第31話 1+2

中庭を横切り、回廊を進む。差し込む日射しはずいぶん翳り、日没が近いことを伝えてくる。

嫌悪と悔恨が胸の底でわだかまるのを、アサレラはかえって冷静な思いで見つめた。

発端となったアデリスの失踪は、誰のせいでもなかったのだ。


だからって、あいつらの所業を運命の一言で受け入れるのか? おれの十九年はなんだったんだ?


内なるおのれが声をあげるのを、陽炎のように立ちのぼったフィロの残映が、終わったことを考えたって仕方ないと切り捨てる。そうかもしれないな、と少しでも思えるようになったのは、フィロと出会ったためだろう。

ただ一つ。アサレラには、理解のできないことがあった。


「どうしてアデリスは、おれの名前を……」


ふとアサレラは足を止め、周囲を見渡した。

考えながら歩いているうちに、どこだか分からない場所に出てしまっていた。

ミカヤのところに戻るべきだろうか。だが、どこから来たのかも覚えていない。

夜になり、門が閉ざされる前に城外へ出なければ。


何度か角を曲がると、木立の中にひっそりと佇む白い建物が見えた。

助かった、と近づいていったアサレラの足が、建物の入口でぴたりと止まる。

これは聖堂だ。木々に囲まれた聖堂は、エクシアイ教会を嫌でも思い出させた。だが、中に人がいれば道を訊けるかもしれない。躊躇う気持ちを抑え、アサレラは壮麗な扉を引いた。


そっと中を窺うと、聖堂内は薄暗い。射し入る夕日を透かしたステンドグラスの光が散っている他に照明はないようだ。

その中に、祭壇の前に跪いている背中があった。

一心になにかを祈っている様子に声をかけるのをはばかられて、アサレラはその背を見つめた。

そうしているうちに目が薄闇に慣れてくる。小柄な少年のようなその人物が俯いて、青い髪へやわらかな光が落ちる。


アサレラはあっと声をあげそうになった。

あれは、エルマーだ。

立ち去ろうと一歩退いた靴底が、思いがけない高音を立てた。

振り返ったエルマーと視線がかち合う。

しまった、と思う間もなく、エルマーは裾を翻しこちらに向かって来た。


「聖者どの?」


「お、王子……すみません、邪魔して」


「いいえ、そろそろ終わりにしようと思っていましたから。それより、どうかなさったのですか?」


道に迷ったことをぼそぼそ告げると、エルマーは得心したように頷き、では城門までご案内しましょうと歩き出した。

エルマーには遇いたくなかった。だがこうなってしまっては仕方ない、とアサレラはエルマーに続いて歩き始める。


風が梢を揺らして通り過ぎる。エルマーはなにも言わなかったし、アサレラもなにも尋ねなかった。永遠にも思える長い時間――日の傾き方を見るとさほど経っていないはずだ――の果てに、アサレラとエルマーは城門へ辿り着いた。敬礼する衛兵へご苦労でしたと声をかけ、エルマーがこちらへ振り返る。


「ありがとう、ございました。あ、あと……マントのことも」


「聖者どの、ご出発はいつですか?」


「たぶん、明日の朝……ですね」


エルマーは意外そうに目を瞠った。


「そんなに早く行かれるのですか? 壮行を祝したパーティーを開催するつもりだったので、もう少しドナウにとどまっていただきたいのですが」


冗談じゃない、とアサレラは顔を引き攣らせた。それに気づいているのかいないのか、エルマーはさらに続ける。


「魔王討伐の旅に赴くあなたの勇姿に、民たちは希望を抱くと思いますよ」


なんとしても逃れたい、その一心でアサレラは咄嗟の思いつきを口にした。


「おれが魔王を倒して帰ってきたら……で、いいんじゃないですか?」


「……そうですか。わかりました、そのようにしましょう。父にもそう伝えておきます」


ふ、とエルマーが微笑む。その意図を図りかねて、アサレラは困惑した。


「聖者どの。あなたが魔王を滅ぼしたそのときは……、地位でも名誉でも、あなたの望むものをすべて贈ります。いち兵士だったアサレラが王となったのも、魔王討伐を讃えてのことでしょうから」


そういうのは別に、という言葉が喉元までせり上がったとき、アサレラの中で閃いた一つの考えがそれを押しのけるように口をついて出た。


「王子、もし、おれと一緒に旅した人がいたとして……その人の願いを叶えてもらうことって、できますか?」


「ええ、もちろん。聖王アサレラとともに魔王パトリスを討伐した騎士メイベルと戦士エステバンは土地を与えられ、それぞれコーデリア王国、ウルティア王国を興しました。ヴァーレンティーン公子と剣士アウレーリエは功績を認められ、婚姻を許されたそうです」


もしかしたら、と。エルマーの言葉にアサレラは一条の活路を見出した。








冷えた風が吹き抜ける。

聖王都ドナウは至るところに水路が張り巡らされている。金色に輝く水面へ色づいた葉が落ちるさまを横目に、アサレラは待ち合わせ場所である酒場へ急いだ。


酒場の扉を開いてまず目に入ったのは、店の奥に見える薄紫色だ。迷わずそちらへ向かうと、給仕が料理と酒を運んできているところだった。


「遅くなってすみません」


薄紫色――フィロがちらりとこちらを見上げる。


「いや、ちょうどいい頃合いだ。わたしたちも少し前に着いたからな」


グラスを片手にロモロがこちらへ笑いかける。アサレラは椅子を引き、卓に並べられた料理を見た。茸がたっぷり入った白いスープ、燻製の魚を挟んだパン、ソースがかかった細長い肉。どれも初めて見るものだ。肉をナイフで刺そうとして、アサレラはふと動きを止めた。


