2021年11月23日、お前は天皇になる!

アドリアーナ

プロローグA

何の話をしてたんだっけ? そうそう、なんだかすべて忘れてしまうって話。コップの中のミント水が蒸発するようにじょじょに何にもなくなってしまう。残っているのはコップの底にへばりついた「かつてミント水だったもの」だけ。記憶ってそんなものだよ。

                     

『ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね』


























プロローグA


 暗い闇のなかで、わたしは雨水が溜まったような埃臭さと遠くで滴が流れ落ちて水面に弾ける音を感じた。まるで腹の中。東京という大きな街のその身中にいる気分だった。

 そろそろ、敷地内に入りますよ。

 空洞のなかで、わたしよりさきを歩く男が振り返らずに言った。ガランとした穴なのにその男の声は不思議と反響せずにただわたしの耳元に絡みつくような低音を一度だけ運んできた。わたしは男の声にあらためて意識を前方に戻して、その闇に溶けこんでしまっていまにも消えそうなダークスーツの背中を追う。

 駅から降りてきたこの道は、どこか下水管に繋がっているのだろうか。実際そういったインフラの一部を利用しているのかもしれない。わたしは前を歩く男に尋ねてみた。

 違いますよ。男はわたしの考えを否定した。

「水の匂いは周辺のお濠に近づいているからでしょう。日本で下水が普及したのは、実は戦後どころか、もっと最近で1970年代の終わりなんです。この道ができたのは、それよりももっと前です。具体的にここの計画が立案されたのは江戸が東京になり、この街が帝都となった1868年です。当初は、まだ地下工事技術の発展が充分ではなかったらしく計画だけだったようですが、1908年の日露戦争終結後に本格的に着工されることになった東京駅とあわせて工事が始められたようです。最初は駅と宮殿だけを直接結ぶための限定的なものだったようですが、開通後は間もなく、枢密院や当時は省だった宮内庁の庁舎などの敷地内の各施設につなげていったようです。戦火がひどくなると、都の巨大な地下塹壕として軍令部と大本営の共同で利用するプランがもちあがり、最終的には本土決戦を見据え、地下に都民全員を潜らせる地下遷都の構想まであったそうです。けっきょくは東京大空襲に間に合わず地下帝都計画自体は松代に移されたようですが、工事は戦後にも再開され、ひそかにこの空間は敷地外にも拡張していき、いまでも国会議事堂をはじめとする街の主要施設とつながった空間になっているんです。いちばん最近つなげられたのは平成に入ってからできた御所ですが、いまでも工事は続いています。いまではこの地下空間は関東圏をすっぽり包んでいて、その詳細な全体を把握できているのは一部の宮内庁職員しかいないでしょうね」

「詳しいんですね」

「今回使用するにあたって書陵部で調べてきましたから。最初は図書課電算室のデータベースで検索すれば簡単に出てくるかと思っていたんですが、どうもまだまだ電子化されてない資料が多いみたいで、すこし苦労しました」

地下に潜ってから、周囲の目がなくなったからなのか、男は地上にいたときよりも随分と饒舌に話しかけてきた。待ち合わせに指定された東京駅構内のロビーで会ったときはきっちりと居住まいを正したようすで、あたりの丸の内の三菱地所か大手町の住友不動産のビルから出てきたビジネスマンが座っているのかと勘違いして向こうが名刺を差し出して挨拶してくるまで気がつかなかった。

 もっとも、自分のほうはというと、やはりどうにも居心地の悪い場違いさを拭えなかった。本来なら今日向かうはずだった取材先の資料を仮眠間際に読んでいたら、センター長によばれてそのまま局長と一緒に総局長室にまでつれていかれ事情を早朝まで説明されたのだが、けっきょく一時帰宅もままならずに向かうことになりどうしようもない格好のままだった。

 報道センターは、制作センターの人間たちに比べればそれなりにまともな格好をしているといえるが、それでも渋谷のような雑多な街で昼も夜もなく働いているテレビマンと皇居のお膝元で務めている丸の内のビジネスマンではその身なりは天地ほど離れているだろう。ましてや宮内庁などという殿上人の人間とでは、それこそ平安時代の貴族と野武士のようなものではないか。いっそスタジオパークから大河ドラマで使った衣装でも借りてくればよかった。

男は松永栄典と名乗った。宮内庁長官官房付の事務官だと言った。

 そんなふうにわたしはここに来るまでのことを反芻していると、いつのまにか松永が言ったように敷地内に入ったらしい。松永はまた口を開いてわたしに説明した。松永の口ぶりはまるで施設見学の広報担当のようだ。自分もある意味では公職に勤めていると言えなくもないが、この品格の差は何だろうか。やはり仕えているもののちがいなのか。

