりで言ったのだが、元ファンの子はくすりとも笑っていなかった。それどころかくりくりとした大きな瞳には涙が溜まっている。

「それに、解散ライブ、楽しみだったのに。最後なのは辛かったけど、みんな楽しみにしてたのに、なんで中止になったの」

 この子、アルコールが入っているからだろうか。俺への尊敬の壁を越えてストレートな感情が押し寄せてくる。その問には答えられなかった。その問の核心は俺にとってのブラックボックスだった。俺が問の返答をせずグラスを傾けたり煙草に火を点けたりしている間、隣で彼女はバーカンに突っ伏して肩を小刻みに震わせていた。どうやらこの子は世に言う顔ファンとは違って、つまり俺だけへの好意でなく、それなりにPeace outへの思い入れがあったみたいだ。

 しばらく気まずい静寂がカウンターを包み、最近流行っているらしいパンクバンドのアッパーチューンが場違いなほど店内に鳴っている。灰皿に吸い殻が二本ほど増え、ちょうど俺のグラスが空いたときだった。急に腕を握られた。

「ねえ。カラオケ行かん? うち、ひさしぶりにPeace outの歌聴きたい。ねえ、お願い」

 以前ならこんな願い身の程知らず甚だしいのだろうが、今となっては確かにただの男と女。だけど俺だってこの誘いを受けるほど腐ってはいない。そこまで過去の栄光を汚すつもりは無い。まったく、このマセガキが。

 俺は、俺の腕を握る彼女の手を取り直した。

「ごめんな。すぐに新しいバンド作るからさ、期待しといてよ」

 チェックで。俺はそう言い彼女の分のお代もカウンターに置いて席を立った。

「それに、火遊びは程々にしときなよ」

 店を出る際背中に「本当に期待してるからねー。一ファンとしてさー」と、バースタッフからエールを送られた。それに対して振り向かず片手を振って歩き出す。実際地元で顔をのこのこ出せる箱はここぐらいだった。俺は過去に音楽界隈からの信頼を著しく落としてしまったのだ。それが新しいバンドを結成する弊害になっているのも間違いない。

 そう、解散ライブは中止になったのではなく、俺がボイコットしたのであった。

 バンドが軌道に乗ってきていたところでの、メンバーからの急な脱退宣言。理由は就職するからだった。信頼していたからこそ、安定に走るメンバーがどうしても許せなかったし、俺の中でPeace outは終わってなかった。気持ちの整理がつかず、当日、どんな顔でオーディエンスの前に、ステージの上に立てばいいかわからなかった。それ以前にとてもメンバーの前では平常心ではいられないと思った。だから俺は当日ライブハウスに行かなかった。それからバンド自体がどうなったのかも、メンバーのみんながどうなったのかは、俺も知らない。



 キャッチや酔っ払い共の喧騒、華々しい通りから避けるように路地の暗がりへ歩を進める。

 思い返すとあの元ファン、良い顔立ちをしていた。女子高生のようなガキでも、あんな女の顔をしやがるもんだから、昨今は怖い。いくつ歳を重ねても女性の涙には免疫がつかない。いくら高尚な精神を保とうと、一時の欲求に左右されそうになる己が卑しかった。

 行き着いたのはライブハウスの裏手に忍ようにして立つDJイベントが良く行われているビル。今夜もイベントが行われているみたいだった。ビルの入り口にはモノトーンのコーディネートを貴重とした者やどこかのバンドのマーチで身を固めた若者がたむろしていた。

 受付を済ませ入場するなりお手洗いへ入る。用をたす訳でもなく身なりをチェックした。 

 先程のバーで不完全燃焼になったが、これからフロアで行われるのは、狩りだ。

 欲求を抑制する高尚な精神は大事だ。しかし、然るべきとき欲求に準じられないのは禁欲できないよりも情けないことだと思う。据え膳食わぬは男の恥。特に女の求めに返せないことは。

 早速バーカンでイェーガーボムをオーダーしフロアへ足を踏み入れる。グラスが無いことには始まらない。ここに遊びに来ている訳でも音楽鑑賞しに来ている訳でもない。七色の照明で輝くDJブース。いつもは邦楽ロックがセットリストの中心だが、今夜はEDM、ヒップホップR&Bと、少しばかり大人なイベントのようだ。現にフロアには「The Chain smokers」の大ヒット曲が流れていて(たしかグラミーにもノミネートされていたが曲名はド忘れした)数名が体を揺らしていた。

