第34話 追憶
外へ出ると、目の前の通りを人々が賑わしく行き交っている。アサレラが宿の裏手へ回ると、エルマーも黙ってついてくる。
賑やかな声や行き交う足音が遠くなる。少し開いた勝手口の扉からは、炊事の煙がたなびいている。
「エルマー王子。聖王国は、魔術士……魔力を持つ人間をどうしてるんですか」
「どう、とは?」
「たとえば……、魔力を持ってる人間を魔人として扱うとか、国を追放するとか、そういうことは……ありませんか」
下手な問いかけでフィロの秘密を知られてしまわないようにと、アサレラは慎重に聖王国の政策に探りを入れる。
エルマーはわずかに目を瞠り、それから視線をすっと落とした。
「…………わが国の一部で魔術士への過剰な弾圧が行われるようになったのは、ここ二十年のことです」
「二十年……。魔王が復活してからってことですか? その前は?」
「わが国がマドンネンブラウと名を改めるよりも前から、公国とは交流がありました。ローゼンハイムを建国した魔術士ルールライは、かつてのイーリス王の妹ですから。魔術士への国民感情は、それほど悪くはなかったはずです」
魔術を使えるのは人間じゃない、人間の皮を被った魔物だ。
そう言い切ったウルティア人の顔はもう思い出せもしないのに、その声は耳元でささやかれているようにはっきりとよみがえる。
「魔術士がつくって、魔術の……なんとかラインって学校もあったんなら、ローゼンハイムはたぶん魔術士の国なんですよね? それでも聖王国の人たちは、公国を悪くは思ってなかったんですか」
魔王が降臨するよりもずっと昔、マドンネンブラウ――イーリス王とローゼンハイム王は兄妹だった。ただそれだけのことで、魔術士へ反感を持たずにいられるのだろうか。アサレラもフィロに出会わなければ、魔術士と魔人の境界線は曖昧なままだったはずだ。もしかしたら区別すらできなかったかもしれない。そんな思いでアサレラが問うと、エルマーは意外そうに首を傾げた。
「魔術に縁遠いコーデリア人のあなたが、公都エリーゼのレースライン学院をご存じだとは思いませんでした。どなたかに聞いたのですか?」
「魔人ジョンズワートと……」
反射的に答えかけたアサレラは、はっとしてすぐに言い直した。
「魔人ジョンズワートが……そう言ってました。魔王パトリスは、ローゼンハイムにあるレースライン学院の出身だって」
なるほど、と言わんばかりに頷いているエルマーに気づかれないように、アサレラは安堵のため息をついた。
そう、魔王となる前のパトリスが魔術学校に留学していたと語ったのは、魔人ジョンズワートだけではない。
――危なかった……。うっかりロモロさんからも聞いたなんて言ってたら、王子に怪しまれるとこだったな……。
コーデリア出身のロモロが遥か北方の魔術学校について知っているのは、きっとフィロのためだろう。
少なくとも聖王国が魔術士をどのように扱っているのか判明するまでは、彼らの抱える秘密をエルマーに察知されるわけにはいかない。
「七年前の春、ローゼンハイムへ逗留したとき、公国の魔術士に魔術を見せてほしいと言ったことがあります」
父にはたしなめられましたが、とエルマーは微笑む。二度と戻っては来ない日々を懐かしむような、さみしげな微笑だった。
「その夜にヒルダ様……ヒルデガルト公女の護衛のかたが来て、こっそり魔術を見せてくださったのです。彼の指先から無数の綺麗な光が生まれて、曇っているのにまるで星が輝いているみたいで……奇跡のような光景でした」
上向いたエルマーの視線はアサレラを捉えてはいない。在りし日に眺めた美しい光を思い浮かべているのかもしれない。
「光の魔術、か……」
「どんな力であっても、人を傷つけることも守ることもできる。ぼくの聖術も、あなたの剣も、そして魔術も……」
魔王の光は災異を引き起こし、公女の護衛が生み出した光はエルマーの心を打った。
「そう、ですね。おれもそう……思います」
さまよったアサレラの指先が、ずっと身に携えていた鋼の剣の柄へ触れる。
復讐のために剣を取り、今や世界を救う聖者となったアサレラには、エルマーの言わんとすることが身にしみてよくわかる。
「…………ヒルダ様は、公国の継承者であるのに魔術をうまく使えないご自身に心を痛めておられました。きっとヒルダ様も、ヒルダ様の護衛の魔術士も……もう、生きてはいらっしゃらないでしょう」
決意を秘めたその瞳は、いつのまにかアサレラの上にしっかりと据えられていた。
「聖者どの、お願いします。ぼくはヒルダ様の仇を取りたいのです」
エルマーの腰には先端に宝玉の填め込まれた杖と、そして細身の剣が下がっている。きっとエルマーは、初めからそのつもりで宿を訪れたのだろう。
「………………わかりました。王子、おれたちと行きましょう」
マドンネンブラウの民が腹の底ではどう思っているのかはアサレラにはわからない。だが、少なくともエルマーやその父オトマー王は、魔力を持つというだけの人間を国外追放しようなどとは思っていないはずだ――おそらくは。
ただし、とアサレラは指を二本立てた。