「いまが、ちょうど坂下門の真下ですね。このまままっすぐいくと庁舎の地下に辿りつきます。そこから地上に上がって指定されたポイントまで向かえれば近いんですが、我々はここを左に曲がります。彼らが指定したルートは若干遠まわりですね」

 地上に出れば、ちょうど二重橋豪にあたるらしく、松永によれば水の気配はそこからだろうとのことだった。

「しかし、彼らがこの地下道を通って敷地内に入ることを指定したということは、彼らもこの空洞のことを知っていたんですか。自分は知りませんでしたが、ここはもしかして一般に知られているものなのでしょうか」

 わたしはここに来るまでのあいだ、地上の東京駅でひたすら八重洲口方面と丸の内方面を不自然に右へ左へと行き来する松永についていき、最終的には駅から目的地間のどの位置に値するのかさっぱりわからない場所から地下に降ろされた。降下したその場所は特別、立ち入り禁止になっていたり、鍵をかけられて封鎖されたりというわけでもなかった。わたしたちは迷路実験のネズミだった。

松永によれば、場所を知らずに、なおかつ明確に辿りつこうという意思がなければ必ずたどり着けないようになっており、一般人が間違って入ることはまずないのだという。それには抽象的な意味ではなく、明確な仕掛けがあるそうだがいまいちよくわからない。

『出口』と同じようなことを構造として仕掛けているのですよ。松永は言った。

『出口』って何ですか。わたしは問うた。

「SF小説です」

 松永はわたしの質問に答えた。

「いいえ。とうぜん、この地下道は一般には秘匿されています。公職の人間のあいだ でも知っているのは宮内庁の職員と他の関係省庁の次官級以上のものしか伝達されていません」

「それではなぜ犯人側も?」わたしは当然わいてくる疑問をそのまま松永に問うた。

「関係者が犯人側にもいるということではないでしょうか」

 松永はためらいもせずにあっさりと認めた。そして、はっきりした口調で犯人側と言った。

「もちろん行動グループのなかに宮内庁職員がいるとは確認されていませんが、こんかいの件のリーダー格の男は国防陸部幕僚幹部の人事計画課課長と懇意にしているという報告があります。おそらく、自分たちの身内の国防軍と同じく、霞が関を中心とした各所にウィルスを感染させるようにパイプをのばして協力者たちを得ているのでしょう」

「それって大丈夫なんですか」

「大丈夫なわけがないでしょうね。公安部のチヨダはいまごろ霞が関や永田町はもちろん官邸に一番近い内調まで含めてそうとう洗っているようですよ。敷地の外はいまごろレッドパージよろしく大騒ぎでしょう。もっともその公安部自身がいちばん怪しいのはだれの目にも明らかですがね」

 日本のいくつかある情報機関のなかでも、軍人関係の、とりわけその思想的な不穏分子を監視しているのは警察庁警備局の公安部だといわれる。今回の事件を起こしたその中核が国防軍人たちということを考えれば、公安部は大失態も良いところで、いったいなにをやっていたのかということになる。しかし、松永のはなしによれば、たったいま事態の捜査の中心にあたっているのは厚かましくもその公安部らしい。好意的に解釈するなら、大失態の不名誉を雪ぐために躍起になっているともいえるが、穿った見方をすれば身内に怪しい人間がいるのをひた隠しにするために慌てて主導権をとったとも考えられる。松永がいういちばん怪しいとはそういうことなのだろう。

「もっとも、それをいうなら内閣も怪しいといえば怪しいですし、疑いだしたらきりがないところではあります。総理を始めとするほぼすべての閣僚がいないいまとなっては、危機管理官が臨時の議長として事態対処専門委員会を率いていますがそのなかのいったい何名が信用できるものなのか」

 きっとさまざまな利害関係が絡んで、あることないことや表にだせることだせないことさまざまな情報が風呂桶をひっくり返したみたいになっているのだろう。かつて、ある省を指して伏魔殿と称した政治家がいたが、ここまでくると伏魔殿どころかもはや弾薬庫みたいなものだ。もっとも、その弾薬庫から火薬を盗み出してきて火を点ける我々メディアがいえた義理ではないが。松永もその高貴な公職に似合わない品のない皮肉を付け足す。

「あなたたちの業界も、こんかいの件でとうぶんは飯の種には困らないでしょうね」

 局長たちはじぶんたち以外に民放キー局を始めとする各主要メディアの首脳たちと皆等しく内閣に参集させられ、説明のうえ報道規制の協力をおこなうことを厳命されたらしいが、そんなもの一日も隠しきれるものではないだろう。総理をはじめとする閣僚たちや衆参議長、最高裁判所長官たちが一時間でも予定されていた会合を無視して行方をくらませたら現場は大騒ぎになり記者たちはいっせいにその所在を探そうとするに決まっている。ある意味でもなんでもなく、わたしはそういう記者たちのなかでスクープの最前線にいるのだろう。

