第32話 復讐
胸が苦しい。
吹き付ける熱風の中、どうにか瞼を押し上げる。
赤く燃える空へ砂塵が舞う。濃厚な硝煙が上がる先で、星がかすかに瞬いている。
固い地面に横たえられた身体を動かすこともままならず、視線だけを動かす。胸の辺りで、黒い炎のようなものが立ちのぼっている。
炎が勢いを増し、揺らめき、やがて人間の形になる。
伸びてきた手が喉を締め上げたため、声を出すことができない。人影は身を乗り出し、膝で胸を押さえつけてくる。
「きさまを許さないぞ……!」
拍動する心臓を止めんばかりに膝がめり込む。
背中が焼け付きそうに痛い。
呼吸をするたび内臓に火がついたように熱い。
遠のいていく意識の底で、おのれの名を呼ぶ声が呪詛のようにはっきりと聞こえた。
「アサレラ! オレは、きさまだけは許さない!」
「………………レラ。アサレラ。起きろ、アサレラ」
声の主を認識するよりも早く跳ね起きた。
冷たい汗が背筋を伝う。動悸が速くなる。何度か瞬きを繰り返すと、ランタンの灯りに照らされたその顔が浮かび上がった。
「…………フィロ……」
こちらをじっと見下ろす青緑色に、暖かな光が反射している。アサレラは息をつき、反射的に握った剣の柄からこわごわと手を放した。
なにかよくない夢を見た気がする、とアサレラは身体を起こす。頭の芯が覚醒していくほど、夢の断片はぼやけて遠ざかる。
「エルマーが来てる」
思いがけないその言葉に、おぼろげだった夢の輪郭が完全に消し飛んだ。
「王子が!? どうしてここに……」
「さあな。今、親父と一緒に下にいる……とにかく、おまえも来い」
そう言い置いて、フィロはさっさと部屋を出て行った。灯りがなくなっためか、部屋がしんと冷えたように感じられる。
取り残されたアサレラは、ふと窓の外を見た。濃紺色の空に浮かぶ月は遠く、東の果てはわずかに白み始めている。夜明けはそう遠くないだろう。
夢の内容を意識の外へ追い出し、アサレラは手早く支度を始めた。
急いで階下へ向かう。明かりの薄く反射する壁へ、三人分の人影が映っている。
一つは腕を組み、壁へ凭れかかるフィロ。
一つはこちらに気づき、困ったように眉を寄せるロモロ。
そしてもう一つは。
「エルマー王子、どうしたんですか」
扉の前で俯いていたエルマーが、ゆっくりと顔を上げる。
「あなたが聖王都を発つ前に、頼みたいことがあるのです」
エルマーの態度に、アサレラはどこか違和感を覚えた。
その違和感の正体を探ろうとエルマーをじっと見ると、こちらを見上げる金色の瞳と視線がかち合う。その眼差しが昨日よりも間近に迫るような感覚がして、アサレラは思わず一歩退いた。
「出発の前に、聖剣レーゲングスをぼくに預けてくださいませんか?」
アサレラはとっさに聖剣の柄を握った。
「聖剣を? ……どうしてですか?」
「魔人に追われるさなか、ぼくは独断で聖剣を持ち出してしまいました。一度イヴシオン大聖堂の祭壇に戻さなければ、いずれ、旅の途中で神の威光が失われるかもしれません」
エルマーの言うことにおかしな点はないのかもしれない。だがアサレラは猜疑心のようなものを抱かずにはいられなかった。
もしかして、エルマーはおのれに聖剣を手放そうと仕向けているのではないか?