「約束してほしいことが二つあります。一つは、フィロとロモロさんのことを詮索しないでください。あの人たちは……その、訳ありみたいなんで……」
おれもよくは知らないですけど、と付け加え、後ろ暗い算段を腹の底へ隠しているわけではないことをそれとなく示す。
「……もう一つは?」
「おれを聖者と呼ばないでください。旅のあいだ中、そんなふうに呼ばれたら、背中がかゆくなる」
「では……ぼくからも。これはお願いなのですが」
そこでエルマーは黙り込んだ。
その先を言うことをためらうように何度か呼吸をした後、エルマーは拳を胸の辺りで握った。
「ぼくをエルマーと呼んでください。あなたのその、いかにも慣れていない敬語もいりません」
吐息とともに吐き出された言葉は固く、語尾はわずかに揺れていた。
「えっ? けど……」
「聖王国の王子ではなく、仲間の一人として扱ってほしいのです。それに、あなたはぼくの……」
そこで言葉を止めたエルマーが、こちらをじっと見上げる。アサレラが何度か目を瞬かせると、エルマーはくるりと踵を返した。
「……とにかく! お願いしますね、アサレラ」
さあ戻りましょう、と、アサレラの返事を待つこともせずエルマーは表の入口のほうへすたすた歩いて行く。
――やたらエルマーにつっかかるのはやめろって、フィロに言っておかないとな……。
先ほどとは反対にエルマーの背を追いながら、アサレラはそんなことを考えていた。
酒場へ戻ると、昼どきが近くなったためだろう、先ほどより幾分か客が増えていた。
「あ、もろってきは」
なにかを頬張るリューディアがこちらへ振り返るのに片手を上げて応える。エルマーに続いて腰掛けると、向かい側から視線が注がれているのを感じる。
頭の中で順序立てていた説明を取り払うようにかぶりを振り、アサレラは一つ咳払いをした。
「……ローゼンハイムまで、エルマー王子にも来てもらうことにしました」
これは打診などではなく、揺るぎない決定事項だ。そう示すためにアサレラはつとめて固い声で告げた。
しん、と沈黙が降りる。
誰もなにも言わないために、周囲の賑わう声がいやに大きく聞こえる気がする。
気まずい思いで隣を横目で見ると、エルマーは胸元で拳を握りしめて俯いている。
フィロやロモロがなにを言おうと、この決定を覆すつもりはない。だが、なにか言うべきだろうか。
「…………アサレラ殿がそう決めたのなら、わたしたちに異論はない」
沈黙を破ったのはロモロの声だ。それが本心からの言葉かは図りかねたが、少なくとも声色に翳りはない。
「……よかった、ありがとうございます。改めて、ぼくはエルマーです。みなさん、よろしくお願いします」
緊張に強張っていた頬を緩め、エルマーは円卓をぐるりと見渡した。そのとき、目が合ったエルマーがこちらへにっこりと笑いかける。どう応えたものか、とアサレラは小さく頷いた。
ふと、もの言いたげなフィロの視線がまっすぐ突き刺さる。後で説明するから、とアサレラは目配せした。それを悟ったかどうかは定かではないが、フィロはなにも言わないまま手元のグラスを握る。その指先が白くなっていることに気がついて、アサレラは目を逸らした。
「じゃあさ聖者さん、あたしも一緒に連れてってくれねえか?」
酒杯を手に取ったところで思いがけない言葉が飛んできて、アサレラは手を止めた。
「そういえば、リューディア殿はなぜローゼンハイムに行こうとしているのだ?」
「あの国に母ちゃんと兄貴がいるんだよな」
たぶんだけど、とリューディアがナイフを置く。
「確かあたしが四歳になるちょっと前だったかな。母ちゃんが兄貴を連れてローゼンハイムに行ったらしいんだ」
「え? じゃあきみは、母親に……置いてかれたのか?」
「そう」
他人ごとのようにあっさりと肯定するリューディアの横顔に、いくつもの感情がアサレラの内で交錯した。
「生きてるかどうかはわかんねえけど。あたし、師匠が死んで一人になっちまったから。家族がいるんなら一度くらいは会ってみたくてさ」
「うーん……けど、なあ」
エルマーの同行を許したのは打算を働かせたところが大きい。その点、リューディアを連れて行く理由はない。リューディアが腕の立つ戦士であることは身を以て知っているのだが――。
「…………別にいいだろう」
「えっ!?」
手の中で葡萄酒が大きく揺れ、そういえば酒杯を握ったままだった、と今さら思い出した。
「……なんだ、アサレラ。おまえは反対なのか」
「い、いや、別にそうじゃないけど……驚いただけで……」
まさかフィロが真っ先に賛同するとは思わなかった。現に、アサレラの視界の端で、エルマーも意外そうに目を丸くしている。
「そうだな。わたしもかまわないと思う」
「それって、あたしもついてっていいってことだよな? じゃ、よろしくな!」
屈託なく笑うリューディアを見ていると、胸が軋む。薄らぎかかっていた感情が鮮明に色を取り戻し、叫びをあげそうになる。
胸の底で渦巻く感情を飲み下すように、アサレラはようやく酒杯を思い切り傾ける。黄金の液体が喉を過ぎ、焼きつくような熱が胃へ落ちた。
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