「……どうした」


スープを匙で掬っているフィロが、アサレラを一瞥して言う。


「あ、いや、これってなんの肉かなって……ほら、前にエルマー王子が言ってただろ。イーリス教徒は……なんか、肉食べるにも制限があるって」


「おまえはイーリス教徒じゃないだろう。……戒律を守る必要があるのか」


「まあ、ないんだけど……」


少し前のアサレラであれば、フィロの言うようにイーリス教のことなど気にもとめなかっただろう。だがここは聖王国の王都で、アサレラは聖剣の担い手である。


「気にすることはない。アサレラ殿が食べようとしているそれに豚肉は使われていない……ということになっているからな」


「……なっている?」


「真実がどうあれ、そういうことになっている。だからイーリス教徒も食べている。よほど敬虔な信徒でない限りはな」


「えっ? けど……ほんとにそれでいいんですか?」


「当人たちが承知のうえなら、いいのだろう」


そういうものだろうか、とアサレラは今度こそ肉にナイフを突き立てた。

アサレラがオトマー王とミカヤからもたらされた事実を語ると、ロモロは苦い表情で黙り込んだ。


「エルマーはおまえの弟ということか」


アサレラが話しているあいだも食べ続けていたフィロが手を止め、ぽつりと言う。


「そっ……か、そういうことになるのか……」


王妃アシュレイの正体にばかり気を取られ、そこまで考えが及ばなかった。同じ女から生まれたのであれば、父親が違えど確かにエルマーは弟だ。


降って湧いた弟という存在に、アサレラの心はそわついた。喜びとも悲しみとも怒りとも違う感情は定まらず、パンを飲み込んでも取れないところに詰まっているようだった。

小首をかしげたために垂れる髪をさっと払い、フィロが言う。


「王子様とでも呼んでやろうか」


「やめてくれよ……」


ふと視線を動かすと、ロモロが穏やかな眼差しをこちらに注いでいる。なんとなくいたたまれなくなって、アサレラは葡萄酒の入ったグラスを傾けた。ウルティアのものと違い色は白く、甘みがなくすっきりとしている。


「魔王は今……どこにいるんだろうな」


「ローゼンハイムだ」


アサレラはきっぱりと言い切った。


「確証はあるのか? アサレラ殿」


問いかけるロモロに頷きを返し、アサレラは卓上に地図を広げた。


「ローゼンハイムが滅びたのが七年前の夏。トラパニも同じ頃。セイレムが今年の秋、クルトはたぶんセイレムより少し前……」


ウルティアの北西、マドンネンブラウの西、コーデリアの南西。地図上を滑るように移動するアサレラの指先が、北の大地で止まる。


「魔人シルフの魔術はすごかったけど、一晩で国一つを滅ぼすほどじゃなかった。だから魔王はローゼンハイムを滅ぼした後、今もそこにいるんじゃないかって、おれは思う」


「そうだな……コーデリア、ウルティア、マドンネンブラウ、そのいずれでも魔王を見たという話は聞かなかった。サヴォナローラに出現したならどこかに情報が入るはずだし、滅亡以来ローゼンハイムに足を踏み入れた人間はいない。確かに理にかなっているな」


ローゼンハイムを示す指をぐっと握り、アサレラは決然と視線を上げた。


「フィロ、ロモロさん。おれと一緒に来てほしい」


驚いたようにこちらを見る二対の眼差しから逃れたいのを堪え、アサレラは言い募る。


「さっき、エルマー王子と話して、考えたんだ。魔術士が魔王を倒すのに貢献すれば、魔力を持つ人間が無意味に殺されることだってなくなるはずだって」


魔術士が迫害されるようになったのは、魔王が魔術で世界の破滅を目論むためだ。ならばその力を使う者――フィロがアサレラに力を貸せば、魔術がもたらすものは破壊だけではないと証明できる。


「向こうから来てくれれば楽だけど、来ないならこっちから行くしかない。フィロ、ロモロさん、おれと一緒に魔王を倒そう」


聖者たるアサレラは、魔術士が魔人として討伐されることを止めるように言える。だからこそ彼らとともにローゼンハイムへ行きたかった。おのれの内側を探れば、理由は他にもあったかもしれない。それを胸の内にとどめ、アサレラは二人の言葉を待った。


言葉を探すようにさまよわせていた視線を落とし、ロモロがため息をつく。


「アサレラ殿……わたしたちのためを思って言ってくれているのは分かる。だが、ローゼンハイムは……」


「アサレラ。……オレは、おまえについていく」


決して大きくはないその声は、不思議なほど際だってアサレラの耳に響いた。


「フィロ……ほ、ほんとにいいのか?」


「おまえが言い出したことだろう」


ロモロは呆然と息子を見つめている。


「できればロモロさんにも来てほしい、けど……」


ロモロはなにかを考え込むように、卓上の地図に視線を落とす。

やわらかな旋律と、流れるような歌声が聞こえてくる。アサレラは反射的にそちらを見た。どうやら吟遊詩人が歌っているようだ。


「…………アサレラ殿。わたしも同行させてもらう」


振り返ったアサレラははっとした。ロモロの目に決意の色が浮かんでいたからだ。


「……いいんですか?」


「フィロが決断したんだ、わたしはそれを助けたい。それにアサレラ殿。キミのことも」


胸の底から湧き上がる感情はやがて喜びとなって外へあふれ、アサレラは笑った。


「よろしく、二人とも!」

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