 パッと見渡したところ客層は俺と同年代、二十代後半の男女が大半を占めている。標的を定めているときだった、

「よう、ひさしぶり」

 声をかけられる方になるとは思っていなかったから意表を突かれたが聞き慣れた声だった。

「なんだ、雅か。なんでお前がこんなとこいるんだよ」

「私がR&Bとか好きなの知ってるでしょ。逆にあんたがこういうイベントにいる方が不思議なんだけど」

 どこぞのモデルがしているような黒髪のショートヘアと、男顔負けぐらにスキニーが似合あうパンツスタイル。こちらを見つめる猫目がちの切れ長の相貌は若干冷ややかで、近づき難いオーラを醸し出していた。彼女は女性の交友では最も長い方だが正直未だに苦手意識がある。

「ま、いいや。またイェーガー飲んでるのね」

「やっぱバンドしてたときの名残でな、癖付いてしまった」

「ふうん。よし、私もそれ飲も」

 そう言うと雅は持っていたグラスの中の赤ワインを一気に飲み干した。こいつが苦手な要因のひとつに酒が強いというのがある。今まで出会った女の中では間違いなく一番強い。俺と同等か下手したらそれ以上の恐れもある。その分手籠めにできないということだ。

 オーダーを済ませ新たなグラスを手に戻ってきた彼女は俺にじろじろと視線を寄せる。

「なんだよ」

「最近ギターケース背負ってないよね」

 雅の言葉は一々俺の胸をざわつかせる。

「今日はバイト上がりだしな」

「そっか。相変わらずふらふらしてるんだね。その様子だと新しいバンドも組めてなさそうだし、大丈夫?」

 もうこうなってしまっては当初のここに来た目的は果たせそうにない。俺らはフロアから離れて、バーカンに座っていた。

「なあ、この曲なんだっけ。ド忘れしたんだ」

「ああ、これは『Closer』だよ」

「え? これNe-Yoか」

「何言ってんの、確かに同じ曲名だけど、あんた時代に取り残され過ぎ」

 明らかな誘導だったが、雅は気にもせずくすくす笑っている。彼女のことは苦手ではあったが付き合いが長いこともあって、いっしょにいて居心地が良いのは確かだ。隣で件の「Closer」のサビをハミングしている。

「We ain’t ever getting older」

 今度は俺の耳に届くギリギリの大きさで俺へ意味深な目線を向けながら歌いかけてきた。

「ふたりはあの頃のまま変わってない?」

「おー、流石はロックバンドのギタボだね」

「なんだよ」

「いやー、その通りだな、って思って」

 雅はグラスを傾けながらフロアの様子をうかがっている。どこか遠くを見つめるような瞳で。

「あんたもバンドしてた頃から見た目そのままんまだし。まあ、つまんない男になっちゃったけどね」

「なんだと」

 思わず感情が昂ぶり、グラスをカウンターに置いた衝撃で中の酒が零れる。

「今日だって、どうせナンパしに来たんでしょ。そうやって毎日意味もなく過ごしてさ、そろそろ逃げてないであんたも落ち着いたら? 私はそろそろ車でも買おうかなー」

 なんだか今日はやけに悪態ついてくるな。こいつはかなりの気分屋だからどうしようもないが。俺が何から逃げているというのだ。俺は追っているのだ。

「そうやって世間体を押し付けんな。俺には夢があんだよ。逆に夢も目標もなく長いものに巻かれるだけの人生の方が、俺はつまらないと思うけどな」

 雅は、ふぅん。とドライに相槌を打つと、ロングピースを取り出し火を点けた。最初の一息を味わうように肺に入れたあと、細い煙を吐いた。

「安定を優先することってそんなに格好悪いの。所帯を持つことや財産を得ることはそんなにつまらないことなの。私はそうは思わないけどな」

 こいつは、俺がマンションに連れ込むような都合の良い女とは違う。確かな芯がある。己を構成するアイデンティティを吟味し誇りにもっている。だから、そう簡単には論破できない。