――いや、そんなはずはない。王子がおれから聖剣を取り上げたところで、なんになるっていうんだ……。
単なる魔物ならともかくとして、シルフのような魔人と遭遇したら、聖剣がないことには太刀打ちできないだろう。それに、アサレラへ聖剣を託したのは他ならぬエルマーだ。
だからこれはアサレラの気のせいだ。
そう思いはしても、なにかが小さく引っかかる。だが、その正体が掴めない。
「だが、聖剣を携えぬまま魔王討伐に行くわけにはいかないでしょう。あまり長くドナウにとどまることはできません」
同じものを感じ取ったのか、ロモロも難色を示す。
「儀式は今日中に終わります。明朝になったら馬で追いますから、明日の夕刻か……明後日にはお返しします」
「いや……けど、王子……」
「アサレラ、お願いします」
そのとき、胸の内でもやもやとわだかまっていた疑念が一つの決意へと変わった。アサレラは一歩踏み出し、エルマーとの距離を詰めた。
「それなら今すぐ、おれと一緒に大聖堂へ行きましょう」
「え?」
エルマーの頬が強張った――ようにアサレラには見えた。
「で、ですが……、あなたはすぐに発たなくてはならないのでは?」
「一日ぐらいは仕方ないですよ、そういう事情なら。ロモロさん、フィロも、かまいませんよね」
フィロとロモロに呼びかける素振りで二人に視線を送り、近づいていく。
「ロモロさん、ランタンを……」
ランタンを手渡される。すかさずアサレラはロモロの耳元で口早にささやいた。
「……探りを入れてみます」
ロモロが目を瞠り、それからかすかに顎を引く。
「さあ王子、行きましょう。イヴシオン大聖堂は王宮の隣でしたね」
なおも躊躇いを見せるエルマーの肩を押すと、とうとうエルマーは覚悟を決めたようだった。
「…………わかりました。アサレラ、大聖堂へ向かいましょう」
外へ出ると、もう夜は明けていた。
すでに一日の活動を始めている人々の喧噪の合間に、水路のせせらぎが聞こえる。昇ったばかりの朝日に照らされ、水面がきらきらと光っている。
宿泊した宿から王宮まではそう遠くない。アサレラは王宮へ通じる大通りへは出ず、手前の路地を左へ曲がった。
「アサレラ、どちらへ向かっているのです? イヴシオン大聖堂は王宮のすぐ隣ですよ」
この路地に立ち並ぶ店が開くのは日が落ちてからなのだと、昨日ロモロが言っていた。
アサレラは空いた左手で聖剣を抜き、振り向きざまに剣先を突きつけた。
「おまえはエルマー王子じゃないな」
「…………なにをおっしゃるのです?」
少年のような少女のようなその声色も、エルマーによく似ている。
「いったいどうしたのです。剣をお納めなさい、アサレラ」
喉元へ剣を突き付けられても、エルマー――を騙る何者か――は動じず、むしろこちらを落ち着かせようとすらしている。
「三つある」
突き付けた剣先がぶれないよう、アサレラは目の前の人物から視線を外さずに言う。
「まず一つ。大聖堂に行く必要があるなら、どうして昨日のうちに言わなかった?」
「…………昨日は、いろいろなことがありましたから」
確かに昨日はいろいろなことが一度に起こった。怒濤のように押し寄せる事実に翻弄され、うっかり忘れてしまったということも、なくはないだろう。
だからアサレラは頷いて、次の根拠を示す。
「もう一つ。王子はもう少し背が低い」
エルマーの頭頂部はアサレラの顎よりも少し下だったはずだ。今、目の前にいるエルマーの身長は、アサレラよりも頭半分ほど低いといったところだ。
「そして最後。王子はおれのことをアサレラとは呼ばない」
きっとエルマーも、アサレラと同じ真相に辿り着いただろう。
だがアサレラと同じように、エルマーも互いへの呼称を改めることはしなかった。
風が吹きつける。マントが翻り、裾が揺れ、ランタンの炎が消える。
「………………その通り」
風が止む。目の前に佇む人物の纏う雰囲気は、先ほどまでとはなにもかもが違う。
「わが名はジョンズワート。パトリス様の配下です」
フラウィウス闘技場を襲撃した魔人シルフが、ジョンズワートの名を言っていたことを思い出す。
「おまえが、魔人ジョンズワート……」
「聖剣に斬られたが最期、わたしは肉体を維持できない。だからこうして小細工を弄せざるを得ないのですよ」
言葉とは裏腹に、ジョンズワートは目下に迫る聖剣を恐れる素振りは見せない。
「五百年前、パトリス様の側にいたわたしは、おまえたちの誰も知らないことを知っています。それを知る術を永遠に失うのは、おまえにとっても損失ではありませんか?」
そういうことか、とアサレラは聖剣を握る指先に力を込めた。
有益な情報を提供する代わりに見逃せと、ジョンズワートはそう言っているのだ。
このまま斬り捨てるか、それとも、取引に応じるか。
――どうする……?