「松永さんもなにか知っていることがあるんじゃないですか」

「いえいえ、自分はたんなる小間使いですから」

 松永は肩を竦めた。こちらを振り向かないので表情はうかがえない。手に持った懐中電灯の光だけが松永の見つめる先を照らしていたが、それはどこまでも続く暗闇の先に吸いこまれて消失している。

「しかし、敷地の外にも協力者がいるとなると、完全に事態を収拾することは容易ではないでしょう」

 どうも、松永からは当事者意識が薄いように感じられてならない。あるいは松永自身が、とすら思えてくる。ただ、いま彼を問い質してかりに犯人側だとわかっても、自分はこの空洞に取り残されるだけだろう。わたしは一番訊きたい質問はきかずにおいた。

 松永はそんなわたしの意を介さずに話し続ける。

「今回の行動グループの中核を担っているのは、各方面隊から集まった有志の人間たちだそうです。ただ彼らに共通のよるべがないわけではなく、コアメンバーはかつて陸上総隊で同じ部隊にいた隊員たちのようです。首謀者とみられる三船二等陸佐は陸佐にしては若いほうですが、昨年の沖縄事件のときには国防陸部陸上総隊に隷下する中央情報部隊現地情報隊のさらにそのなかでも日米共同部付きの部隊の部隊長に着任していました。おそらくそのときに共同でオペレーションを遂行した部隊がそのまま今回の行動を起こしたと考えられるでしょう」

 それから、と松永は付け足した。

「民間人も少々メンバーに加わっているようです」

 わたしは松永があらためて説明するのをきいて全身の筋肉が冷たく張りつめていくのがわかった。入局したばかりのときに最ベテランの先輩からきかされたが、一生に一度遭遇するかわからない、社会をひっくり返すようなスクープに出会うときは記者というのは感覚でわかるらしい。それは全身の毛穴が全開になりあらゆる感覚が鋭敏になるのだという。だが、わたしはそこまで思って自分の愚かさに気がついた。すこし俯瞰して考えればわかる。そう、自分はこれからスクープをとりにいく記者でもなんでもなく、ただ事件に巻きこまれる当事者の一人になるのだった。一瞬でも記者らしく興奮しかけた自分にうんざりした。

 どうやら、空洞も終着点にたどり着いたらしい。松永は足を止めて、懐中電灯の光を壁に向けた。壁からは白くペンキで塗装された鉄製のタラップがついていて、どうやら入ったときと同じく、このタラップを昇って地上に上がるらしい。松永はそのまま懐中電灯を九〇度にして上にむけると、頭上に丸いかたちの直系一メートルもない銅板がはまっているのを示した。あそこが入口らしい。タラップは我々がいるところから十メートルほどの高さまで伸びていた。

 松永は懐中電灯を切らずに、足元に置いた。それから真っ暗な闇のなか手探りでタラップに手をかけた。「落ちないで下さいよ」と真面目な声でわたしに一言だけいって昇り始めた。わたしは松永にならいタラップを掴んだ。それからおそるおそる足をかけて昇っていったが、暗闇でつぎにつかむべきタラップをうまくとらえることができない。わたしはようやく手探りで何段か昇ると顔を下に向けて真下を確認してみた。まだ、一メートルも昇っていないはずなのに、足元は暗闇で何も見えず、ゆいいつ松永がおいた懐中電灯がなんの意味もなく明滅しているだけだった。もし掴み損ねて落ちてしまえばそのまま地球の中心まで永遠に落ち続けてしまうだろう。

 動機ですが。と、松永がまた昇り始めながら話し始めた。

「事前交渉の段階では、行動グループ側はあきらかにしませんでした。彼らはただ皇居内で宮内庁職員及び新嘗祭新嘉殿の儀を執り行っていた内廷の職員、そして参列していた総理大臣を始めとする閣僚、衆議院参議院各議長、最高裁判事並びにその関係者、」そして、と、松永はあくまで訥々と語った。

「天皇及び儀式に参進していた皇嗣殿下を拘束しました。そして、NHK職員であるあなたを指名して面接のうえでの交渉を要求しました」

 わたしはもう、なぜ、とは問わなかった。総局長室まで呼ばれ、説明を受けたときになんども発したその「なぜ」に誰も推測以上の明確な答えを出せなかったからだ。

 松永はタラップを昇りきり、天井の銅板を持ち上げた。隙間から、溢れるようにして地上の光が漏れてくる。それは皇居からやってくる光だった。

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