「確かにバンドしてた頃のあんたは良かったよ。それに真っすぐだった。でも今みたいな根無し草じゃあ、願い下げだよ」

「うるさいな、お前も相手なんていないだろ」

 わからないよ? と挑発的な笑みをみせ、灰皿へ煙草を押しやる。

「ま、酒が不味くなるね、こんな話題。みんな幸せだったら何でも良い。ほら、ナンパしてきたら? あの子とかひとりだしさみしそう」

 小馬鹿にした態度でフロアの壁際によりかかる少女を指差す雅。

「馬鹿か。今日はもう帰る」

 俺が席から立ちあがると、「もったいないな。じゃあ私が行こうかな。よく見たらかわいいし」と言って雅も立ち上がった。

 そう、こいつはバイだった。あまりにも曲者すぎる。捉えどころが無さ過ぎて俺にはお手上げだ。

「ま、あんたと飲むお酒は好きだからさ、いつでも誘ってよ。就職祝いとかでもいいよ」

 口元に手を当てて笑う雅。そして不意に片手を差し出してきた。

「じゃ、またね」

 こいつは別れの際、何故かいつも握手を求めてくる。特段、拒否する理由も無いからいつも受けるのだった。

「ああ」

 そうやって軽くシェイクハンドすると雅は先程話していた女の元へナンパしに行ってしまった。

 なんだか、今日はやけに心が有耶無耶になる。ビルから出た矢先さらに気を落とす。小雨が降っているし、かなり寒い。そりゃ深夜は冷え込むに決まっているが。あーあ。バーで格好つけなきゃよかった。帰りタクシーに乗れない。最近縁が切れすぎたせいで泊まるあても近辺には無い。いや、一人いるにはいるがそいつの家は頼りたくなかった。というか頼れない。歩いて帰れない距離ではないから、AKGのイヤホンを両耳にして、フードを被り、音楽でも聴きながら気を紛らわせて帰ることにした。

 スマホをランダム再生にするとアジカンの「ソラニン」が流れてきた。とても今の心境にマッチした選曲だ。ときどき俺のスマホは天才DJなんじゃないのかと思うときがある。

「例えば、ゆるい幸せが、だらっと続いたとする」

 無意識に歌詞を口ずさんでいた。

 今の生活に不満は無い。パートである程度の位置に上りつめ安定して稼げるコンビニのバイトを軸に、かけもちのバイトも組み合わせれば、ある程度の遊ぶ金を浮かせることができるし、将来への不安や仕事のストレスも、友達と飲んだり馬鹿な女を摘んだりすれば紛らわせた。そして、なによりも夢でもある音楽が心の支えになった。音楽だけは絶対に裏切らない。いつも傍に寄り添ってくれる。

「きっと、悪い芽が出て、さよならなんだ」

 しかしその生活には限界が迫っているのだろうか。俺には実績もあるし、音楽でどんな逆境もひっくり返せる自信もある。

 この曲はダメだ。思い入れが深い曲だが、どうしてもエモーショナルな気持ちになってしまう。こんな心にダメージを追っているときに聴いてはいけない。普段考えなくていいことまで頭によぎってしまう。

 ソラニンには雅との思い出も同居している。

 俺はどちらかというともっとハードなジャンルを好むからあまりアジカンは聴かないがこの一曲だけは心を惹かれた。それは主に洋楽ばかり聴く雅もいっしょだった。高校で席が近かった俺らはその話題がきっかけで仲良くなった。俺は文化祭でも「ソラニン」を演奏した。ほぼ雅のためにだった。

 そして文化祭のライブの後、あいつに告白した。結果は言わずもがなだ。それから今までだらだらと交友関係は続いている。専門学校卒業の際、上京も考えたが、あいつが福岡に残って定職に就くと言った、それが俺も福岡に残った理由のひとつなのは否定できない。

 そう、あいつは、失恋の相手でり、俺を縛り付ける鎖であった。彼女にしがみついているのは、ある種神聖なものに対する信仰心に近いもか、はたまた、自分にはちゃんとした想い人がいるという自己肯定なのかもしれない。

 ソラニンとは、ジャガイモの芽に含まれる毒。きっと俺のジャガイモは業が深すぎてブロッコリーみたいになっているだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る