ここで魔人ジョンズワートを倒さなければ、大勢の犠牲者を出すことになるかもしれない。ここで得た情報が、魔王を倒す近道となるかもしれない。
「パトリス様が造り出した魔物は、わたしやシルフも含め、パトリス様から供給される魔力で肉体を維持しています」
アサレラが黙ったままでいるのを了承と受け取ったのか、ジョンズワートが語り出す。
「もっともシルフは魔力が足りず、あのような策で独自に力を蓄えていたようですがね」
ひとまずアサレラは剣を下ろした。
「…………。魔術で王子に化けてるのか?」
が、鞘へ収めることはせず、ジョンズワートを見据える。
「いえ。わたしもシルフも、もともとこのように造られたのですよ」
「けど、魔人シルフは人間には見えなかった……魔力が足りてれば、おまえと同じような見た目だったってことか?」
「ええ。おまえがシルフを討たなければ、いずれは本来の姿を取り戻したでしょう」
ジョンズワートはおのれの胸に手を当てる。
幼さを残す輪郭、聖王家の血脈を表す青い髪、金色の瞳。間近で見ればなおさら、ジョンズワートはエルマーによく似ている。
「じゃあ……、魔王の魔力は、増大してきてる……?」
「癒えてきている、と言えますね。ローゼンハイム公国を滅亡させたのち、おそらく力を一度使い果たしたのでしょう。パトリス様の魔力を辿ることができるようになるのも時間の問題です」
では今、ジョンズワートはパトリスの居場所を知らないということだ。
「話を戻しましょうか。わたしはあの小僧を模したわけではない。エルフリーデの名を知っていますか?」
「エルフリーデ……」
そのとき、アサレラの脳裏に、鮮烈な青色が閃いた。
夢の中でアサレラの名を呼び、微笑んでいた女性。純白のベールから覗く髪は、エルマーと同じ青だった。
「あれは……聖王アサレラの記憶……だったのか?」
「…………聖王の記憶があるのですか?」
「いや、あれは、夢……だ」
そう、そのはずだ。
「アサレラ。おまえはなぜ戦うのですか」
「魔王パトリスを倒すためだ」
「なぜ、パトリス様を倒すのです?」
「なぜ……って、魔王が世界を滅ぼそうとしてるからだろ」
「では……五百年前、そして今。なぜパトリス様が世界を滅ぼそうとしているのか、アサレラ、おまえにわかりますか?」
どこか遠くを見るように、ジョンズワートが目を眇める。
「パトリス様はイーリス人でありながら、レースライン学院……ローゼンハイム随一の魔術学校への留学を許されるほど優秀な魔術士でした。王の覚えもめでたく、公都エリーゼでの日々は充実していたようです」
「…………だったら、パトリスはどうして魔王になったんだ?」
ジョンズワートの語る話が真実であれば、パトリスに世界を滅ぼす理由などないように思える。優秀な魔術士だったのなら、フィロのように魔力をうまく制御できずに我を失うこともないはずだ。
だが、五百年前、そして今も、パトリスは世界に災厄をもたらそうとしている。
ふと、どこまでも広がる草原の鮮やかな緑色が、瞼の裏で明滅した。
群れをなして襲いかかる魔物に怯え、優しげに手を差し伸べる大人たちを警戒し、剣を抱いて浅い眠りにつく。セイレム村を出てすぐのアサレラは今よりもずっと無力だった。奴らを許さない、力が欲しい、そう思わなければ生きていけなかった。
「…………魔王パトリスは、誰かを……恨んでたのか?」
なぜ、そんなふうに思ったのかはわからない。だが尋ねずにはいられなかった。
ジョンズワートは一瞬、虚をつかれたようにアサレラを凝視し、それから幼子のように笑い声をあげた。
「おまえがそれを言うのですか?」
底から冷酷な光が覗くその瞳は、笑ってなどいなかった。
「パトリス様の願いは一つ。自身を裏切った聖王アサレラ――双子の兄への、復讐です」
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